諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

110 気の利くこと

2020年11月28日 | エッセイ
富士山! 冬 箱根山中城址付近から

シリーズは今週休みます。

養護学校が特別支援学校に変わるころ。養護学校と他校種との情報交換の場が多く持たれていた。

出張の帰りだったか、懇意にしていだたいていた高校の校長先生と車でご一緒させていただいた。
先生は、窓の外を見ながら考えるように、
「この間の会議で、養護学校の校長先生に、養護学校のいわゆる良い先生というのはどんな人ですかとたずねたら、「気の利く人」だというんだけど…」
とおっしゃる。
私にその真意を聞きたかったのだと思うが、若い私は解説めいたことを言うのを憚った。
「そう言われたんですか…」

それをいわれた養護学校の校長先生も優秀な方である。
身体機能のこと、発達のこと、心理のこと、保護者との良好な関係作りとかいろいろな要素はあったはずだが、「気の利くこと」を一番に挙げたのはたしかに少し意外には感じた。
どんな仕事でも「気の利くこと」は前提のようなものではないか…と。


ところが、特に特別支援教育にあっては「気の利くこと」はより一般論以上に積極的に意味があることが、子どもと共にある時間を経ることで分かってくる。

佐藤学さんは、このようなことについて次のように触れている。

これまで20か国以上の学校を訪問し、それぞれの国々で優秀な教師として評価される人々に「教師にとって最も大切な能力は何か」という質問を訪ねてみた。
そのほとんどは「聴く力」とういう回答であった。ここで言われる「聴く力」はもちろん子どもの声(発言やつぶやきだけでなく、声にならない沈黙の声を含む)を聴きとる力を中心としているが、それにとどまるものではない。テキストの中に隠されたことを聞き取る力、そして教師自身の内なる声を聞き取るちからも含まれている。

(『教師 花伝書』小学館)

子どもの声に対し、テキストに対し、自分の内なる声に対し、気が回っていること。これによって、「目の前に展開されている学びの潜在的な可能性を探っている」(同書)というのである。気持ちがはつらつとして、想像性のアンテナがいろいろな方向にむけられた状態?。

佐藤さんの多方向への「聴く力」は、この時の「気の利くこと」と近いだろう。目の前に展開されていることは、こんな力によってより確かな学びの場へとなっていく。
そうするとどんな展開になっていくのか。佐藤さんは別の本で次のように言う。

この学校では子どもも教師も親も一人ひとりが「主人公(protagonist)」だからである。どの子も一人ひとりが自らの願いと意志によって一日の生活と学びを創造している。教師も同様である。一人ひとりが自らの願いと意志によって1日の生活と学びを創造している。その一人ひとりの「主人公」としての日々の営みがオーケストラのように響き合って学校の一日をかたちづくっている。したがって愛育養護学校では同じ光景は一度もない。
一人ひとりの行動を観察していると、同じ行動をくり返しているようだが、その風景と経験を仔細に観察すると同じものは一つもない。穏やかな螺旋階段を一段一段昇るように、子どもも教師も一人ひとりが「主人公」として生活と学びを創造し続けているのである。

(『学びとケアで育つ 愛育養護学校の子ども・教師・親』小学館)

そもそも「気」とは、ウィキペディアによると
「一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこすとされている」
という不思議なものらしい。
その言い方でいくと、「気の利くこと」が、生活と学びを創造し続けている運動を流動的に作用させているといえるかもしれない。

ただ、「気の利くこと」は個々の教師のなかから一定量が自動的に流れるように働くものではないだろう。
条件によって強まり、弱まりもする、そういう実感を教師である私たちはもっている。例えば、日々の疲労もあるし、公私の人間関係もあろう、何らかの努力不足もあるだろう。
個人の問題だけではない、組織としてグループとして工夫が必要な場合もある。

いっそのこと、学校目標を「教師の気の利き率の最大化」としたらどうだろう。
こう書くと多分に空想的だが、「発言やつぶやきだけでなく、声にならない沈黙の声」を受けとめてくれて、「生活と学びを創造し続けて」くれる教師を子どもたちは間違いなく求めている。
このことは空想的ではない。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

