諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

178 近未来からの風#16 哲学の躊躇(3/3)

2022年07月18日 | 近未来からの風
テーマ設定の山 山道を長時間歩くと、しばらくの間の自分のいたところがずいぶん狭く感じてきます。


教育哲学のことをつづけます。

この教育哲学の停滞している状況を、この教育学会会長は、

学校教育が目指すべき方向について、教育学者にもっと語ってほしいと私は思っている。現在の教育哲学者(少なくとも日本の)は、この点でずいぶん禁欲的な感じである。いや、禁欲的すぎる。

と言って教育哲学への期待を述べているのである。

性急な議論で、その妥当性を吟味される傾向があって話しにくいこともあるのかもしれないが、「そもそも、今日というのはねえ」から始まる教育哲学がもっと語れていいと私も思う。
若い先生が「近未来からの風」の中でも、教育ということそのものに確かな価値があり、仕事に誇りを持っていかれるためにも。

前回、ポストモダン論よって「教育の正当性や方向性をを根拠づける、最終的な足場は無い」ことが明らかになったと言うことを述べた。そして、広田さんは加えて、

教育学者が確固とした足場に立って教育の目的について語りえなくなった近年の事態は、実践的教育学の規範創出力が著しく減殺された状態である。これは、教育哲学や教育思想史学を研究するものだけの問題ではない。他の分野の教育学者にも大きな影響及ぼしている。

といい、こうした教育の現在的使命やあるべき方向(教育の目的)を語り得なくなった教育学の状況の中で、「現代の教育は、教育目的の次元で振り回される事態になっている」、といい、具体的に3つの点を挙げてそれを説明している。(見出しは私)

一つ目…教育な内容の決定者
現実社会の大きな変化によって、教育の目的の語り直しが教育学の外の人たちによってなされ、それが教育を大きく変化されてきた。財界人、エコノミスト、保守政治家や保守的評論家……といった人たちである。教育学者が黙り込んでいる空隙に、そういう人たちがやすやすと入り込んできたわけである。
グローバル化の急速な進展に対応した、旧来の社会システム全般の見直しの一環として、教育システムの中に市場原理や競争、評価を持ち込もうとする動きである。
財界人やエコノミストは、教育は、何よりも労働者の生産能力を高める手段である、と言うふうに考える。有能な労働者を学校が作り出すような方向へと教育改革を進めようとする。
(保守政治家や保守的評論家)は、共同体的な価値観を学校教育の中で教えさせることに心を注ぐ。教師の「教育の自由」とか、生徒の「思想・信条の自由」とかには無関心で、愛国心とか道徳を学校でガンガン教えさえすれば、秩序正しい人間が作れるはずだと素朴に考えている。


二つ目…被教育者の顧客化
学校教育の崇高な使命とか公共的意義のような部分がポストモダン論で「根拠なし」と叩かれていたちょうどその頃から台頭してきたのが、消費者資本主義的な学校利用観である。つまり「サービス消費者としての親・子ども」という存在の登場である。教育が、購入可能なサービスとして位置づけられ、教育の質は「サービスの質」と読み替えられるようになった。
ショッピングモールのように、学校や教師が思い思いに飾りつけた店を出して、お客さんが立ち寄ってくれるのを待つ、と言う風な感じである。
そこでは、思弁的な「教育の目的」も、学校教育法等に盛り込まれた「教育の目的」も、もはやさしたる意味を持たない。親や子どものニーズや選好がすべてある。教師はただ求められるものを察知し、それを提供する役割になる。


三つ目…学びがいの喪失
「教育の目的」として掲げられた公共的使命が重要性を失っていくと、教育を受ける子どもたちにとって、学校にいく意義が以前にもましてわからなくなる。
よりよい社会的地位の獲得のための勉強と言うのは、明治以来ずっと続いてきた。だから、そういう時でも勉強は目新しいものではない。
今の事態が新しいのは、そのような私的利益追求を超えるような、強力な「教育の目的」を掲げることが難しくなっていることだ。
今や、本人が望むもの、しかも本人のためになることが明白なもの以外のものを、教育の中に割り込ませることが難しくなってきているのである。
本人が学校や教師に対して望まないとすると。そこでの教育は単なる押しつけとして感受されてしまう。「教育の目的」を見失った学校は、子どもたちに対して何ができるか、という問題に直面することになる。


テキストであるこの『ヒューマニティー教育学』が書かれたのが2009年である。
その後十数年が経て、教育学的な言論を聞かないまま、ICT産業と経済産業省とかグリーバル化という波を受け入れざる得ないものとして学校教育に変化をもたらしつつある。それが単に「やり方しだいですね」という技術論での評価ではあまりにスケール感がなさすぎる気がする。教育はもっと腰をしっかり下ろせないといけない。

