諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

79 音楽の経営術#6 第4楽章

2020年05月16日 | 音楽の経営術
  曲は起・承・転・結の「結」まできた。
最終第4楽章である。

 第3楽章で出番のなかった金管楽器や打楽器奏者も椅子に座りなおしたり、楽器の要所をチェックしたりしている。
これから頂上?を目指す。

 すでに尾高は腕を胸の前に上げ、あのブラームスの表情になって次のはじまりを促している。
「さあ、いくよ」
すっと、視線が集まっている。息を止めて手の動きを待つ学生オーケストラ。
弦楽器の前奏のあとに鳴り響くであろう合奏に全パートがそなえている。

 第4楽章は、オペラやバレエのエンディングのようにすべて”キャスト”が総出演する。
多くの交響曲が終演後の万雷の拍手を期待して、華やかで感激的なエンディングになるように作られているが、ブラームスの場合も華やかであるが、どこか憂いがある。

 それまでバランスに気を配って慎重に叩いていた目の前のティンパニー氏も息を吸って大きく叩き、金管もいくぶん上目に向かって吹いている感じ。フィナーレらしく。

 一方で「でもブラームス」と思わせるのは、要所での表現が細かく指示されていることのようだ。
「そうだ、ここは急速にppだな」とか、「チェロを響かせたんだ」とか。
こういうことは尾高の曲解釈に基づいてリハーサルでしっかり押さえられているところのように感じる。
たぶんこうした指示(具体的には分からないのですが)が曲全体の印象にとっても有効なのだろう。

 しかし、素人には分からないが、本番の演奏は単にリハーサルの再現ではないとも多くの指揮者はいう。

リハーサルの現場を見学した村上春樹さん。(『小澤征爾さんと音楽について話をする』から)

 「小澤(征爾)さんの出す指示のひとつひとつの意味は、僕にもだいたい理解できる。しかし、そのような細かい具体的な指示の集積が、どうやって音楽全体のイメージをかくも鮮やかに立ち上げていくことになるのか、その響きや方向性がオーケストラ全員のコンセンサスとして共有されていくことになるのか、そのへんの繋がりは僕には見えない。そこの部分が一種のブラックボックスみたいになっている。いったいどうしてそんなことが可能なのだろうか?」

一種のブラックボックス!。

 たぶんリハーサルで行われる指示は、音楽の流れの中の”部分”であろう。長くても小節の単位で数えられる範囲が多いだろう。
しかし、その部分部分の指示だけが「オーケストラ全員のコンセンサス」づくりのすべてではないのではないか、と思ってずっと「授業観察」しているが、さすがに難しい。
じゃ、どうやって名演奏は生まれるのか?。


 ただ、この第4楽章についてだけは少し確信がある。
第1楽章、2楽章、3楽章と積み上げてきたものがここにきて結集して相乗的なまとまりみたいものを感じるのだ。
 曲もそのことを期待して、いろいろな各パートの様々な要素が発揮できるようになっているのだが。
それにしても、仮に単独で第4楽章をやっても、登りつめてきた白熱した感じや、心得た感じの要所の表現は難しいだろう。
積み上げてきたあとの第4楽章をやり遂げたいという意志もそうだ。

 そして、それを聞いている教員としては、

学校のいろんなことが結集する大きな行事

をふと連想したりする。

 行事を行うのはパワーが必要だけどそれを経て子ども達は個々としも集団としては成長する。
教員間にも充足感が広がる。保護者も一緒に参加してまとまる。
もちろんそれまでの学習や学校生活全般の積み上げが下地になっている。
第4楽章にそんなイメージが重なった。

 華やかでダイナミック、でも要所で抑制のきいたフィナレーを全員で合奏して学生達のブラームスは終わった。
最後の音の余韻を確認した後、尾高は指揮台を降りる。もうやさしい牧師さんにもどっている。
コンマスに何かを言っている。「ブラームス山、よく登ったね。」と?。
学生は起立して胸を張っている。拍手やブラボーの声もよく響くワインヤード。

ホール全体に満足感が広がっている。
                           (つづく)




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