109 幸福の種 #8 忠誠と宿命

2020年11月21日 | 幸福の種
富士山! 冬 三つ峠山 ここも有名な富士山展望地です。 

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は72~77/288頁を見ていくことにします。

今回も欲求というものと幸福(≒生きがい)とを考えます。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

2 生きがいを求めるこころ
自己実現への欲求 自由への欲求 意味と価値への欲求


【その場で生きる決意】
たとえ宿命的と形容されるような境遇にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上てその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。そこにはもうぐちの余地はない。そしてぐちこそ生きがい感の最大の敵である。

【自己への忠誠】
本質的な自己を実現して行くには多くの努力と根気が必要とされる。その結果、この目標が少しでも達せらるならば、そこにはすべてを圧倒するようなよろこびが湧きあがるであろう。…
「業績への欲求」とか「自尊心を維持する欲求」などを人間の基本的欲求のうちに数え上げてる学者もあるが、これも根本的に似たところがある。いずれの場合にも、他人の眼に対しての業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係して欲求であると思われる。
もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんな立派にみえようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の眼はーそしてしばしば肉体の眼までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横眼づかいや上眼づかいをするようになる。いきいきと、堂々と歩いて行くためには、どうしてもひとは自己に忠実に「そのあるところのものになる」必要がある。

【性格の要素】
ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめているのではなかろうか。そしてその問に対して求める答えは、どんなものでもよいから自己の生を正当化するするもの、「生肯定的」なものではなくては生きがいは感じられないのであろう。
この肯定の答が簡単にえられるひとは生きて行くことがらくであり、たのしみにちがいない。…ところが、ひとによっては性格の出来が複雑で、劣等感を抱きやすく、他者からの肯定もうけ入れられず、自分で自分の生意味をみとめることもできず、一生をこの意味への探求に苦闘してくらすひともある。


わずか数ページの中に一見矛盾した部分を引用した。
「自己に忠実」であろうとすると「宿命」は受け入れがたいということになるだろう。

しかし、実際はこの2つはリアルな問題である。
前回のキーワード(質のいい未来性と、良質な「基質」の共同体)に続いてこれも幸福論の対抗軸なのかもしれない。

多くの仕事や日常の諸事は意思や希望に関係なく「せざるを得ない」ものと感じるものである。
現実の中に縛りつけられて、それでもそれらを生きるために気持ちに鞭を打って頑張っている時も少なくないだろう。
「宿命」をうけ入れることはそれに対する積極的な答えである。
「多くの努力と根気が必要とされる」本質的な自己を保留しながらも、「宿命」をうけ入れることに路線変更するのである。
そして、その時のこころの変化を成熟と言ったりするのだろう。

しかし、一方で現実に即しているとふと、自分を見失っている感覚も出てくる。
「何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか」という問いである。
そんなうねりがある。

ただ、もともとの「自己への忠誠」の内容が粗略だとずっと自己肯定感は得られにくい。現実に即して生きていくことの代償が「(「自己への忠誠」への)諦め」となることは避けたい。大事にしている「自己への忠誠」が自己肯定感につながらないのは幸福ではない。これは教育の問題でもあろう。

「ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめている」という。私達は小さく一喜一憂して暮らしている。そういう起伏が絶えずあるのだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

108 幸福の種 #7 響きあい

2020年11月14日 | 幸福の種
富士山! 冬 箱根 金時山から

少し単調ですがしばらく続けます。
今回は62~77/288頁を見ていくことにします。

どうやら幸福(≒生きがい)は、食べて命を維持するだけでは満たされない実に多様な要素があることに気づいてきました。
それは同時に、どんな条件下でも個々が努力と工夫しだいで幸福は得られうることのようでもあります。
幸福には、大きさもや重さはないなく、計りにくいようです。
つづけます。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房