そして、こうした状況に対し、広田さんは、次の思想を紹介する。

19世紀前半のドイツの哲学者で、ヘルバトルとならんで高名なシュライエルマッハーは、教育の目標について、次のように論じてしる。
教育は、国家や教会や、普段のつき合い諸生活領域を準備し、個人の認識の作用をたかめるために行われる。しかし、この四領域の間には不調和が存在している。国家にとって正しいことが教会にとって正しくない、と言うふうに。こうした矛盾があることは、「これらの社会の状態が不完全であ」り、人倫的関係が不統一な状態である。だから、普遍妥当な倫理学で教育を方向づけることはできない。
ではどうするか。教育は、一方で、「成長期の青少年を国家の現場に対して有能かつ適任であるように育成するべき」である。しかし同時に、もう一方で、「すべての世代の教育の完了した後には共同生活のあらゆる点で不完全性を改善しようという衝動を有すにいたる」ことを教育の目的とすげきである。―社会の諸価値が対立状態であるから、一方では現在の社会への適応をはかりつつ、他方で、価値の対立をこえた調和した未来の社会を自ら作り上げていけるような人間を育てるのが、教育の目的だ、と言うのである。

元来、教育は諸価値の相対のなかにある、その中での主体性を育むのかが教育の目的だ、という。

そして、この章をまとめる。

グローバリゼーションが進む中、未来の社会は不透明である。国民国家で作られてきた世界をこれからどう変化させていくのか、先進国と開発途上国との大きな格差はこれからどうやっていくのか、資源や環境の有限性の問題にこれからどう対処していくのか― 現代が人類史的に見て大きな課題に直面しているであろうとすると、我々の世代は当然そうした問題に最優先でとりくまなかればいないのだが、同時に、これから大人になっていく世代の子どもたちに、この世界が抱えている問題を「改善しようという衝動と才能」をもってもらいたい。

という。

ところが、「改善しようという衝動と才能」を育成する教育というのは十分理解できるし、多数の人が同感するところと思うのだが…、
「デューイもキリパトリックも勝田守一も、似たような議論をしたいたような気がする」といいながら、 「私のこうした思いも、多様なイディオロギーの一つに過ぎない」のだ、ともいうのである。

ポストモダンって何なのか、蓄積されてきた知性の輝きを失わせるような作用を一般的感覚としてはいまだにわからない。

いずれにせよ、これまでの教育学の達成に基づいた教育プロパーとして発言が、今とても大切だと思うが、どうなのだろう。


次回は、マジックカーペットに乗った気分で、その「改善しようという衝動と才能」をもつた人の近未来へのアイデアを見てみよう。



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177 近未来からの風#15 哲学の躊躇(2/3)

2022年07月10日 | 近未来からの風
テーマ設定の山 徳ちゃん新道を15kgのテントを背負って歩くと、ハードワークに一挙に日常から引き離さます。

(これまで論旨を整理します。参考です。)
このシリーズは、学習指導要領でいう「予測不可能な未来社会」という未来像のなさにつてい考えてきたつもりである。もちろんの現場の一教員にはどうにも扱いようのないテーマであることを承知で考えてきている。

しかし、教師という立場上、「君たちの未来は予測不能と言われています」という未来観では、教育活動に責任がもてない気がする。

教師として、人生の先輩として、少しでも確信のある発言をすべきだとすると、「君たちの未来は予測不能と言われています」とは言えない。

で、根拠として「元来。教育の役割とは」というところに立ち戻って、外的に見えにくい時代状況であっても本質を見つめながら進める道があるのではないだろうか、と考えた。

そこで解を求めるように、教育哲学について見ていくと、どうやらなかなか語り切れない事情があるようだ。というのが前回までである。
(ここから今回の本編?です。)

何が教育哲学を躊躇させているのかを引き続き、広田照幸さんの本から学ぶことにする。

現代の教育哲学者が、教育の目的について語ることに臆病なのは、1980年―90年代にポストモダン論が流行したことの影響があるのかもしれない。近代教育学は、普遍的な基礎づけを探してきた。あるいは、その基礎の上に教育学を構築してきたつもりだった。ポストモダン論は、そうした知が絶対的な根拠を持たないことを明るみに出してしまったからである。誰からも文句が出ない「教育の目的」はありえない、と。

それがポストモダン論だった。

あらゆる教育的規範は、恣意的な言明だと言うことになった。近代教育学の言明がもつ恣意性や権力性が暴かれる研究が、次々に出されたそれが90年代だった。

モダニズムの克服の流れが、教育学にも表れ、それまで教育関係者が論拠にしたり、心のよりどころとしていたものが、無根拠とする研究が盛んに行われたということだろう。その結果、

もともと脆弱だった教育学の認識論的立場を、根底から破壊することになった。「教育の正当性や方向性を根拠づける、最終的な立場はない」と言うことを明るみに出したのである。

