諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

29 子どもの側の教育計画#6 良いキャラをあげる

2019年06月09日 | 個別教育計画

保育園でこんなゲームがある。


 


椅子取りゲームの要領で、ある椅子に座った人はウサギの真似をする、次の椅子はライオン、


その次はお巡りさん、バレリーナ、お母さん……となり、子どもたちはそれぞれを工夫しながらその役を演じていく。


 


そして最後の椅子には「じぶん」とある。しばらく考える子ども。……やりようが分からない。


 


ここがこのゲームのミソなのだが、ライオンもお母さんもできても、「じぶん」はできない。自分ってどうやるのか。自分というのは自分だけで“こうだ”と決められない。


 


 


理屈っぽくなって恐縮だが、人というのは、誰かの中あって、なんらかのキャラクターをイメージでき、そこで振舞ってみて人格的な居場所を得ていく、のである。


 


こうしたメカニズムだからこそ、一昨日の主幹会議での私のキャラと、同世代の同僚と他愛もない話をするキャラと、若手のグループのメンバーに指示を出すキャラとは(期待されるものが異なるため)微妙に違う。 さらにプライベートもいれると、かなり多くの私がそれなりのキャラをもち、それぞれのキャラにふさわしい振舞いをしている。その総体(全体)が自分なのであろう。


 


だとするとよいキャラを子どもにかぶせてあげることで、良好な自分観を得、自己肯定感を得ながら成長していくことができると言える。


 


そしてどんなキャラとして迎え入れるかは、先生たちの子どもを見立てるセンスによると言っていいだろう。個々の子どもについてそれぞれのセンスを持ち寄っていろいろ彼のことを話してみる。そのことが、心地よい自分が感じられる人格的な居場所をつくるのだろう。


文字表記をするための話し合う教育計画の作成過程で明るい子ども観が共有されることを、計画本体より大事だと子どもたちは思っている。


 


 


さて、ゲームのつづき。「じぶん」ができなくて困っている子をもちろんそのままにしておかない。


 


その様子をこちら側で見ている子に、この子の良いところを発言してもらうのである。「これが君だよ」と。


 


 


 


「子どもの側の教育計画」了。


 


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27 子どもの側の教育計画#5 愛蔵版をもつ

2019年06月02日 | 個別教育計画

最近、愛読書ということを聞かなくなった気がする。


 


文字は誰でもすぐ活字化できるようになったし、SNSの文字は情報伝達の記号となり、その目的に応じた最低限のワードなり短文だ。


読み返すなんてことはほぼない。


 


 


友人は大学の時の研究に中原中也を選んだ。


「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる


きっと中也の詩は今後もずっと彼の心の中にあるだろう。


 


活字は止まった情報だ。だから余計に時間を経るごとの、あるいは置かれていいる状況での自分が相対的にきわだつ。


愛読書があることは、活字は止まっているゆえに、いつもこちらを見てくれている変わらない友人がいるような感じたりする。


 


まれに“愛蔵版”なんて書かれた単行本があると嬉しいのは、逆に、文字情報との付き合いとして「対話的に付き合う」ことを忘れがちだからだろう。


 


なんでも記号化して処理したくなる現在にあって、特別支援教育には「個別教育計画」なんて文章表記の古風な評価システムがある。


たくさんの個別教育計画をみていると、単なる情報伝達にとどまらないものが多い。こういうものを古風に対話的に読むと、その先生の日々子どもに接する質感のようなものを感じる。


 


若い先生が質感を感じられるよう優れた個別教育計画を愛読?できる機会がもっとあっていい。


 


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25 子どもの側の教育計画#4 自分の側との連動

2019年05月26日 | 個別教育計画
(写真)沢沿いのガクアジサイ

 子どもを教育するということは、子どもの変容を期待することである。
そのシナリオの一つが「個別教育計画」である。

 優れたシナリオで子どもを向上させるべく、チームで話す、本人保護者の想いを確認する、違った角度の第三者の話を聞く、研修で学んだことを考慮する、以前の資料に目を通す、などしているとシナリオを書く材料(ネタ)が大きく膨らむ。

