諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

96 第4の教育課程#10 まとめ

2020年08月29日 | 第4の教育課程
まとめもシリアスなものですが、直視しなくてはと思います。基本に返って。


子どもの「未来」は、学習指導要領にある。

「今の子供たちやこれから誕生する子供たちが,成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。また,急激な少子高齢化が進む中で成熟社会を迎えた我が国にあっては,一人一人が持続可能な社会の担い手として,その多様性を原動力とし,質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくことが期待される。」(高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説総則編)

難しい未来に対して、子どもたちは「学校知」どう受け止めるか。
「第4の教育課程」のもう一つの背景は「未来」のそのものが不鮮明なことをあげざるえない。

また、家庭の状況の多様化も急速に変わりつつある。
「家庭教育は学校教育の下請け」というほどに家庭の基盤が強いとは限らない。

結果的に子ども達にとって厳しい局面をむかえつつあって、その中で、学校だけでなく、家庭や地域、福祉の現場ではどんな姿勢が大切なのか?

そして、その一つの答えとして、「子どもらしさ」を育める社会や学校であること、子どもの平和な状況がすべての教育課程の基礎であることを述べた。未来志向の教育課程に対して、それを「第4の教育課程」としてみた。

しかし、この一見平凡なことは、目標設定として設定したり、成果を発表できることではない。
子ども達の個性や、場の状況、係る大人の側の違いも大きい。
どうやら、家庭でも地域でも福祉の現場、そして学校でも、そこにいる大人たちが善いイメージを互いに育み広げながら作っていくほかはなさそうである。
決して大量受注、大量生産できるわけではない。

もっとも、それは新しい課題でもない。心理学者の佐伯 胖さんの言葉は、心理学の枠を超えて響く。

「「何のために教えるか」という問いもまた、教師として親として何度も何度も問うていることであろう。
「文部省の指導要領にあるから」とか、「いい学校に入ってもらいたいから」とか、一応はいろいな理由が出てはくるが、やはり「でも、それだけのためじゃないはずだ」という気持ちも一方ではのこる。
 そしてまた、子どもが「ああ、わかった!」とよろこんびの声をあげてくれたとき、あるいはその子がわき目もふらず何か一心に勉強している姿をみたとき、「これでいいのだな」と思い、「教えてよかった」と思うもので、何のためというものではない、その子がその子として本当に「生き生き」と生きてくれればそれでよく、そのためになら、今までの一切の苦労、泣き出したいような絶望と、「なぜわからないのか」とゆさぶりたいほどのいらだちの中での苦労も、全部帳消し、何もかも許してやりたい気持ちになるのが親であり先生である。
 何のために学ぶのか。それはわたしたち自身が「より人間的に」なるためである。あるいは、人々を「より人間的に」していくという人間の日々の営みや文化の創造に自分も「参加」できるようになるためであろう。
 何のために教えるのか。それはわたしたちが、子どもたちを「より人間的に」したいからであり、世の中を「より人間的に」していく人々の営みや文化の創造に、彼らも参加していけるようにしたいからであろう。」
(『「学び」の構造』)

「第4の教育課程」とは手作りの営みということであろうか。ニヒリズムを警戒しつつ。

                 シリーズ 了



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95 第4の教育課程#9 酸素の質・量

2020年08月22日 | 第4の教育課程
 教育書というと、吉岡たすくさんの家庭教育の本が平積みになっていたころ。
大学の先輩は、「唯物論」などを読んでいて、
「教育は社会科学の筋道で理解できるが、発達という概念がそこに入るだよなー」
という。経験や実感ではないアカデミックな教育観。
「だから、ビゴツキーをやらなきゃ」
と加えた。
 
その内容はそれなりに理解することができた。論理のパッケージである。
教育は太古から人の自然な営みではあるけれども、近代社会では学校教育を誕生さるなど、社会的目的性も強い。だから、社会科学だと。

そして、子どもは成長発達の途上にある。そこにはつねに発達論が寄り添う、ということ。
特別支援教育では一層、子ども側に重心がおかれる。
「自立活動」という領域があるのは、パッケージでいう「ビゴツキー(発達理論)」のことだ。

果たして、ラバリーのいう3つの社会的機能というのは、社会科学的な分析だ。
・有能は市民の育成
・生産性の高い労働者を育成
・社会的移動の手段
この大きな働きが、前提となり、各界の代表者が意見交換をして学習指導要領という各学校の教育課程のベースができる。
教科の内容と合理的な配列(狭い意味で教育課程)は発達論に依拠しているということになる。
この枠組みほぼ変わらず、10年に一度社会状況や子どもたちを取巻く諸環境の変化に応じて更新されてきた。
 
(話は戻ります)
 しかし同時に、先輩の話を聞きながら、少し躊躇もあった。
「社会科学とビゴツキー。でもこのパッケージってどうなのだろう」
(これまでの自分の子ども時代を振り返って、大きなことがその文脈から落ちちゃうんじゃないか?)

