諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

218 居場所づくりの視点・論点

2023年11月19日 | エッセイ
箱根八里 (三島大社→小田原城) 三島から一里の地点 初冬の富士山の朝

HNK「視点・論点」(10月2日放送)で、湯浅 誠さんが「居場所とめざすべき社会」という話をされていた。
居場所づくりから出発した社会観は説得力がある。

人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。

一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
(しかし)今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。

居場所づくりとは認められる場をたくさんつくるということである。
学校も一義的に居場所であるべきなのはいうまでもない。
湯浅さんは、「教育課程からの疎外」という認識もしている。学校はある子には居場所になりにくいことを指摘している。

放送の内容(全文)

あなたに居場所はありますかそう聞かれたら何と答えになるでしょうか。
自宅と答える方は多いでしょう。ご自宅のどこですか。自分の部屋リビング、お風呂、トイレ、そのすべて、あるいはいずれでもない。
夜中にガレージに止まっている車の中でラジオを聴きながら缶麦酒を飲むことだと言った女性がいました。人それぞれだと思います。
今日は居場所について考えることを通じて、私たちの社会の有り様を考えたいと思います。

広辞苑によれば、居場所とは、いるところ、居所と説明されています。
今自分がいる場所が居場所なのであれば、今の私にとって居場所とは、この場所と言うことになりますが、しかし、今私はテレビカメラを前に慣れない収録で緊張しており、このNHKのスタジオが私の居場所ですと言えるかというと疑問です。ここには居場所感がありません。

実際の用法においては、多くの場合、人は居場所感を抱ける場所を居場所と呼んでいます。居心地が良くない場所は、現に自分がいる場所ではあっても居場所感を抱けないので、居場所とは呼びません。
ではどのような場所に人は居場所感を抱くのでしょうか。

例えば小中学生にアンケートをとると、約半数は学校を居場所だと答え、そして約半数は、学校は居場所ではないと答えます。同じ〇〇小学校の3年1組でもそこを居場所と感じられる子どももいればそうでないこと思います。言うまでもなくクラスメイトとの関係、教師との関係が影響するからです。
居場所間の中身を解明するカギは関係性にありそうです。居場所感と関係性の結びつけ方は多様です。人や物、自然との良好な関係性があれば、人はそこに居場所感を抱きます。
また、居心地の悪い関係性から逃れられる場所に居場所感を抱くというように、関係性と居場所感が逆の形でつながっていることもあるでしょう。

はっきりしている事は、暮らしの中に居場所感を抱ける関係性のある場所が十分にある、たくさんある、そういう人の幸福感は高く、逆に自分が居場所感を抱ける場所は、世の中のどこにもないという人の幸福感は低いと言うことです。中には、それを理由に自殺してしまう人もおり、居場所のあるなしは人間にとって切実な問題です。

昔は街に自由に館入れる雑木林があって、私はそこでチャンバラをやって遊びました。住宅街の中に空き地があって草野球をやりました。駄菓子屋があってそこでたむろしました。
しかし、私の暮らす街からはすべてなくなりました。自分が子どもの頃はもっとたくさんのスペースが街なかにあって、そこで人や自然と良好な関係を作って、居場所感を抱き時にしんどい関係から逃れて居場所感を抱いていた。

そういうスペースや関係性を今の時代において復活させたい、新たに作り出したいそう願う大人たちが行っている営みを「子どもの居場所づくり」と呼びます。私が関わっている子ども食堂もそのうちの1つです。

子ども食堂は初めて誕生してからまだ10年、新しい現象ですが、近年は毎年1000件以上増え続けており、もうすぐ全国の中学校数を超えます。
子ども食堂が増えても子どもの居場所が増えるとは限りません。
学校があってもそこに居場所感を抱けない子どもがいるように、子ども食堂があってもそこに居場所感を抱けない子どもはいるでしょう。
ですが、人々はその営みを止めません。なぜなら、確かにその場とそこでの関係性に居場所感を抱く子どもがいて、それが手ごたえとなっているからです。

