諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

237 カメラを持たない写真家

2024年07月21日 | エッセイ
北アルプスの花畑  登山口蓮華温泉に下山。翌日、ロッジから見上げると歩いた稜線が見えました。(左から 雪倉岳、赤男山、朝日岳)

ある有名な写真家が、自然の風景などを見たときに、これを写真としてどう表現するかという目で見ることが習慣になって、被写体の自然そのものを素直に体感できにくくなっていると言う。

また、ベストセラー作家の探検家は、探検を文章にするのではなく、本にまとめるために探検をする傾向が出ることはもう避けられない、という。写真家の実情と似ている。

カメラを通して自然を描写する行為、自然と対峙してそれを全身で受け止める行為が、一定の意図をもちすぎてしまうと、かえって自然の全体像を感じにくくなる?。

津守さんの保育記録を読むと感じることを大事にしてる。
津守さんは実践をまとめる前に、全身で子どもたちと遊んでいる、その中でのこと。

そこに子どもがあり、こちらに自分がある。そこにはピュアな二者関係があるだけなのだが、そこに「教育」(特定の意図をもった保育)などのフィルターが差し挟まれることによって、その子の丸ごとの実態が捉え損われるのではないだろうか。

名優 日下武史さんの舞台である。
患者役の日下さんが、入院中のベッドにあって、ベテランの看護師たちに通りいっぺん(に見える)の処置と励ましを受けている中、新米の看護師が日下さんの担当になるという設定である。
新米の看護師は、いろいろなことに齟齬があって、小さな失敗を繰り返しながらも、日下さんを自分の責任として何とか励まそうとする。その一生懸命な感性こそが患者とっては、大きな励みになっていく。その辺の機微が見事に表現された作品だった。
脚本はけして、通常の介護のあり方に言及しているものではない。生きることと、傍にいる者との関係の本質を述べていたのである。

著名な研究者であった津守さんが、

客観的実証科学の方法論によってその関係を明らかにしたと考え、長年を費やしてきたが、その試みは放棄せざる得なかった。保育は人と人とが直接かかわる仕事であり、知性も想像力も含めた人間のすべてがかかっているから、今考えれば当然である。

といって、研究室から保育現場に降り立ったは、同じ研究者の伊藤隆二さんが、同じ頃『この子らに詫びる』という有名な本を著したことと共通点を感じる。

写真家があえてカメラを持たずに自然風景に飛び込んでいくようなことのように思える。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

227 思い出すこと

2024年03月24日 | エッセイ
伊豆半島の達磨山付近からの駿河湾越しの富士山

この時期教員は忙しい。
目の前にある仕事をしながら次のせねばならないこと、さらにその次…、とキリがなく続く。
この時期は特に今現在に余裕がないから視野は極端に狭くなっている。
だが、一方で余裕ができた時には考えたいことを少しでも描いておくことは大切ではないだろうか。
ポストイットにメモしておくように。


上智大学のアルフォンス・デーケン先生は、「死の準備教育」を提唱されていた。

死は誰もが迎えるものでありながら、死に対する教育はほぼ行われていないと、という。
今日若者の自殺が社会問題のように語られることが多くなった。たぶん先生が生きておられたら、改めて、誰もが避けられない死を正面から取り上げることが必要ですね、と言われたであろう。

また、たまたま伺った公開講座の中では、

特に近しい人にとって、事故や突然の災害で大切な人を失ったとき、気持ちのやり場が難しい。やってあげるべきだったこと、伝えておくべきだったことが、重い後悔とともにのちのちまで残ってしまう。

という主旨のことを述べられていた。
いのちの重さは日頃はことさらには意識されない。
こういうことはこそ時々思い出さないといけないことなのではないだろうか。

そして、先生はこのシリアスなテーマの講義にバランスをとるように、大きな体に笑顔をうかべられて、「じゃ、ラーメン食べにいこうか」と時々おっしゃったりしていた。そんな暖かさも含めて。