 小学生のころ、下校途中寄り道して広場で遊んでいた。
家に帰るとランドセルに差してあったリコーダーがない。もどって暗がりを探したがない。そもそも夢中に遊んでいてそこに落としたのかも定かでない。そんな子どもだった。
 数日後の放課後、誰もいなくなった教室で意を決して、担任の先生にそことを言った。
たぶん、しどろもどろだった説明を先生は黙って聞いていて、叱る必要がないと判断したのか分からない。
「そうか、わかったよ」
とだけ言った。夕日が差し込んだ教室だった。
 翌日、不安のまま登校すると、新しいリコーダーが机の上にあった。そして、布製のケース裏側には私の名前が書かれたいた。大人のしっかりした太い字。
 リコーダーは特別なものになった。


 こんなこと…。

こんなことはどんな意味があったのかうまく評価などできない。
わからないが、忘れてしまったことも含めてこんなことがたくさんあって、自分を上へと促してもらっていることは根拠はないけど事実である。
表しにくいが教育的な何かの作用によって「子どもらしさ」は育まれ、それぞれがそれぞれの生を実感していくのではないか。
「子どもらしさ」のよりどころは必ずしもロジックの下にない。

「教育のまわりから教育に迫っていくというやり方では、いつまでたっても教育の問題にゆきつかないか、あるいは、教育の問題にゆきついても問題を教育の営みをとおしてすこしでも解決するというふうにはならず、すべての経済や政治の問題に帰着させてしまう傾向が出てきたことである。」
と教育学者 勝田守一は1970年にすでに指摘している。

教育が社会科学の中にあって独特なのは、「目に見えない働きのようなもの」の存在があり、それを扱わざる得ないことなのだろう。
だから科学では割り切れないとも言えるし、論理整合性や一貫性で閉じてしまう法令や行政的な文章では手繰り寄せにくいものがある。またその手法では拡げにくい。

「文字には表せないことがあまりに多いからこんなにたくさんの小説がある」(つまり、“ものがたる”しか方法がない真実がたくさんあるという意味)
とある作家がいったが、それと似たことなのかもしれない。


「第4の教育課程」というシリーズは、亡くなったお子さんの言葉から「未来だけじゃない」教育を考えてきた。
それは、「不器用にそこにいる子」も感じながらでもあった。

教育には、そもそも存在が表しにくい多くのものが確固として存在して、働きとして子ども達を後押しする。
それはデータ化できないし、評価もしにくいし、技術化も多くの部分でむずかしい。
でも、それを敢て明文化できるロジックに伍して「第4の教育課程」と掲げてはどうだとろうと思う。

それが何か表現できないが、表現しようとする努力そのものが答えになるのかもしれない。
家庭や地域や学校という場で今行っていることをベースに話し合うと、現状の努力もきっともっと誇れるものに変わると思う。

いずれにしても、いかに立派な構築物でもその中の空気に酸素がないと「子どもらしさ」は間違いなく行き場を失うのである。

                              