自分たちは誰かの大切な居場所を確かに作れている子ども食堂は大人の居場所にもなっています。子ども食堂は義務で行く場所ではありません。そして運営されている方たちはここで一緒に食べようと思ってくれる人を分け隔てなく、受け入れたいそう思っている場合が多いです。ですから8割の子ども食堂は参加に条件はなく、公園のようにきた人たち全てを受け入れており、結果的に6割以上の子ども食堂には高齢者も参加しています。
そして今、年間延べ1270万人の人たちが子ども食堂に参加するに至っています。私たちはこうした居場所づくりを推進しています。子どもの居場所づくりみんなの居場所づくりです。

目指しているのは「どこも」と「どこか」が両立した状態です。「どこも」と言うのは、家庭も職場も、学校も地域も、子ども食堂も高齢者サロンも、と言うように暮らしの中で過ごす様々な場所がどこもかしこも居場所になる状態です。AもBもと言う形でより多くの人によりたくさんの居場所がある状態を指します。

そして「どこか」とは、それでも多くの場が自分の居場所にはならないんだ、とそういう事情を抱えた人はいますから、家庭がダメなら、地域の居場所が、学校がダメなら、フリースクールが、リアルがダメなら、オンラインだと、「AがダメならB」という形で、どんな人にも少なくとも1つは居場所がある。そういう状態を指します。この「どこも」と「どこか」が十全に満たされたとき、私たちの社会はすべての人がつながりを感じながら、幸福に生きられる社会になるでしょう。

私はそれが私たちの社会が目指すべき新しい経済成長の形でもあると考えています。GDPだけを見れば家族が揃って手料理を食べるより、一人一人がバラバラに外食したほうがより多くの金額が消費され、GDPが増えます。
しかしそれが一人ひとりの幸福感を高めるかはまた別の話でしょう。そうではなく、一人ひとりの幸福感を高めることを主眼に置くんです。成長あきらめるのではありません。家族や地域を犠牲にしてでも成長、ではなくて、一人ひとりの幸福感を高める成長を目指す。

人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。

人は認められることに主眼を置く場所に居場所感を抱きます。
頑張ってもいいが、頑張らなくてもいい、そう認められて初めて頑張れるようなところが人間にはあるからです。

私たちはずっと頑張る事を起点に経済成長を考えてきました。そしてみんながものすごく頑張ってきました。しかしこの30年間、日本はまともに成長しませんでした。成長したのは日本よりも残業もしない休暇もたくさん取る日本ほどには頑張らない国々でした。
もしかしたらみんなすでに頑張らないと認められない、と言う回路では頑張らなくなっているのではないでしょうか。
今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。

こだま食堂ではここだと「お家で食べられないものを食べてくれる」という保護者の声をとてもよく聞きます。宿題をやってる娘の姿を見て、「こんなに長く集中していられる娘を見たのは初めてだ」と驚いていた保護者もいました。
居場所では人は普段出してる以上の力を出します。それは成長の源泉です。それは誰かが食べろ、勉強しろと叱咤激励しているからではなく、「頑張るのもすごいけど、頑張らなくてもすごいよ」とその人を認めているからその力が出てきます。

人々が続々と居場所を立ち上げていく背景に、私たちの社会のありようや進むべき未来についてのどのような願いがあるのか、もっと耳を傾け、人々の願いに沿った世の中を作っていきたいと思います。

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217 保育の歩(ほ)#12 強くて優しい行政の管理

2023年11月05日 | 保育の歩
🈟 箱根八里(三島大社→小田原城 )
箱根には地元の方の努力で箱根旧街道の約半分が残されています。三島宿の中心三島大社からスタート。


そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

ニュージーランド3

前回ラーニング・ストーリーと言うツールが様々な立場の人に活用され保育の改善に関与していることを見てきた。
今回はさらに、保育所そのものの質の維持や向上を担保するニュージーランドの仕組みを見てみよう。
見方によっては、教育評価局による保育所管理と言うことになるが、ここにもニュージーランドのユニークさがうかがえる。

まずは下の図である。これも、マオリの人々の言葉を使っている。





ンガー・ポウ・ヘレ
という。
ニュージーランドは、文書表記だけでは、イメージが伝わらないものをたびたび図案化して示そうとする。
下の小さな図は、オリジナルのもので、本来はこうした色使いをしている。(不鮮明で恐縮だが)

中心に位置する「タマリキ(Tamariki)」は子どもたちであり、その周囲の4方向にある「ポウ」(ポウ・ファカハエレ、ポウ・アーラヒ、マータウランガ、ティカンガ・ファカアコ)が直接の評価の内容と言うことになるのである。

ポウ・ファカハエレ(Pou Whakahaere):園の理念、展望、目標、システムは、子どものよい学びの成果が得られるようにする上で、どの程度有効か
ポウ・アーラヒ(Pou Ārahi):子どものよい学びの成果が得られるようにする上で、リーダーらは園内の能力をどの程度有効に構築しているか
マータウランガ(Mātauranga):園のカリキュラムのデザインは、子どものよい学びの成果が得られるようにする上で、どの程度有効か
ティカンガ・ファカアコ(Tikanga Whakaako):子どものよい学びの成果が得られるようにする上で、教育および学びの実践がどの程度うまくいっているか

が、注目するところは、図案の中心の「タマリキ」の近くに位置する「ハエレ・コートゥイ(Haere Kōtui)」(保護者との連携して働くこと)と、全体を包み込むように置かれて「アロタケ(Arotake)」(自己評価を通して得られる持続可能性)があることである。

つまり、4つの評価の指標(ポウ)は独立したものでないことを強調する。

4つのポウは、多様性の受け入れ、構成、バランスを体現している。ポア自立することができず、互いに影響を及ぼし合う。
各ポウは、園がどの程度「ハエレ・コートゥイ(保護者との連携)」を成立させ、「アロタケ」を使用しているかを検討する。ハエレ・コートゥイとアロタケは、各ポウを織り込んでつなげるものと考えられている。


評価は、保護者・家族との連携が大前提になるし、評価が評価のために終わるのではなく、それが持続可能性につながることにおいてのみ意味をなすことを、この独特な図案を用いてイメージを共有しようとしているのである。そしてその中心にはあくまでも「タマリキ」があるべきであるという意志がある。

詳細はあらわしきれないので、文末に「評価指標の構成」(つまり4つのポウのこと)と、「各ポウにおける評価の裏付けになる問い」を参考に。

そして、1989年と比較的新しく発足した教育評価局の評価は積極的に機能をはたしているようだ。

5地域に約150名の評価担当官が任命されており、学校や乳幼児教育・保育における評価を実施する。乳幼児教育サービスのうち開設免許保有サービスすべてについて、おおむね3年に一度、定期的な外部評価が実施される。外部評価と自己評価は、双方に利益をもたらす補完的なものであると考えられており、いかに効果的な自己評価が行われているかという点についても、外部評価の対象である。

ちなみにこの自己評価そのものが保育所開設の条件になっており、それを形骸化させないための3年に一度の外部評価なのである。

タマリキ(子どもたち)を中心とした保育所のあり方と言うのは、基準のようなものをチャック項目としてつぶしていくような評価方法はあり得ない。保育所の質を担保する仕組みが行政的に行われる前提は慎重によく練り込まれたソースと、行政官の専門性が必要であろう。

自分のこととして引き受けてみて「各ポウにおける評価の裏付けとなる問い」を自問してみると、身が引き締まつてくる。





出典:諸外国における保育の質の捉え方・示し方に関する研究会 厚生労働省のHPから


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