鎌倉 円覚寺に横田南嶺老師は、説法の冒頭で必ず座禅の基本を毎回話される。

まず手を合わせて腰骨を立てて、

両方の手のひらと手のひらを胸の前に合わせます。

すっと背筋を伸ばして顎を引いて少しうつむくようにして目を閉じます。

そして目を閉じて、


そのあと、気持ちが落ち着いてきた頃を見計らってこう加えていく、

まずお互いがこのように生まれたことの不思議に手を合わせて感謝をいたします。

何もなかったところに両親父と母との出会いがあって、私たちはこの世に命をいただきました。

この不思議にまず手を合わせて感謝をいたします。

それから次に今日まで生きておられたことの不思議に手を合わせて感謝をいたします。

生まれた時は1人では何もできませんでした。

それが両親や家族や学校に行くようになれば、先生や友達や近所の人たちやいろんな人のお世話になって、今日までこうして生きてこられました。 

この不思議に手を合わせて感謝をいたします。

そして最後に今日ここで、今ここでこうしてお互いに巡り会うことができました。

このご縁の不思議に手を合わせて感謝をいたしますそれではゆっくりと目を開いていきます。

昔はこうした座禅会に地域の多数の人々が集まり、全員で和尚さんの説法を聞き、座禅などの修養の時間を持っていた。
現代より意識的に「思い出さねばいけないことの時間」を設けていたのではないか。

名著『豊かさとは何か』の 暉峻淑子さんは「忙しいとは、心を亡くすと書く」
と言う。



で、今後テキストにしていく予定の
津守 真『保育の地平』ミネルヴァ書房

はまさに忙しい渦中にあっては落ち着いて読めない内容です。
シリーズ「保育の歩(ほ)」はしばらくお休みします。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

222 言葉の限界

2024年01月14日 | エッセイ
箱根八里(三島大社→小田原城) 峠から少し下ると芦ノ湖が広がります。冬場なので人影まばら この先が箱根の関所です。

保育について、テキストを追っていって気が付いてくるのは、保育ということの捉えきらないさである。
保育はそこに子どもあって、ある動きと、ある暖かさと、ある感触を伴って、保育者自身のある質感をともなった受け止めようもあるのだが、それは言葉では表しにくい。

保育という営みみたいなことを「保育」として決めて言葉にすると、なんとなくそれを手にいれたような気がしてしまう。
ところが仮にそれに「優れた」など言葉をくわえ、「優れた保育」とは、と問われたとき、誰もがすぐには答えられず、使い慣れた「保育」がいかに曖昧なものだったか実感してしまうだろう。

そもそも言葉には限界がある。
コーヒーという言葉は誰でも承知している。
しかし、おいしいコーヒーの味というと、もう言葉では説明できない。
ただ、おいしいというのみで、コーヒーを飲んだこと少ない人にはイメージも伝えられない。
味覚は言葉に変換できない。

モーツァルトは誰でも知っているが、モーツァルトのピアノ曲がいかに名曲なのかは、言葉では表現できない。
やってみるとひどく不器用な感じになる。

こんな例にもあてはまる。
向山洋一さんだったか、
「優れた教師が、各学校に一人必ずいる」
という。
この場合の「優れた教師」は、教員だったら、授業力があるのか、生徒指導に長けているのか、保護者との協調力があるのか、ある程度想像がつく。
しかし、実際はその学校の空気を吸いながら、ある程度の時間を一緒にすごして〝それ”が分かるのであって、とても言葉では伝えられるものではない。

ほんとうは言葉では表せないことも、なんでも便宜的にまとめてひとつの言葉にしているものである。
言葉でないと表せられないし、そうしないと社会的なやりとりが成り立ちにくい、そもそも思考も言葉によるから原理的に仕方がない。
が、そもそも言葉では覆えないことも多いことを再認識することは改めて重要ではないか。