結局第4の教育課程は日々の丁寧さということにあるのかもしれませんね。
来週まとめをしてみます。今回も有難うございます。





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94 第4の教育課程#8 救いの島の開発

2020年08月15日 | 第4の教育課程
小径のようなブログも進んでいくと、時にすごい大通りに出てしまい戸惑います。今回はそんな感じです。

 どうして、子どもたちを児童と言ってここに集めて何やってるだろう。
小学校の教員のころ、日常のある瞬間にふとそう思うことがあった。

 マルクスが資本論を書いたころ、子どもを守るべく近代学校が発足したことは以前書いた。
児童福祉的で、子どもを保護する意味で、就学の義務は保護者側にある。

 しかし、学校はそんな福祉的な役割だけではもちろんない。
「子ども達の成長・発達に応じた学びの場を提供する…」
もっと大きな力が社会的役割としてはたらいている。

その点で、教育学者の広田照幸さんが紹介するアメリカの教育史家、ラバリーの整理は、分かりやすい。

「学校教育の社会的目的が複数競合しており、それは、社会の根幹の原理であるリベラル民主主義の核心にある緊張だ」
といい、目的は3つあるという。

「第1の目標は民主的平等である。これは有能な市民をつくり出すための装置として教育をみなしている。」……①

「第2は社会的効率であり、生産性の高い労働者を育成するための装置として教育をみている。」……②

「第3の目標である社会的移動は教育を、各個人がその社会的地位を強化保全あるいは向上させる手段とみなしている。」……③

そして、結果として、
「これら3つの社会的目標の追求はバラバラに行われるので、自己矛盾をきたす制度になっている。」とラバリーはいう。

この分析は、ほぼ日本の学校にも当てはまる。広田さんの説明を参考に補足すると、

学校を民主的社会のモデルのようにして民主的社会を担う市民を育成する目的
 →学級集団づくりとか、生活指導とか究極はこの目的上にあると言えるし、地域との交流や、コミュニティスクールを目指すこと、またシチズンシップ教育という概念はまさにこの目的と一致する。一方で戦後民主教育の不十分さをここに帰する指摘や、道徳教育の強化を主張するべきだとしたりする議論もこの中で行われている。

現代社会が必要とする職業スキルの育成の目的
 →小中学校までの基礎学力は、職業的スキルということでも共通の基礎になりうるが、高等教育(高校や大学等)には経済界などの要請で、議論が起きる。高校の専門制高校や、大学での文科系学部の改変とか、職業大学の新設などの他、学びの質についても以前から「詰め込み型の学び」を「主体的・対話的深い学び」へという主張は財界からの要請でもあったようだ。

未来の非雇用者となるための「学歴証明書」を得るための目的
 →良い大学に入るために、入試に強い学力が必要で、それを得られる高校に行くために、中学校でも入試に強い学力づくりに終始する。また、進学塾が学力を偏差値などで明示するため、平面的な知識偏重の学力観が求めらる。学びの質を移動の手続きである入学試験が規定している面がある。しかし、日本の学歴の単線構造は「機会の均等」という意味からは平等性が高いともいえるらしい。社会的移動という意味では、西欧諸国より機会の自由度がたかい。

 「→」以下の説明に自信はないが、確かに、①と③は生き方のありようとして対立する面があり、②と③も学びの質のありようとして矛盾はさけられないだろう。


 ところで、産業革命の労働者として過酷な日々を過ごしてたい子ども達にとって、学校は漂流中に見つけた救いの島のような存在だっただろう。水もあり、食糧もある、同じボートで漂着した友達もいる。島を提供できたのは大人たちの一つの達成だった。
しかし、その後、島はしだいに開発がすすんできてまったようだ。

 別の本で広田さんはこんな表現をしている。(長文ですが、省略しないでいきます)

貧しい暮らし、貧しい時代には、教育は輝いて見える。私は2本の映画を思い出す。一つは『マルチニックの少年』(フランス)である。1930年代のフランス領マルチニック島でサトウキビ労働者の祖父と二人暮でくらす貧しい少年が、奨学金をもらいながら町の学校にかようことなるという物語である。もう一つは『少年時代』(トルコ)で、やはり貧しい家庭環境の中で、家計を助けて働くけなげな少年が、ある日たまたま雨宿りで寄った図書館で本を読むことに興味を覚え、学問の世界に近づいていく、という物語である。学校に行くことや<知>の世界に触れることが、多くの貧しい国々の子供たちにとって、どんなにあこがれるものであったことか。日本でもつい数十年前の、働きながら学ぶ青少年の作文には、学校へ行くこと、学ぶことへの思いが熱くつづられている。
 しかしながら、高度経済成長の到来は教育をすっかり色あせたものにしてしまった。教育が社会のさまざまな問題を解決していく、というのではなく教育それ自体が解決されるべき「問題」になってしまった。

 
 私の見てきた「不器用にそこにいる子」や、映画の「けなげな少年たち」は、ラバリーの指摘する3つの目的を課された学校が結果として醸し出す場をどう感じるのだろう。
もはやこの島が孤島ではなく、3つの目的の整理も難しいのであるならば、19世紀の大人の視点から第4の目標を意図的に掲げるべきように思う。



 本文長くなりました。いつもありがとうございます。
 参考にした図書は次のものです。
  広田照幸『教育』、『教育改革のやめ方』(共に岩波書店)
  志水宏吉『学校にできること』(角川学芸出版)
 