2 生きがいを求めるこころ
「未来性への欲求」、「反響への欲求」


【未来性と今日】
未来がひろびろとひらけ、前途希望の光があかるくかがやいているとき、その光に目を吸いつけられて歩くひとは、過去にどのようなことがあったにしても、現在がどんなに苦しいものであっても、「すべてはこれからだ」という期待と意気ごみで心にはりをみって生きて行くことができる。

多くのひとは子孫とか民族国家とか文化社会、人類の進歩や発展に夢を託し、それらの大きな流れのなかに、その一部として自己の未来性を感じ、それを支えに生きて行く。人類絶滅の危機にさらされたいる現在では、そうした未来性への欲求がどれほどまでに、はばまれていることであろうか。
そこに現在における生きがいの問題の大きな困難の一つがある。


【「基質」の中で響きあうこと】
子供は最初からひとびとのなかにうまれてきて、その人格はひとびとの相互関係のなかでかたちづくられる。まず他人の存在というものがあって、自我は最初それと渾然一体になっているが、次第に他人との交渉という経験を通して少しずつ自我の輪郭がはっきりと意識されて行く。
彼(テイヤール・ド・シャルダン)によれば、この共同世界は思想という「基質」であって、人間たちはその「基質」のなかに浸って生存し、分業と協力を通して互いに影響し合い、支え合い、人類という大きな有機体を作っているのだという。ゆえに自己の生存に対する反響を求めるということは、人間の最も内在的な欲求と考えられるのである。


今回は、「未来性への欲求」と「反響への欲求」からの抜粋である。
未来性が星を眺めることなら、「基質」へ反響は地上の人間(じんかん)のことであろうか。

未来性については、テキストの書かれた50年前より一層「人類の進歩や発展に夢を託」すことが行き詰まっていると感じる人が多いのではないか。
しかし、実際に「子孫とか民族国家とか文化社会、人類の進歩や発展に夢を託し」ていたのは人類の永い歴史のほんの一瞬なのではないかとも思う。
大味な言いようで気がひけるが、未来性ってもっと近しい実感をともなったものではないだろうか。近いところの質のいい未来性をみんなで探すべきなのではないか。

2つ目の引用の見出しを「「基質」の中で響きあうこと」とした。「基質」を共通文化のようにもったグループに属しそれに浸り、そこで互いが響きあうこと、そこに幸福を感じている人は実際多いことだろう。
このグループ(すなわち「共同世界」)がより良質な「基質」とともにあることが、個々の幸福とつながっていることは別の言い方でも繰り返してきた気がする。
それにしても、短文にしてなんと端的に人間の存在の実態を上手に表した文なのだろう。

質のいい未来性と、良質な「基質」の共同体ということは、幸福論のキーワドになりうると感じる。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

107 幸福の種 #6 変化を求める

2020年11月11日 | 幸福の種
富士山! 冬 丹沢 塔ノ岳から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は55~60/288頁を見ていくことにします。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房


2 生きがいを求めるこころ
「生存充実感への欲求」、「変化への欲求」

【共通性と個人差】
 生命を前進させるもの、つまり、よころび、勇気。希望などのようなもので自分の生体験がみたせれているという感じを人間はすべて求めていると考えられる。
その欲求の強さには個人差があり、生に対してもともとどん底にできているひとと、つつましやか、またはのんきにできているひとがある。

【精神生活の上の失業】
 ふつうの健康の持主が朝おきて、その日、自分のなすべき仕事は何なのかわからない、という状況にあるとすれば、それだけでも生存の空虚さに圧倒されるにちがいない。
社会生活の上での失業はもちろんのこと、精神生活の上での失業はこの点でなお一層大きな不幸である。

【冒険の原動力】
 幼児がおもちゃでも時計でも、なかに何がはいっているかをしらべようとして、容赦なくこわしてしまう姿を思い浮かべれば、これが人間に備わっている基本的な欲求のひとつであることがわかる。
これが人間を内外の冒険と探究にかりたてる原動力であろう。