保育所も学校も言葉や記号が求められる。
慣例的な言葉をさがしてデリケートな感覚さえもゆだねてしまう。
すぐにわかり得ないことも保留せず統計処理によって明晰にしようとするIT技術の活用も習慣になってきている。
このなかで、保育や教育も、容易に「さまざまなこと」が言葉に置き換わり身体から離れていく。

まずは「あるけど見えないもの」があること、「感覚の領域」があること、そしてそれをどう育んでいくのか、それがヒューマンサービス全般の課題なのだろう。
言葉が届かないことへのセンスと共有。

そういえば、幸福学という分野があるようだが、他の学問領域のように言葉や記号を積み上げ進歩させていくのが難しいようだ。保育にも似た感触がある。

以上のことは、宮城まり子さんの次に言葉によって触発されものです。
その言葉の中にあるものは、こちらの想像力にまかされいる。

私は彼等と共に泣き
また共に笑った
彼等は、ただ私と共にあり
私はただ彼等と共にあった

       宮城まり子    


※ この言葉、箱根峠に置かれていた石碑に刻まれたものです。
偶然見つけたのですが、ひっそりと置かれていてこの機会にとりあげました。




    





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

218 居場所づくりの視点・論点

2023年11月19日 | エッセイ
箱根八里 (三島大社→小田原城) 三島から一里の地点 初冬の富士山の朝

HNK「視点・論点」(10月2日放送)で、湯浅 誠さんが「居場所とめざすべき社会」という話をされていた。
居場所づくりから出発した社会観は説得力がある。

人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。

一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
(しかし)今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。

居場所づくりとは認められる場をたくさんつくるということである。
学校も一義的に居場所であるべきなのはいうまでもない。
湯浅さんは、「教育課程からの疎外」という認識もしている。学校はある子には居場所になりにくいことを指摘している。

放送の内容(全文)

あなたに居場所はありますかそう聞かれたら何と答えになるでしょうか。
自宅と答える方は多いでしょう。ご自宅のどこですか。自分の部屋リビング、お風呂、トイレ、そのすべて、あるいはいずれでもない。
夜中にガレージに止まっている車の中でラジオを聴きながら缶麦酒を飲むことだと言った女性がいました。人それぞれだと思います。
今日は居場所について考えることを通じて、私たちの社会の有り様を考えたいと思います。

広辞苑によれば、居場所とは、いるところ、居所と説明されています。
今自分がいる場所が居場所なのであれば、今の私にとって居場所とは、この場所と言うことになりますが、しかし、今私はテレビカメラを前に慣れない収録で緊張しており、このNHKのスタジオが私の居場所ですと言えるかというと疑問です。ここには居場所感がありません。

実際の用法においては、多くの場合、人は居場所感を抱ける場所を居場所と呼んでいます。居心地が良くない場所は、現に自分がいる場所ではあっても居場所感を抱けないので、居場所とは呼びません。
ではどのような場所に人は居場所感を抱くのでしょうか。

例えば小中学生にアンケートをとると、約半数は学校を居場所だと答え、そして約半数は、学校は居場所ではないと答えます。同じ〇〇小学校の3年1組でもそこを居場所と感じられる子どももいればそうでないこと思います。言うまでもなくクラスメイトとの関係、教師との関係が影響するからです。
居場所間の中身を解明するカギは関係性にありそうです。居場所感と関係性の結びつけ方は多様です。人や物、自然との良好な関係性があれば、人はそこに居場所感を抱きます。
また、居心地の悪い関係性から逃れられる場所に居場所感を抱くというように、関係性と居場所感が逆の形でつながっていることもあるでしょう。

はっきりしている事は、暮らしの中に居場所感を抱ける関係性のある場所が十分にある、たくさんある、そういう人の幸福感は高く、逆に自分が居場所感を抱ける場所は、世の中のどこにもないという人の幸福感は低いと言うことです。中には、それを理由に自殺してしまう人もおり、居場所のあるなしは人間にとって切実な問題です。

