諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

206 保育の歩(ほ)#2 「いたずらっ子にしよう」

2023年05月28日 | 保育の歩
間ノ岳から北岳へ 仙塩尾根(仙丈ケ岳から塩見岳に渡る長大な尾根)の途中に登り詰めたところ 地味だけここを歩いてみたかった。

子どもには「かけがえのない未来」であり、予定の決められていない時間こそが財産だと養老孟司さんはいう。
子ども自身による未来決定に対し、大人はそれを整える態度で「手入れ」に徹することだと。

児童心理学者の平井信義さんは臨床的な立場で子どもと付き合い、「いたずらっ子にしよう」と提唱する。

人格構造については、研究者によって様々な見解が示されているが、私は情緒(思いやりに発達する)、自発性(意欲に結びつく)、社会性、知的能力の4つの要素を加えて、それを三角形で示している。(※注 情緒を三角形の底辺にし、その上に、自発性、社会性、知的能力の順に積みあがる)最も人格にとって重要な意味を持っている要素は、情緒であり、情緒が安定しており、親や保護者・教師から「思いやり」を受ければ、「子どもの思いやり」は、順調に発達し、それは「愛」に結びつく。愛情が深いという事は、人間として最も重要な資質と言える。次いで「自発性」は、自己思考、自己課題の発見と選択、自己決定、自己実現などの内容を持ち、その発達によって「意欲的」な生活を送ることになるし、生活は生き生きとしている。以上の2つが順調に発達すれば、社会性もまた順調に発達する。

という理論であり、特に「自発性」を強調する。そして、

順調に自発性の発達している子どもには、いたずら、反抗、おどけ、ふざけ、けんかが重要な意味をもっていることが明らかになった。

という。普通は褒められるものではない「いたずら」などをむしろ勧めているのである。

私が、いたずらっ子にしようと言うスローガンを掲げているのは、自発性の発達を促し、意欲の盛んな子どもになってほしいという願いからであり、それとともに一生を通じて必要な意欲を尊重することになるからである。子どものいたずらを見ていると、その中に、創造性の芽生えを感じ取ることができる。試行錯誤しながら、新しい活動(遊び)を生み出している。

私は小学校のクラス会が毎年行われる中で、非常にいたずらっ子 であった友人が老年期になっても、意欲的に生活していることを体験し、意欲がいたずらと深く関わっていることを知った。つまり、意欲が盛んである事は、老年期の生活を豊かにする。小学校で教師から級長に任命された友人は、中年から意欲がなくなり、クラス会に出席しなくなった。級長は、学業成績が良く、成績などもきっちりとやり、真面目で整理整頓などが良かったことによって任命されたからである。急性の登校拒否児にも、過去の生育史の中にいたずらや反抗が欠落している。


そして、この発想の裏には研究者として信念と経験がある。

子どもの研究をどのような方法で行うかについては色々と議論があるが、私は子どもと体当たりの中で行ってきた。体当たりとは、子どもと楽しく遊び、生活を共にすることである。若い頃には、調査や実験を行っていたが、それが真の子ども理解に結びつかず、意外にも研究する者の主観で結論を導き出すことが多いことを体験するにつけ、子どもと体当たりする中で、直感的であるが子ども理解を深めることの必要性を自覚するに至った。直感は主観的になりやすいとして、研究から排除されることが多かったけれども、直感の精度がよければ、子どもを深く理解するには重要な意義を持っている。

子どもに体当たりするという事は、臨床という言葉に置き換えても良い。その中でも、追跡的な臨床研究は、子どもの発達、特に人格形成に関して、きわめて興味のある事実を子どもから教えられることが多い。子どもから学ぶ―と言われてきたことが妥当する。さらに問題行動のある子どもの両親に対する相談事業は、治療との関係で、子どもの人格形成について多くの示唆を与えてくれた。

子どもの人間形成を考えるにあたって、「意欲」と「思いやり」を中心に養護・教育をすれば、立派な青年になると言う結論に確信を持つようになった私は、さらにそれらを明らかにするための研究を行っている。「意欲」は「自発性」の発達に伴ってさかんとなるが、「自発性」は、子どもに「自由」を与えることによってのみ発達する。

この地点から見える子ども観こそ、どんな時代状況にも通底させるべきことに思える。
大人による「先のことを決めなければ、一切動かないと言う困った癖がついた」教育観とは逆の世界をもっと知るべきなのだろう。

もちろん、平井さんは、大人の役割を忘れていない。

子どもに自由与えることは、子どもを放任することとは、対立概念であり、放任は教育には許されない。つまり、子どもに「自由」を与える者には責任感が強くなければならないし、「自由」が与えられた子どもに「責任」の能力が育っているかどうかの確認が必要である。

それにしても、この責任感が「手入れ」となって子どもを見守るものとすれば、この機微はどんなものだろう。


参考:平井信義「人格形成論」


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205 保育の歩(ほ) #1 プロローグ

2023年05月14日 | 保育の歩
間ノ岳から北岳へ 🈟 夏、野呂川源流部、両股小屋から出発!