具体的に何が、「破壊」されたのか、

教育哲学者の今井康夫は、教育学がポストモダンの洗礼を受けたことで、3つの重要な影響が生じた、と言う。
第一に、歴史的モデルの喪失である。「西洋近代の教育原理が今日の困難を克服するためのモデルとなり得ない」と言う状況である
第二に、人間形成論の流動化である。「意識の弁証法的運動としての経験、そうした経験を通しての人間形成と言う…発展の構図」で描かれてきたようなモデルが通用しなくなってきている。
第三に、公共性問題が再構成を余儀なくされている。従来は、権利論や発達論を土台として、学校教育の公共的性格が理論的に支えられてきた。ところが教育の私事化の流れによって学校教育の公共性が疑問さらされるに至ったまさにその時、「ポストモダン」論が、それまで「普遍的な立場」とみなされてきていた権利論や発達論の説得力を減殺してしまうことになった。

以上、引き続き、『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店

難しい表現かも知れないが、読み返すと恐ろしい指摘であることがにわかに理解できてくる。
広田さんは、この節を「ポストモダンの衝撃」と名付けているのである。

ポスト「ポストモダン」はないのか。

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176 近未来からの風#14 哲学の躊躇(1/3)

2022年07月03日 | 近未来からの風
テーマ設定の山 甲武信岳への山梨ルートは、「徳ちゃん新道」といわれ、頂上小屋のご主人が拓いたといいます。その頂上まで標高差1300m、一歩一歩ご主人の努力のすごさを実感します。

少し前、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』が話題になった。
少年コペル君の体験や周りのできごとからの疑問に「おじさん」が答えていくという形式で、吉野が哲学を語るのである。

1948年に初出版され、これまでに8回もさまざまな出版社から出されるほど時代を超えて支持されている思想の本だ。

こうした本は時代を負って廃れる感があるが、この本の場合、戦争の惨禍が残る80年前に書かれ、最新のマガジンハウス版は2017年の出版なのである。子どもたち自身も取り巻く環境も学校教育も時代的に大きな隔たりがあるのに、思想・哲学に類するこの本が確固として時々の子どもたちに支持されていることに驚く。

もちろん、このことを取り上げたのは、他でもない、教育の普遍性をめぐる探究と関係あるように感じるからである。


確固たる児童向け文学が成り立つのと似た文脈で〝確固たる教育哲学〟は語り始められないものか?それは難しいことなのか?。

アカデミックな立場での教育哲学の現場はどうなっているのだろう。

教育学者 広田照幸さんは「問題提起としたいと思って書いた」本で大胆な指摘をする。
(紙幅の都合もあり適切な引用の仕方かわかりませんが。)

 『近代教育フォーラム』第1号(1992年)で、原聡介が、教授可能性論を歴史的にたどり直しながら、今の教育が落ちている事態の本質を、次のように言い当てている。

本来、教育はどう言ったとしても、目的の外在性を前提にしなければならないのだろうけれども、それを明確にできないまま、いやわれわれは内在的目的を大事にするといいつつ、あるいはその振りをしながら、結局は何もしない。その結果、技術主義的に子どもの乱開発にひたすら従事するか、さもなければgood handsを誰か別のところ、例えば政策担当者にゆだねてしまい、その下請け仕事としての教育学に甘んじていることになる。(原聡介「近代における教育可能性概念の展開を追う」)

 教育学は子どもの中に可能性を見出しそこに対して有効に働きかけるための技術知として発展してきた。その発展の方向性は、「何に向かって教育するか」と言う目的(外在的目的)は棚上げにしたまま、「子どもには可能性があるのだから教育する」と言う論理(内在的目的)に従うものだった。だから、「何に向かって教育するか」という問いについては、教育学は口ごもってしまう。子どもに内在する発達可能な部分を見さかいなく伸ばしていくと言うことになるか、あるいは、政策担当者に決めてもらうしかない状態だ、と言うのである。
(中略)
原の問題提起はとても重要である。現代の教育学校にとって最も深刻な危機は、まさに「教育の目的」に関わる問題群をスルーしてきている点にあるのではないか、と思うからである。今ある学校教育の役割や目的をどう考えていけば良いかをカッコに入れて無視したまま、具体的な目標と手段の問題ばかりが考究されている。究極的な方向づけを欠いたまま、学校教育の「改善」が教育学者によって語られているのである。
                     以上、『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)

教育哲学の旗手がアカデミックな立場から発現させにくい雰囲気みたいなものが分かる気がする。
語りきれない感じ。
ただ一方、今ほど「教育の目的」のカッコが外れ、頭上が開かれるような教育の目的が待たれる状況はないのでなる。

そして、広田さんは、「ポストモダン」が教育哲学を躊躇させたという。次回はこのことを考える。



今回、話の切り出しとして、吉野源三郎を紹介した。最後に、目についた一文を載せておく。

コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることになるのだ。
                   (調べ途中のWikipediaから引用です。)

生き方、在り方の普遍性についてである。



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