昔は街に自由に館入れる雑木林があって、私はそこでチャンバラをやって遊びました。住宅街の中に空き地があって草野球をやりました。駄菓子屋があってそこでたむろしました。
しかし、私の暮らす街からはすべてなくなりました。自分が子どもの頃はもっとたくさんのスペースが街なかにあって、そこで人や自然と良好な関係を作って、居場所感を抱き時にしんどい関係から逃れて居場所感を抱いていた。

そういうスペースや関係性を今の時代において復活させたい、新たに作り出したいそう願う大人たちが行っている営みを「子どもの居場所づくり」と呼びます。私が関わっている子ども食堂もそのうちの1つです。

子ども食堂は初めて誕生してからまだ10年、新しい現象ですが、近年は毎年1000件以上増え続けており、もうすぐ全国の中学校数を超えます。
子ども食堂が増えても子どもの居場所が増えるとは限りません。
学校があってもそこに居場所感を抱けない子どもがいるように、子ども食堂があってもそこに居場所感を抱けない子どもはいるでしょう。
ですが、人々はその営みを止めません。なぜなら、確かにその場とそこでの関係性に居場所感を抱く子どもがいて、それが手ごたえとなっているからです。

自分たちは誰かの大切な居場所を確かに作れている子ども食堂は大人の居場所にもなっています。子ども食堂は義務で行く場所ではありません。そして運営されている方たちはここで一緒に食べようと思ってくれる人を分け隔てなく、受け入れたいそう思っている場合が多いです。ですから8割の子ども食堂は参加に条件はなく、公園のようにきた人たち全てを受け入れており、結果的に6割以上の子ども食堂には高齢者も参加しています。
そして今、年間延べ1270万人の人たちが子ども食堂に参加するに至っています。私たちはこうした居場所づくりを推進しています。子どもの居場所づくりみんなの居場所づくりです。

目指しているのは「どこも」と「どこか」が両立した状態です。「どこも」と言うのは、家庭も職場も、学校も地域も、子ども食堂も高齢者サロンも、と言うように暮らしの中で過ごす様々な場所がどこもかしこも居場所になる状態です。AもBもと言う形でより多くの人によりたくさんの居場所がある状態を指します。

そして「どこか」とは、それでも多くの場が自分の居場所にはならないんだ、とそういう事情を抱えた人はいますから、家庭がダメなら、地域の居場所が、学校がダメなら、フリースクールが、リアルがダメなら、オンラインだと、「AがダメならB」という形で、どんな人にも少なくとも1つは居場所がある。そういう状態を指します。この「どこも」と「どこか」が十全に満たされたとき、私たちの社会はすべての人がつながりを感じながら、幸福に生きられる社会になるでしょう。

私はそれが私たちの社会が目指すべき新しい経済成長の形でもあると考えています。GDPだけを見れば家族が揃って手料理を食べるより、一人一人がバラバラに外食したほうがより多くの金額が消費され、GDPが増えます。
しかしそれが一人ひとりの幸福感を高めるかはまた別の話でしょう。そうではなく、一人ひとりの幸福感を高めることを主眼に置くんです。成長あきらめるのではありません。家族や地域を犠牲にしてでも成長、ではなくて、一人ひとりの幸福感を高める成長を目指す。

人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。

人は認められることに主眼を置く場所に居場所感を抱きます。
頑張ってもいいが、頑張らなくてもいい、そう認められて初めて頑張れるようなところが人間にはあるからです。

私たちはずっと頑張る事を起点に経済成長を考えてきました。そしてみんながものすごく頑張ってきました。しかしこの30年間、日本はまともに成長しませんでした。成長したのは日本よりも残業もしない休暇もたくさん取る日本ほどには頑張らない国々でした。
もしかしたらみんなすでに頑張らないと認められない、と言う回路では頑張らなくなっているのではないでしょうか。
今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。