【退屈】
 生活に変化がなくなると人間は退屈する。
それは精神が健康である証拠なのであって、心がやむと退屈は感じられなくなることが多い。

【大ていは、】
「何かが起こらなくてならない、―これが人間のおっぱじめの大ていのことの説明さ。何かがおこらなくてはならない、愛なき奴れい状態でさえも、戦争でさえも、死でさえも」
(文中引用 カミユ『転落』)

【「退屈病」がはびこる】
 生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。
生活のしかた、ことばの使い方、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。
かりに平和がつづき、オートメーションが発達し、休日がふえるならば、よほど工夫しないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。

【「生存の窓口」】
 愛生園の患者の大きな悩みの一つは退屈ということであったが、…窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面にむかって心の眼をこらし、そこからくみとる歌や俳句の形で表現し、光を失った目をつぶり、顔をややなな上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリと療友に詩を口授する人の姿。
…肉体的機能が制限されたひとは、かえってエネルギーを注意が許されたせまい「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的な産物をつくり出しうるのであろう。

今回の引用からも学ぶ点が多い。

「精神生活の上での失業」対策が、習俗によって画一的にすすでいくということを1966年に言っている。
生きている間の膨大な時間を「生存充実感」にかえようと様々「おっぱじめる」企画をするのが人なのだが、その質を問うている。

 現在は習俗によって、生活のしかた、ことばの使い方…が画一化されながら、「おっぱじめる」企画さえも商品化されているようにも感じる。
商品化された「おっぱじめ」はすぐに陳腐化するのなら、健全にベクトルを自分の内面にむけることなのだろうか。
それにしても、そのテーマを探すことや、それに向かわせるエネルギーがいるわけだから、幸福(生存充実感)は自家発電機で回す頑張りは不可欠なのだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

106 幸福の種 #5 生存充実感

2020年11月07日 | 幸福の種
富士山! 晩秋 とても遠いです(看板の左上)。日光の奥白根山から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は50~60/288頁を見ていくことにします。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

2 生きがいを求めるこころ 前文から

【食糧<護符】
 南方で敗戦に会い、密林に逃げこんで、草や木の実や魚など辛うじて食いつないで来たという二人の元日本兵の手記をよんでみても、その長い年月の間、彼らの存在を支えて来たものはただ生物学的な「生きる意志」だけでなく、やはり二人の間の共同意識や過去の記憶、未来への希望などであったことがうかがえる。
肌身はなさず大切につけていた護符や心に抱いていた信心も、食糧や物理的な身の安全に劣らず大切な要素であったという。
結局食糧の大切さはただそれだけではあくまでも生理的なもので、身体と精神に低い次元の安定をもたらすだけではないであろうか。

【安定<生きがい】
 もし生きがいへの欲求が単なる社会的適応と安定を指向するものならば、ある集団の枠のなかでこその習俗や道徳にかなった生活様式をいとなみ、対人関係もうまく行けば、それだけで生きがい感がうまれるはずである。
ところが事実はかならずしもそうではなく、生きがいをもとめてわざわざ社会的な安定をやぶることさえある。

【「成功」<経験の「高揚」】
「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに「成功」であるかのようにみえようとも、もしあなた自身が経験の「高揚」を感じなければ、それはあなたにとって成功ではないだろう。それゆえに時折われわれからみると成功したようにみえる人が自殺をし、世間が「偉大」であると考えている芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしい、といってわれわれを驚かせるのである。」
(本文中の引用 アメリカの心理学者キャントリル)


 生きがいは、食糧があることや、社会適応といった条件だけでは満たされない、内面的なファクターが大きいのだという。
神谷さんはその内面の充足感をここで「生存充実感」と名付けている。

 人は自分を生きがい感を単純な生存条件の中だけでなく、自己のこころに自問自答するように探すものであると。
「生存充実感」のために、悩んだり、迷ったりするのは当たり前だということでもあるだろう。

 よく人生を旅の例えたりする。実際に人生に迷いが生じた時に実際に旅に出たりする。
実際の幸福は「幸福駅」のような決まった目的地があるわけでものない。
だから、探すべきものとして幸福(この場合生きがい)は定義されざる得ない。
そのつもりで望むべきなのだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする