諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

202 近未来からの風#36 🈡 改めて「手作り」ということ

2023年03月26日 | 近未来からの風
定番 高尾山縦走 中間地点 景信山 ここにも立派な茶店があります。

本ブログで沢山のアクセルをいただいているのが、

「32 「坊ちゃん」のその後」

である。
小説は坊ちゃんが松山の旧制中学校に辞表を出し、東京に戻ってくるところで終わるのだが、坊ちゃん(その世代)の人生はずっと続くことを想像してみたのである。戦争や震災を経て、セピア色の世界にいた坊ちゃんが、もし長生きしていればカラーテレビで東京オリンピックを見ているはずだと。

そして、今改めて、その世代の人々の生きた足跡を、後年作った年表に置いていくと、彼らの歩んだ道も間違いなく「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)の中そのものにあってことが分かってくる。
当時の「坊ちゃん」たちにこんな将来が待っていることを近代学校が成立したばかり19世紀末の大人は絶対に想像などし得なかっただろう。

一方、当時の時代背景の慌ただしさを象徴するように出来事や騒動の連続するこの小説で、時々回想される「清」(東京の家に残してきた下女)が静的な存在として印象的である。小説の終末も清のこと閉じられる。
「だから、清の墓は小日向の養源寺にある。」

坊ちゃんが松山の学校での活躍ぶりを支え続けたものとして漱石は清の存在をこの青年の内面に配しているのである。
そして、あくまで想像の話だが、きっと清はその後の坊ちゃんの人生の中でもずっと生き続けたように感じられるのである。応援者として、同伴者として。

同じように同時代の人々は、清の存在のように近しい人とのつながりや心の交流が、その後の「VUCA」の時代にあっても普遍的にはたらき、その人の生を支えていたことが十分に想像できる。
そして、もし教育を広く解釈するなら、こうしたつながりを意識できる機会があることが(生きる力を下支えするものとして)広義の教育固有の価値といえるのではないだろうか。仕組みとして教育内容とは別の話である。


私たちは、職員室の窓から外をながめながら、「どうして、〇〇さん元気なかったんだろう?」と思ったりする。
「この教材なら□□さんわかるかもしれない」と工夫したりする。「〇組、最近勢いでてきたね」と同僚に言われ嬉しくなることもある。他にも地域との連携がうまくいったり、話し難かった保護者と気持ちが通じたり、運動会に不登校の子が見学にきた、とか心を使っている。もっとあるだろう。
こうしたことが実は近未来にむけての静かな子ども達への後押しになっていくのではないか。それはたぶん間違いない。
まとめていうと、手作りということ、自前の心をちゃんと使うということ、きっとこうしたことが、「清の普遍性」に通じる教育の価値なのではないだろうか。

保育学者で愛育養護学校の元校長の津守眞さんは、保育を教育や養護をつつみこむものとして次のように述べている。

人は、生涯に何度も、自分の心の枠を破って、人生を正しく歩き始めます。あるときは人と出会うことによって、あるときは、自分が思い切って一方踏み出すことによって、またある時は、否応なしに大きな運命の手に連れ出されて、はじめは考えもしなかった世界を生きることになります。

障碍を持っていても、いなくても、どの人も互いに異質であって、同じ人間です。互いに寛容になると言う事は、20世紀の戦争の世紀の、私と同時代の人が獲得した思想でした。私共の世代はその上にあります。教育・保育は、人為的に作られたマニュアルに従ってなされるのではなく、人間と人間とが互いに信じ合い、愛を持って手探りで模索しながら作っていくものです。それが積み重ねられて、人の知が作られます。そのような知は、いわゆる知識の体系とは異なります。私共は、不確かな世界に生きているからこそ、どの子どもをも信頼し、一緒に行きやすい共同体をつくる道を模索して歩むところに教育があるのです。地を這うような、目立たない日々の保育の中に光があります

                         『学びとケアで育つ』小学館

引用に即していうなら、いわゆる知識の体系とは異なった、信じ合って、手探りで模索して作っていく人の知の醸成こそが将来の「坊ちゃん」たちを支えつづけるのではないだろうか、「近未来から風」が強くとも。

                               シリーズ 了

※ 長いシリーズお付合いありがとうございました。もちろんブロクは続きます。今後ともよろしくお願いいたします。

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201 近未来からの風#35 (まとめ) 新たな社会観との連動

2023年03月05日 | 近未来からの風
定番 高尾山縦走 元祖 小仏峠 かつての要衝の面影

3 教育企業、IT企業参入と学校の公共性、民主性

まとめとして、199「ショートカットの旅」で思考に対する意欲のこと、200「アルゴリズムの民主主義」で社会における当事者意識のことを考えてきた。
それは、学校教育においてこの2つのことは、言わずもがな最大の目標である。
つまり、ディープラーニングの必要性と、新たな社会観の提示ということとも言えよう。

で、こうした懸念も含めて、「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像に対して、「OECD Education2030プロジェクト」では、カリキュラムデザインを各国に発信し、日本の学習指導要領にもそれが反映されてきていることを学んできた。

そして、前回、「世界各国の公教育が危機に瀕している」という佐藤学さんは、新たな社会観について、次のように提案する。

この新しい段階において、教育の公共性を擁護するためには、公共性の哲学と民主主義の哲学に基づいて、学校共同体と一定のセクターで維持し発展させる仕組みを創出する必要があります。具体的には、市町村教育委員会と学校が自律性を確立し、地域共同体の文化と教育のセンターとしての学校を再定位し、教育委員会と学校の自律性によって教育市場に対して民主主義的な統制を行う必要があります。教育市場を基盤とする教育企業やIT企業の教育への一方的な参入と営利事業を許すのではなく、教育委員会と学校の自律性によって教育企業やIT企業とも連携した教育の公共圏を創出することが求められています。その新たな実験を各地域、各学校で始める必要があります。

資源と資本をシェアし、1人も置き去りにしないで、ケアしあい、さまざまな問題を解決して、未来の希望を開くために学び合う社会です。この「新しい社会」の建設なしには、資本とテクノロジーの暴走を食い止めることはできませんし、人類の未来はないと思います。

                        (『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)

このことの社会を「sharing caring and learning community(シャアしあい、ケアし合い学び合う共同体)」というらしい。

ふと、足元を見ると、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)の目的は新しい社会観とともにあることを確認すべきなのである。





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200 近未来からの風#34 (まとめ)アルゴリズムの民主主義

2023年02月26日 | 近未来からの風
定番 高尾山縦走 頂上のこれも定番のテラスからの富士 ここから陣馬山までロングトレックスタート


2 アルゴリズムと民主主義

人間は世界-内-存在として、「事物や他者の存在する世界(社会)」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような世界(社会)と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような世界と関わって生きるということなのである。

とサルトが言った。そして、

人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。

既に投げ出されてように存在している私たちが世界(社会)に主体的に働きかけることで、その総和によって世界はつくり出されるという。

また、21世紀になってもフランシス・フクヤマは同様に、

われわれが希望をもちうる唯一の理由は、社会秩序を復元する強靭な能力が人間に生まれつきそなわっているという事実である。歴史がよい方向へ進んでいくかどうかは、この復元作業がうまくいくかどうかにかかっている

という。
こんな思想が民主主義のバックボーンに流れているといっても大きな誤りはないだろう。
個の自由と社会とのかかわり、逆に個の主体性を育む社会の形成についての原理である。

このことは民主主義を標榜する公教育の目標とも合致する。

ところが、「的外れな情報であふれかえる世界にあって明確さは力だ」から始まるハラリの論はこの民主主義の思想がアルゴリズムによって揺らぐという。

人間の感情は謎めいていて、深遠な「自由意志」を反映しており、この「自由意志」が権限の究極の源泉であり、知能の高さは千差万別でも、あらゆる人間は、等しく自由であると言う前提に、民主主義は立っている。
心へのこのような依存は、自由民主主義のアキレス腱になりかねない。
人間の感情と自由選択に対する自由主義の信頼は、自然なものでもあまり古いものでもない。権限は、人間の心ではなく、神のほうに由来し、したがって、私たちは人間の中よりも、むしろ神の言葉を神聖視するべきだ、と人々は何千年にもわたって信じてきた。権限の源泉が天井の上から生身の人間に移ったのは、ようやく過去数世紀のことだ。

間もなく、コンピューターアルゴリズムが人間の感情よりも優れた助言を与えられるようになるかもしれない。スペインの異端審問所や、KGBがグーグルや百度(バイウド)に道を譲ったのと同じように、「自由意志」も神話であることが暴かれる可能性が高く、自由主義は実際的な優位性を失うかもしれない。

自由社会とされている場所でさえも、アルゴリズムが権限を増やすかもしれない。私たちは、しだいに多くの事がらでアルゴリズムを信頼した方が良いことを経験から学び、自ら決定を下す能力を徐々に失っていくだろう。考えてみて欲しい。わずか20年のうちに、何十億もの人が的確で信用できる情報を探すと言う、非常に重要な任務をグーグルの検索アルゴリズムにゆだねているようになった。私たちはもう情報を探さない。代わりに、「ググる」。そして、答えを求めて、次第にグーグルに頼るようになるにつれて、自ら情報を探す能力が落ちる。そしていつか、「真実」は、グーグルでの検索で上位を占める結果によって定義される。

(『21Lessons』河出書房)

センセーショナルなこの本ではあるがすでに見え始めている傾向として説得力がある。
実は歴史の浅い「深遠な自由意志」よりアルゴリズムを信頼する。そして、自分自身の選択によって行動する能力が落ちていく。
反民主主義というのは単純に国家体勢の問題だけではなく、アルゴリズムがその内実を骨ぬきにさせていくという面かも進行しかねない。そして私たちは、すでに便利さと「検索上位」に安心感をいだきながら「自分自身の選択」をビッグデータに由来する統計にゆだねはじめ、一方で例えば投票の権利を安易に放棄してしまっているように思える。

そして佐藤学さんは、「市民社会の維持と民主化に必要な公教育」の危機を述べている。

この時代に教育の公共性を擁護するためには、どのような方策が考えられるのでしょうか。新自由主義の市場、万能主義によって、世界各国の公教育が危機に瀕しています。その危機は、第四次産業革命と連動するICT教育と教育市場の巨大化によって増殖しています。どの国も債務国家になり、公教育は財政負担となって、国家財政だけで公教育を擁護維持することが困難になっています。その一方で、教育のニーズは年々高まっており、公教育の枠外の教育市場は膨張し続けています。その結果、市民社会の維持と民主化に必要な公教育と、教育市場において教育サービスを商品化し、利潤を追求する教育産業との間の境界は壊され、両者はボーダレスの状況になっています。もはや公教育は、教育市場との関係を排除して維持することができない状況です。この状況において、教育の公共性はどのように担保したらいいのでしょうか。
(『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)

無論、利潤を追求する教育産業とはIT企業ということである。

フクヤマのいう「社会秩序を復元する強靭な能力」はこうした環境下で失われずにいられるのだろうか。


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199 近未来からの風#33 (まとめ) 「ショートカット」の旅

2023年02月19日 | 近未来からの風
定番 高尾山 縦走 沢山のルートにうち6号路は自然の山道が残されています。

さて、「近未来からの風」再開します。
気鋭の歴史学者 ハラリさん、教育学者の佐藤 学さん、広田照幸さん、そしてOECD 2030プロジェクトをレポートした白井 俊さんの著作からお話しを伺うようにページをめくってきました。
そこでそろそろ伺った内容から感想文のようなものでまとめとしたいと思います。

ショートカットの旅

「新幹線は早くて便利だけど各駅停車の風情がないねぇ」という話題は以前よく耳にしたが、最近はあまり聞かれなくなった気がする。
例えば東京‐京都間は2時間。「旅」とも言いにくい短時間である。
「風情」の件はどこにいったのか?

ちょうど150年前まではもちろん鉄道がなく、人々は14~15日かけて歩いた。
濃厚な旅があったはずだ。
宿場には個性があり、方言をともなった違和感のある人々と交流しなければならない。
そもそも大きい川は容易に渡れない。山賊や盗賊もいただろう。もちろん相当な体力がいる。
だから、旅には総合力が必要で、「可愛い子には旅をさせろ」となった。
江戸‐京都間とは、そういうところだったにちがいない。
わずか150年間のテクノロジー進歩は2週間の移動を2時間にまでのショートカットに成功し、一方で(極端にいえば)旅の要素もほとんどなくなった。

もっとも鉄道が開設されても、小説や脚本の舞台になる程度の旅のニュアンスは残っていた。
三四郎が熊本から汽車で上京するのに数日かかり、不思議な女とは名古屋で一旦降りる。「滅びるね」と謎めいたこという髭の男がいうのは、浜松を過ぎたあたりだ。車中外国人も見かけるし、「田舎者」とも話をする。

また、九州から北海道へ鉄道で移住していく道中を描いた山田洋二さんの『家族』は1970年の作で、これも旅そのものだ。

これらも今なら阿蘇くまもと空港からフライトすればいいことになる。

今からは想像できない旅の中の予測不可能なことや不便さは、その時どきの人の覚悟を想像させ、実際の旅の経験は人を成長させ、成熟を促していたことは間違いない。
昔の旅はそういう「含み」のあるものだった。
それが2時間で行くショートカットによって今日ではそれがほとんどないほど快適な「旅」ができることになっている。
もちろん、東京からから京都に日帰で、南禅寺の梅を見に行かれることに何ら否定的なことない。

