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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

264 幸福をどうするか #16 4つの因子の激励

2025年04月20日 | 幸福をどうするか
5月焼岳🆕 まだ雪の残る北アルプス焼岳、アイゼンもってスタート、樹林帯を抜けてい行きます。頂上からは穂高山塊が見えるはず。

続けます。

幸福学では、アンケートと統計という工学的な方法で、「幸福」の棲み処と、それらを統合した大きな4つの概念を見出してきていると述べた。

漠然とした「幸福」も、実は誰でも着目点を持てば、日常的に「幸福」を引き付けられ、実態感がもちうる。その可能性を拡げた。
それは決して、大きな条件の獲得ではなく、常の行動習慣を少し変えるだけでというのかが意外なほど多いのである。

「お金がもっとあったら」「もっと良い環境の場所に住んだら」「もっと偉くなって」「親が〇〇だったら」と考えてしまう条件的な幸福感とは違い、「スターバックスで挨拶する」、「人のためにお土産を買ってきてあげる」、「誰にも命じられない楽しみを自分で見つけること」、「楽観的な友達と付き合うこと」、「まずはやってみようと行動を起こすこと」など、幸福は遠い存在ではないことを提唱している。

そして、前野さんは、著作のなかで幸福を「4つの因子」にまとめ上げるにとどまらず、それぞれの説明の中でお考えやエピソードを添えて、それぞれの因子のイメージをもっと鮮明になるようしている。そこにも幸せのコツ?があるように思うので、私が傍線をした部分(恐縮ですが)を引用してみよう。

「やってみよう!」因子の部分から

幸せの第一因子とは、「地球上の人類、70億人が、70億通りのやり方で、小さくてもいいから、自分らしさを見つけ、その70億分の1の個性を生かして、社会の中で自分らしく生きていくようなあり方」なのではないかと思うのです。

なんだっていいんです。でも、「ただ普通」ではなく、自分は何が面白くて、何を求めているのかを、明確にわかっている人こそ、幸せな傾向がある。

変でもいいし、意味がなくても良い。例えば、「棚田で騒ぐ」と言う活動している人がいます。一見、意味がわからない。経済合理性から考えると、一見、意味がない。しかし、やっているみんなは楽しいです。思い出になる。相互理解になる。団結力にもなる。地域の力になるんです。それでいいじゃないですか。

世界は、誰とでもリアルにコミニケーションできる社会に向かって発展していくのだと思います。話を戻すと、そこでの「自己実現と成長」は極めて多様です。画一化時代の終焉です。

近代以来の大規模化、合理化効率化は、皆さんご存知のように、画一を発展させました。日本のどこの都市に行っても同じようなコンビニがある。いや、世界のどの都市に行っても、同じようなハンバーガーショップがある。そして、インターネット。ネパールからインドからでも、瞬時に情報を得ることができます。だから、世界中の流行を、どこにでも享受できます。まさに画一化の進展です。しかし、現代は、確かにうんざりし始めている。人々はもっと個性的でありたいはずです。みんな、自分らしく、自分なりに、自分だけの人生を歩みたいはずです。小さくても、自分だけの物語を。


ここについては共感する部分が大きい。近代以降の学校は画一的な教育内容を段階的に編成したカリキュラムを同一年齢の集団で教授する方法で行ってきた。その「画一」に対して適応できない子、つまり「通常のカリキュラムが学習課題としてふさわしくない」子は特別支援教育の対象にならざる得ない。「画一社会」は「障害者」を産む面がある。
逆に「画一時代の終焉」への方向性は、インクルーシブ社会を促進するものであろう。


「ありがとう!」因子の部分から

「密接な、他者との社会的なつながりの多様性(多様な人と接すること)と接触の頻度が高い人は、主観的幸福が高い傾向にある。一方、つながりの数(接する人の数) =主観的幸福にあまり関係しない」と言う結果があります。
要するに、友達(密接な、他者)が多いかどうかはあまり幸福には関係ありません。少し意外ですね。これに対し、多様な友達がいる事は、幸せと相関があります。同じような友達がたくさんいるよりも、多様な友達がいる人の方が、幸せな傾向があるんです。つまり、いろいろな職業、いろいろな年齢、いろいろな性格、いろいろな国籍の友達を持っている人の方が、そうでない人も幸せなのです。さらに、そんないろいろ友達と接するのが高い方が幸せなのです。

社会貢献に尽力されている方は、逆に、自分が幸せになりたいからではなく、社会の中を幸せにしたいから、貢献したいとお考えなのだと思います。「自分が幸せになるために社会貢献をする」なんて、そんな打算的な発想がおかしい、本末転倒も甚だしい、と憤慨されたかもしれません。しかし、自分では目指していなくても、前に述べたように「親切な人は幸せ」な傾向があります。だから、人を幸せにしたいと思っている人は、自然と幸せになるようにできているのです。社会貢献をしたくないと言う事は、周り回って、幸せになりたくない、と言っているのと、同じことになってしまうのです。「自分が幸せになりたかったら、人を幸せにせよ」です。

利他の精神は、すべの宗教に共通しているのではないか。それは積極的な社会への適応になるし、実際周囲に入り込みやすい。気持ちも明るく開けてくる。でも「多様な友達」をつくることへの苦手意識をどうすかが残る。

「何とかなる!」因子の部分から


1990年代に人格特性や主観的幸福の50%程度は先天的に遺伝によって決まっている、と言う研究結果が発表され、世の中を驚かせたことがありました。

最近でも、高度に関係する神経伝達物質セロトニンの伝達を司る遺伝子の方により幸福度が異なる、と言うような研究が多く行われています。セロトニンは精神安定に寄与する脳内物質で血では幸福物質と呼ばれることがあります。セロトニンの不足が情緒不安定や鬱状態を引き起こすことがあると言われています。

では、生まれつき幸福感を感じにくいキスの人は、幸せになれないのでしょうか。
私はそうでないとはっきり言い切れます。なぜなら、私自身、子供の頃は、内向的、悲観的、神経質だったのですが、今ではそうでは無いからです。
たとえ、気質の半分は先天的に決まっているとしても、残りの半分は後天的な努力で変えられます。悲観的な人も、大丈夫。

日本人は諸外国人に比べてセロトニンの分泌が少なく、もともと幸せになりにくい国民であるらしい、などと言う研究結果があります。だったら、帰ればいい。セロトニンが溢れ出るような楽観的な自分を作ればいいんです。

自分が笑ったり、怒ったり、悲しんだりしているとしましょう。これが、あなたの心が行っている「認知」です。「メタ認知」とは、「笑ったり、怒ったり、悲しんだり」している自分を客観的に見ている心の動きのことです。人間は、さすが、高度な動物で、認知とメタ認知を同時に行うことができます。

自分を変えるには、自分は今どう振る舞っているのかを、メタな視点から冷静に見る必要があります。メタ認知をしているから、自分の状態が客観的にわかる。だから、改善できる。つまり変われるのです。

日本人はいろいろな調査で常に幸福度60点とでるのは、このセロトンニンの分泌という生理的なことに起因しているのかもしれない。だだ大切なことは心配性にあまり引っ張られずに自分を客観視し、努力によってそれは変わるのだという。メタ認知がその道を示す。


「あなたらしく!」印子から

アメリカ人は「人の目を気にしない傾向」が強く、日本人を含む東アジア人は「人の目を気にする傾向」が強いと言われます。東アジアは、調和を重んじる社会。目立たず、人と同じように振る舞うことが、均一社会での維持のために大事。だから、人と自分をよく比較し、人と同じように行動することが重視されてきた、と言われます。

1度しかない人生、これまで伸び行ってきたように、ささやかでも自分だけの成長と自己実現に充実感を手に入れ、多様な友達を持ち、楽観的によく笑い、人目は気にせず、楽しく生きたほうがいいと思うんですよね。その極限が、変人です。
私も返事になるべきだと、もっと早く気づいていたら、自分の人生をもっとエキサイティングだったろうと思います。


前野さんはここで変人になる方法?を紹介している。変人というと奇抜だが、「自分だけの物語」を同調圧力に抗して作り上げるためにこれだけのインパクトが必要だと言いたいのだろう。いずれのしても特別支援教育にとっても躊躇なく生徒それぞれの世界を大事にすることに肯定的になれる。もちろんソーシャルスキルは大事であるが。

幸福論、そろそろまとめに入ります。




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