 この膨らみに期待感も膨らませつつ、次に計画としてこの膨らみをギュッと凝縮するように記述する作業にかかる。
 材料の大きさを最大限に生かし、現実の枠の中に落とし込む作業は「ああでもない、こうでもない」を繰り返す努力を要する。

 そして「よし!、納得できるものができた!」と一人完成を喜んだとき、実はこの過程は自分自身の心構え作るための過程だったような気がする。なんかすっきりしたような。

 たくさんの個別教育計画を読んでも同じだ。「この計画は先生自身の腹に落ちている」と感じるのものがある。この先生の今後の実践に期待が拡がるのは当然である。


 子どもの変容を期待するための記述に努力することは、教員自身を変える(成長させる)過程でもある。「子ども側」は「自分の側」と連動している。
  


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23 子どもの側の教育計画#3 試合設定

2019年05月19日 | 個別教育計画
(写真)甲斐駒ケ岳

 例えばバスケットボール部に基礎練習の方法を教え、
「それが、試合で役にたつ。」
といって部員を鼓舞しても動かない。

その代わり、
「2カ月後、7月19日、相北高校と練習試合をすることにした。〇〇アリーナ、14時。」
という設定を伝えた方が部員の士気はあがるだろう。

 向こうの方に目標があって、それにむけて意識が高まり練習が主体的なものになる。その後、技術の必要性や反復の意味が分かってくる。

 パスやリバウンドの技術を教えることを「指導」とすると、試合組むようなことを「設定」とするなら、教育にはその両輪が必要なのだろう。

こんなこと当たり前のようだが、個別教育計画をつくると、未熟なところに目が行き、指導だけが増える面がある。

 設定とは子どもの自由度を増やすことでもあり、大人は待つことが重要になる。

 ついでにいうと、甲子園や箱根駅伝は設定の名作だ。
 たぶん、すべての野球をやる人、走る人にとってこの企画が大きなモティベーションの元になっているはずだ。
 河川敷の野球場でチャンスで打順が回ってきたときふと甲子園のあるシーンを思い出されたり、街中の急坂を箱根の坂に感じて「負けまい」と頑張るのもこの企画の存在による。

 ただ、ドラマ化?されたりしない限り、設定を企てた人についてはあまり話題にならない。主役は子ども達なり選手であって、設定者というのはあくまで黒子である。


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21 子どもの側の教育計画#2 アサガオと支柱

2019年05月12日 | 個別教育計画
 少年時代ラグビーをはじめたばかりの平尾誠二さんはラグビーシューズを買ってもらう。その時以上の嬉しさは、それ以後のラグビー人生でもなかったと生前言っていた。このタイミングのラグビーシューズが、平尾さんの潜在的な力を一気に引き出したのかもしれない。

 これと似たことは誰にでも多少なりともあるのだろう。
 誕生日のプレゼントに友人は顕微鏡をもらった。接眼レンズの中の世界にワクワクしたという。これがきっかけで理学部で生物を研究している。

 兄や姉の聴いているビートルズが流れていて、それがミュージシャンの入口になったとか、たまたま病気で臥せている時、本棚の本に興味をもって後年作家になったとかはよく聞く話である。

 何かとの出合いが、秘めていたポテンシャルが引き出されるきっかけなることが往々にしてある。ちょうどアサガオが双葉から本葉に移行したところで支柱を立てると、アサガオはひとりで蔓を絡ませ、上へ上へと効率よく光合成しながら成長していくように。

 もともと、子ども(大人も)は、なんらかのポテンシャルをもっていて、何かのきっかけでそれが表現された時、思いがけない自分の中のパワーを実感できるのではないか。それが成長につながったり、自信になったりするだろう。 

 だとすると、その子にあった「支柱」を時期を見計らって立ててあげること、あるいは「支柱」に代わるものを自ら見つけられる条件を作ることが教育であると言えるように思う。

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