同じように、いたるところにショートカットが知らないうちにできている。
知らないことは「ググる」ことで多くは解決するし、買い物は翌日雨が降っても宅配業者が届けてくれて、クレジット会社が銀行から自動的にお金を引き出すことで現金に触れることなく支払されている。
図書館や商店が遠い場合、入手しにくい物が欲しい時、健康上出歩けない場合など通販は便利としかいいようがない。
しかし一方で、カットしてしまったことも沢山ある。ここで例をあげないまでも。

技術の進歩は、不要と思われるものをカットして、圧倒的便利さや快適さによって歓迎されながら生活や仕事に進入定着してきている。
そして、私たちは、それによって失われたもの中には意図的には再生しにくいことも含まれていることを直感しながらも、概念化できないまま不問にしてしまっているのだろう。
いずれにしても、生活教育論が元気だったころ、彼らの言っていた「生活即教育」という発想は、今日では成り立ちにくいほど生活に「含み」がなくなってしまった言えるのではないだろうか。

そして、ショートカットは思考力にも影響があるように思われる。
A→Gを説明するのに、(B→C→D→E→F)の過程があったことを忘れてしまがちになる。また、A→HやA→Zの発想に跳べないことはないだどうか。思考の過程に「含み」の可能性が秘めていることを感じる感性が衰えているのではないか。

そのことに近いことを『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済)で新井紀子さんは指摘する。

AI楽観論者が言うように、多くの仕事がAIに代替えされても、AIが代替えできない新たな仕事が生まれる可能性はあります。しかし、たとえ新たな仕事が生まれたとしても、その仕事がAIで仕事を失った勤労者の新たな仕事になるとは限りません。現代の労働力の質が、AIのそれと似ていると言う事は、AIでは対処できない。新しい仕事は、多くの人間にとっても苦手な仕事である可能性が非常に高いと言うことを意味するからです。

といって、もともと理科系の新井さんがこの本で読解力を取り上げてのは、思考力への懸念があるからだ。
短絡的で抽象化した生活の中であったも、ふり幅の大きい思考が求められるそれが近未来への大きな課題といえるのではないだろか。

そしてその方法として、アクティブラーニングを唱えることは、まさしく学びを裏打ちする「含み」を意識したものであろう。
テキストに則せば、オーバーロードに注意しながら、それぞれがもつラーニングコンパスの精度をあげる現実的な手段であると。
                                         つづく



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196 近未来からの風#32 そして日本へ

2022年12月18日 | 近未来からの風
秋の山で🈡 八ケ岳 大河原峠で 秋と冬の間。

「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省

終 章 これからの日本の教育を考える
この章は、これまでEducation 2030 プロジェクトの知見をもとに、白井さんが日本の教育に対してどのような示唆が得られるかについて最後に考察するところである。ところで、この部分わずか8ページなのだが、単に紙幅の都合だけではないようである。

こうした国際的なプロジェクトに参加する事は、日本の教育を考える上でも重要な様々な示唆を与えてくれる。とりわけ、現在の日本が直面している様々な教育上の課題は、日本に固有のものではなく、諸外国においても認識されている共通の課題であるという視点も重要だろう。こと教育に関しては、どの国も内政事項として扱いがちであるが、そうした先入観にとらわれず、国際的な比較の視点を持ちながら、教育と言う営為そのものに内在している課題を特定し、それらに対して科学的にアプローチしていくことが重要である。

意外なほど、各国の課題は、日本と共通しており、むしろグローバルな視点であっても、教育そのものに内在している課題に帰結することが多くこれまでの記述がすなわち日本の課題かなりの部分と重なるということらしい。
しかし、その中でも、白井さんは、この章で再度日本の教育のどこに問題意識を感じるかを述べなおしている。どんなことなのだろう。

1 エージェンシーの視点からの教育全体の見直し

まずはエージェンシーである。

エージェンシーは、「変化を起こすために、自分で目標設定し、振り返り、責任を持って行動する能力」と定義されているが、生徒のそうした能力が、生徒のそうした能力が、今の日本の学校教育において、十分に育まれているかは、疑問な人はできないだろう。

とした上で「ブラック校則」を例に挙げながら、次のように述べている。

学校教育の段階から、単に「ルールを守る」ことだけでなく、そもそも「このルールは本当に正しいのだろうか」、「このルールは変えるべきではないか」、「ルールを変えるためには、どのような手段を踏んでいくべきなのか」、「ルールがないのであれば、どのようなルールを整備する必要があるのか」、といったことを考えていくことが不可欠になってくるのである。

また、新しいルールを作っていく上で重要になるのが、倫理や道徳である。倫理や道徳の基礎がなければ、どのようなルールを作るべきか、作ろうとしているルールが妥当なものかどうかを判断することができない。

多くの他者と共同することも重要だろう。学校教育を通じて、多様な他者の考えを聞いたり、共同したり、議論したりする中で、生徒一人一人が、それぞれの倫理的基礎を築いていくことができる。


こうした変革へのエージェンシーの育成が、日本には特に必要だと指摘している。学校は「一つの共同体生活の形式」と言ったのはデューイだったが、その学校社会の中で変革のエージェンシーが育成できうるとしているようである。

また授業に関してである。
日本の中学生が学習の楽しさや実社会との関連に関して、肯定的な回答をする割合が低いことを指摘して次のように述べている。(「数学・理科の学習に対する生徒の意識」 (ページ末参照))

数学や理科の学習には取り組んでいるとしても、試験等の外在的な動機付けに依拠している部分が多いことが推察されるのである。その場合には、生徒の学びの目的が、通知表や入学試験といった、他者が設定したゴールをクリアするための学習になってしまっていると考えられる。もちろん、他者が設定したゴールをクリアすること自体が否定されるものではない。しかしながら、よりVUCAが進行する世界においては、他者が設定したゴールに向かうだけでなく、「そもそも、設定されている頃自体が適切なものなのか」、「設定されているゴール自体を見直す必要は無いのか」、といった事まで考えていくことも求められてくるだろう。

高得点や高い評価を得ることにどのような意義があるのか、といった事まで考えていくことも必要になってくるだろう。


従来からの学力の質の問題だが、白井さんも改めてここで問題提起している。

2 コンピテンシーの視点に基づいたカリキュラム・デザイン

ここでは、カリキュラム・デザインという概念の意図をまとめ直している。

カリキュラム上に書き込むだけでは、それは「意図されたカリキュラム」での対応に過ぎない。授業時間は当然有限であるし、教師の指導力や準備に要する時間、学校のICT環境の整備等を含めた「実施されたカリキュラム」、生徒がどこまで身に付けたか、また、それを評価できるという「達成されたカリキュラム」までを視野に入れて考える必要がある。

これは当然カリキュラム・オーヴァーロードも念頭に置いた指摘だ。そして、

従来のようなコンテンツ中心の発想から、コンピテンシーの意味を理解していくことが求められる。そのためのエビデンスをカッコするためにも、コンテンツとコンピテンシーの関係性を明らかにしていくCCMのような手法を洗練させていくことが重要だろう。
※ CCMとは、カリキュラム・コンテンツ・マッピングのこと

コンテンツからコンピテンシーへというのはこの会議のキーワードとも思える。

3 カリキュラムの意義の再認識。

この節が本書の最後のページになる。白井さんは再確認として、カリキュラムの3つの役割を(たぶん)あえてとりあげている。

第一は、カリキュラムの学習基盤機構機能である。

カリキュラムを通して学習の基盤となる基礎的な学力をつける事は、社会的な公平の観点からも重要である。基礎的な学力がなければ、より高度な学問を身に付けることも難しくなるし、社会に出てから活躍する事は、もちろん、成熟した市民として、権利を行使したり、義務を果たしていく上で支障が生じかねない。カリキュラムは、生徒一人一人がエージェンシーを発揮する上での基盤を作るものである。

第二が、カリキュラムの民主主義維持機能である。

カリキュラムを通じて、国民一人一人が適切な判断力を身に付ける事は、個々人が自らの権利を守りながら、その社会的な責任を果たし、社会のウェルビーイングを維持していくと言う観点でも極めて重要である。

第三が、カリキュラムの国民統合機能である。

国民統合の原則原理としてのカリキュラムの役割に対する認識は希薄だった部分があるかもしれない。しかしながら、より多様化が進んだ社会においては、そもそも日本国民がどのような存在なのかを規定するとともに、多様なバックグラウンドを持つ人々を、日本国民として受け入れていく上で、学校教育の役割はよりいっそう大きくなってくるだろう。

そして、最後に加える。

国の将来を担う子供たちに対する国民の様々な願いや希望、夢や期待、そして、伝統や文化を凝縮したものがカリキュラムなのである。そのことを、大人はもちろん、子供たちも含めたすべての国民が、もう一度認識することが必要だろう。

以上で本書の本編は終わる。






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