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93 第4の教育課程#7 学校のスペック

2020年08月09日 | 第4の教育課程
「子どもらしさ」って、あるけど、表しにくい。それが問題のようです。本文つづけます。


ある研究会の分科会も終盤で、ずっと議論を聴いていた中学校の校長先生が、
「結局、学校はスペック不足なんじゃないかな?」
とぽつんと言われた。

 ユーザーから要請される指示に対して、機械などの基本性能が不足していため、適切な動作が行われない。
そんなイメージの「スペック不足」。

 学校には、子ども達以外にも、保護者、地域、国、地方行政からたくさんの要請と指示がある。
それを受けて適切に動作するのは難しく感じることもある。

 背景には、社会情勢の変化、学校を取巻く環境など相対的なことも関係する。

 例えば、
各教科を受験学力に仕上げる技術は大手学習塾の方が優れていることもあるだろう。
ピアノで「ブルグミュラー」まで進んでいる子や、ネイティブの英会話に通っている子に、小学校免許の担任の合奏の指導や英語の発音は物足りない。
家庭環境がむずかしく困難な子に対する個別指導も十分な時間がとれないこともあるだろう。
校舎の老朽化やメンテナンスが行き届いていない部分もあるかもしれない。

 これに対して、CPUやメモリをバージョンアップするように簡単に学校のスペックは上げられない。
もちろん先生方の努力を超えた問題が多い。制度や予算の壁もある。

 都市部の校長先生のつぶやきはこんなニュアンスだったのかもしれない。

 学校は社会や時代要請によって変化するのは当然である。
だから高いスペックを求め続けなければならない。それは民間企業も一緒だ。

 しかし、どんどんOSのバージョンがあがて、それに追われるように高スペックPCを購入して、振り返るとこれまで愛用していたPCは「旧バージョン」として価値が下がったように見えたりする。
際限のないバージョンアップの構造に学校も巻き込まれていないのか。スペック不足という表現もこの中にあると感じる。

 実感としても、高スペックを求めたり、維持していくのは先生方にとっても、少なくない子ども達にとっても辛いことでもあるだろう。
ヒューマンサービスとして、何か不自然になる危うさ。それを気配として感じさせない気ぜわしさももたらす。

 スペックという言葉は、一般的に工学的な用語である。
だから、明晰だし、数値化もできる。客観的、テータ的だ。

 しかし、学校におけるスペックというともっと含みが大きいはずだ。学校におけるスペックを教育学的に翻訳するとどうなるのか、少し場違いなこの言葉を通じてこそ議論するとよいのではないか。


 
 結局、子どもらしさの発見は、感性の磨き合いの中にあるのでしょうか。その中だから明晰にはなりえない?

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91 第4の教育課程#6 「子どもらしさ」

2020年08月01日 | 第4の教育課程
  思索しつつ書いていてテンポがゆっくりです。お付合いいただきありがとうございます。

 原始の時代から、近世まで子どもというのはなかなか育たない存在だった。
長く長くそういう存在だった。
弱い存在だからその子どもの命は優先され、子どもの成長過程は尊重された。

 そして子どもは愛らしく、成長・発達の過程はユニークなこともあって、それを見届ける大人たちは、この特別さを「子どもらしさ」として興味や不思議さを感じて見届けた。

 「子どもらしさ」という言葉は、共同体全体が子どもを育む上で子どもの美質として自然に共有していたのではないか。
そして、子どもはこの大人たちの「子どもらしさ」の中で酸素をたくさん吸うように成長してきたのかもしれない。

 そして、現代になり、子どもから「死」の印象が遠ざかった。
子どもは「はかない存在」ではなくなり、子どもは見かけ上タフになった。
そして、最近は、ある子をみて、「子どもらしいいい子ですね」なんて言わなくなってきた。

 結果として子どもは「子どもらしい場」を確保しにくい状況があるとも言える。 

 もちろん、子どもが「タフ」なのは、医療なりの進歩によるのであって、生まれてくる子というのは昔とかわらない。
「タフなはず」の子と、元来タフでない現実の子とのギャップがある。

 小学校や中学校に行って、教育相談をすることがある。詳しくは述べないが、その場にいることが大変な子がいる。
高校でも単位取得に違和感のある子もある。
「不器用にそこにいる子」
太古からの弱者としての子どもが浮かんだりする。

 医療や技術や社会資本の整備の恩恵は大きなものである。
しかし、それによって子どもは強くさせられている面はないのだろうか。
切磋琢磨ということもあると思うのだが。

 特別支援学校の窓から見ると、子どもが成長することに直結したような教育課程が地域の学校にも必要だと感じる。
  
                         (つづく)

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