養老孟司さんの子ども観を端的に表している文章がある。

子どもが生まれてくると改めてわかることがあります。子どもは何かの目的を持って生まれてきたわけではないのです。自分の一生もそうで、何らかの目的のために生きてきたわけではない。我々は働きアリでも働きバチでもない。一人ひとりの人生はなんだかわからない、理由などよくわからない一生です。子どもだって将来どうなるかわかるはずがありません。そういう当たり前のことが、都市の中で暮らしているとわからなくなる。そしてすべてを現在化してしまうのです。
私が言いたいのは、全てが予定の中に組み込まれていったときに、一体誰が割を食うのかと言うことです。それはもう間違いなく子どもなのです。なぜなら、子どもというのは何にも持っていないからです。知識もない、経験もない、お金もない、力もない体力もない。何もない。それでは、子どもが持っている財産とは何か。それこそが、一切何も決まっていない未来、漠然とした未来なのです。
その子どもにとって未来が良くなるか悪くなるか、それはわかりません。ともかく、彼らが持っているのは、何も決まっていないと言う、まさにそのことなのです。私はそれを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。私たちは、先のことを決めなければ、一切動かないと言う困った癖がついてしまいました。


そして、財産である”何も決まっていない未来”に対し大人はどうあるべきか、
 
(前略)田んぼも同じだと私は思います。お百姓さんにとって、いい稲を作るのは、もちろん大きな目的です。雑草が生えたら抜いて、畦が壊れたら修理して……、と様々な仕事をやっています。
では、それらすべてを稲を実らせる目的でやっているかというと、私はそうでないと思う。当面そうしないと気がすまない、何か落ち着かないからやっている。そんなふうに細かく手入れしていくと、最終的には外国人がびっくりするような、きれいな景色ができてくる。お百姓さんたちは、何も美しい景色を作ろうと思って手入れをしているのではないと思います。
植木屋さんそうです。何かカチャカチャ切っていますが、あれはめちゃくちゃに切っているわけではない。切ってはながめて眺めては切っています。だからといって、あるはっきりした目的があるわけではない。要するに、何かきちんと手入れをしていると、いつの間にか出来上がってくるものがある。それが手入れの感覚です。

この事はそのまま子育てについても言えることだと思います。子どもを育てるというのは、こういう感覚ではないかと思います。自然に手入れをしていく。我々の体は、自分が作ったものではないから「自然」です。一方で思うように作り直したいというのは、体での感覚とは決定的に違う。手入れと言うのは、もともとあったものを認めておいて、それに何か人間の手を加えていくと言うことです。私は子育てがまさに典型的な例だと思います。
その子どもの扱い方がわからくなくなってきたのは、日常生活の中にこの手入れの感覚がなくなってきたからではないか。それが里山にも出ているし、自然にも出ているわけで出ているわけで、日本全体の傾向です。その傾向が、乱暴に言えば都市化と結びついているのです。都市化とは何かといえば、それは何でもかんでも頭で考えて物事を思うようにしようとすることです。顔の整形手術とどこが違うのでしょうか。

                      『かけがえのないもの』新潮文庫

予定調和を期待するシステムの中で、つい子どもの行く末も固定的に考え、教育もそれに向けて目的的に機能させる。そうする仕組みに慣れている。そのいうことが問題だという。

人生の長い時間、それと最初に対峙するする子ども時代の感性が一生を左右するなんて自伝や文学はたくさんある。
自己肯定感!といわなくても、自分ストーリーの感触の源泉はこの時期にあることを養老さんは実感している。
大人に与えられた目標達成するための子ども時代から離れて、予定調和から解放された白紙に思い切りクレヨンで何かを描くような時間、それを実現する「教育」ってどんなものだろう。
子どもの「何も決まっていない未来」、それをサポートする「お手入れの感覚」って意図的に、あるいは組織的にできうるのだろうか。例えば学校教育の原則、目標設定、適切な方法、評価、という連鎖から逸脱ということでもあるだろう。

そのこと。そのことを発見できうる世界を見渡してみると、保育の世界というのはどうだろう。
保育は学校のように教えることを目的にしない。評価と言ってもテストなどではない。
では、保護し育むという言葉どおりだとしたらその様相はどんなものだろう。
たとえそれがどんなものであっても、子どもたちの健やかな成長を期していることに間違いないのである。

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