こだま食堂ではここだと「お家で食べられないものを食べてくれる」という保護者の声をとてもよく聞きます。宿題をやってる娘の姿を見て、「こんなに長く集中していられる娘を見たのは初めてだ」と驚いていた保護者もいました。
居場所では人は普段出してる以上の力を出します。それは成長の源泉です。それは誰かが食べろ、勉強しろと叱咤激励しているからではなく、「頑張るのもすごいけど、頑張らなくてもすごいよ」とその人を認めているからその力が出てきます。

人々が続々と居場所を立ち上げていく背景に、私たちの社会のありようや進むべき未来についてのどのような願いがあるのか、もっと耳を傾け、人々の願いに沿った世の中を作っていきたいと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

212 伯父さんのネクタイ

2023年08月13日 | エッセイ
間ノ岳から北岳へ 深田久弥さんの「この北岳の高潔な気品は本当に山を見ることの好きな人だけが知っていよう。」という一節を思い出しつつ出発

伯父さんは農家である。
むかしから、東京で親戚が集まるとひときわ日焼けした顔で大きく笑いつつ、都市部に住む親戚のよもやま話を黙って聞いていた。
そして、いろいろな場面できりっとしめるネクタイが不思議に似合った。

夏休み、伯父さんの農場に遊びにいくことがあった。
子どもだった私は納屋とか作業小屋の周りで従兄弟と虫取りやボール投げに興じていると、ずっと伯父さんは玉ねぎの仕分けをしていた。
翌日は、早朝から石垣の隙間の雑草をとり、トラックにたくさんの重そうなコンテナを積んで泥のついた長靴のまま街の市場に向かっていった。朝食は叔母さんのにぎったおにぎりを車中で食べるのだという。

その後も、害虫のこと、卸の値崩れのこと、台風や日照り、JAや他の農家との付き合い、人手不足、怪我をしたこと、開発によって山から獣が下りてくる被害も父経由で聞いていた。

こうした苦労が伯父さんのあの日焼けと重なった。

「そりゃ、仕事さぁ」

とすら伯父さんは言わない。

ネクタイの伯父さんは「家の方針」で農業をやることになったらしい。
東京育ちの伯父が戦時中の疎開で数年いただけのこの地域で農業をせよ、というほど「方針」は強かった。旧家制度の雰囲気が残っていただろうし、戦後の混沌とした事情もあったのだろう。

当の伯父さんは、そのころ世田谷区の大学に通っていた。
野球部の名ショートだったと父は自慢の兄について時々話すが、この若い伯父が、山の向こうの山村で鍬をもつ生活に入ることになった。

「あの頃はまだ戦後でなぁ」

で、実際今では想像もできない苦労があったようだ。
その後、ずっとその土地で農業をしている。

テレビで、
「畑に足を運んで、野菜(作物)にたくさん足音を聞かせてやることだねぇ」
という農家の方があった。
そういうことなのだろうと思う反面、農家はつらい。
野菜はいろいろな条件と手間がなければ出荷までこぎつけられない。
それでいて、そんな「足音」を聞かせたトマトであっても、人はそれが特別なトマトであるとは思ってはくれない。足音の数が卸値に反映するとはかぎらない。

伯父さんも、そうしたことを「そういうものだ」と受けいれながらずっとやってきたにちがいない。否、何とかやってきた、のかもしれない。

私も学校勤めをするようになったころ。
伯父さんの話し中に気が付くことがあった。
「百姓」という言葉である。
「百姓はさぁ」
「だって百姓だもんな」
叔母さんも、
「最近お父さん偉いのよ、「俺は百姓だ」って言うの」
と笑った。
少しの変化、でもその中に(僭越ながら)伯父さんのきりっとした格好良さを感じた。

「とにかく手間かけねーとトマトにならねんだよ」
とは言わないが、「百姓」の気分の中には、作物を育てることへの強さがある。


子どもたちもいろいろな条件の中で生きている。
何とかしてやらないと、とぐっと力を入れる時、伯父さんの言葉を思い出す。

「俺は、百姓だからさあ」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする