諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

09 健康な学校#3 夜光虫たち

2019年03月31日 | 健康な学校
<写真>山で桜花を見つけるとまさに特別な存在です。これに魅せられた古人が街に連れていってお酒を飲んで愛でたのだと確信したりしますが、どうなのでしょう。

 時計を見るとそろそろ退勤の時間である。
 教頭先生を助けて、施錠を確かめるべく、懐中電灯を手に校舎を一巡する。

 そうするとところどころの教室に「夜光虫」たちがまだいて、一心に作業をしている。

 近づいて、覗き込むと、給食のおかずの写真カードの周囲にフェルトのような生地を両面テープで貼ろうとしている。メニュー紹介カードを、生徒自身が手を伸ばして取ってもらいたい。そのために、手のひらに過敏のある子も考慮しつつ、取りたくなるようにしているという。
「先生、ここにフェルトが4色あるですけど、献立をどんな分類で4色に分けますかね」
と言って、腕を組んで考えている。

 次の夜光虫は、修学旅行の勉強だと言って行く先の水族館の大きな魚の張りぼてを作って、色塗りにかかっている。
「いいでしょ」なんて言っている。戸締りにきたのに。
 これが明日、子どもたちの前で泳ぎ回り、修学旅行の期待感を高めるのだろう。

 つぎの部屋では、車いすを前に2人で話し込んでいる。
 座面の角度も背もたれの角度に合わせて傾斜をつけないと体に緊張が入りやすい。でも、顔がやや上を向くので、テーブルの上のものが見えにくくなる、と言っているようだ。たぶんそのうち理想の姿勢が作られる。

 ようやく、職員室に戻るとさっき片付けを初めていた先生が何かが気になってハサミで画用紙を切り始めている。
 家に持ち帰って深夜、試行錯誤する人もあるだろう。


 小さな(目立たない)工夫環境づくりをいとわない教員が多いことは学校として誇るべきことである。その努力が子どもたちへの教育の内実づくりそのものだから。(もちろん残業を勧めているのではない。)


 彼らには大きな声の評価いらない。ただ、静かに同僚に関心をもたれている、たぶんそれだけでいいはずだ。
 しかし、そういう目立たない努力は、何かに追われている感じでいる学校では意識されにくい現状がある。


 翌朝、夜光虫たちのいた教室は活気のある学びの場に変わっている。そして、若い先生はその一連を見ている。
 (つづく)



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08 営みとして

2019年03月27日 | エッセイ
(写真)手前が箱根の金時山、富士山と呼応しているように見えました。アイコンタクト!?。


 周産期が長い人類はアイコンタクトなどで心を通じ合わせ共同生活をしてきた。
原始、人間は非情なまでに一人では生きられなかったにちがいない。
生存への奮闘努力の一つは、心を通じ合わせることだった。


 ある恋愛小説のクライマックス。二人が見つめ合って「うまれてきてよかった」とつぶやいたりする。
 極端な例だが、他者との無垢なアイコンコンタクトは、原理的に一人では生きられない人間にとって根源的な安心感であり喜びである。
 人類種が必死で生きぬいてきた結果の結晶的感情といえるかもしれない。


「教育計画」に書かないまでも、意識せずとも子ども達と目を合わせたいし、目が合うようになることは嬉しい。
 こちらの視線の好意を感じて笑顔がでることにその子の成長を感じたりする。
 このことは視覚の弱い子や自閉傾向の子にも無意識にあてはめ視線を合わせるようなことを諦めずにしたりする。


 車いすで一人でいる子を見つけると、正面に来て膝をついて少し見上げるようにして顔を覗き込み、やさしく名前を呼びながら、子ども目の中のゲートをノックしている。
 この我々のよくやる行為は、子どもの側から自分も承認してほしいという無意識がさせているように感じたりする。

 
 教育学者 堀尾輝久は「教育は営みである」という。
 全人的な営みとして教育を考えると学校は相互の存在を確かめ合うような根源性が通奏低音として響いているように思う。



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07 健康な学校#2 かわいがる

2019年03月23日 | 健康な学校
 教育行政に携わっている時、たくさんの学校へ行って校長先生とお話しをした。
 どの学校の校長先生も当然、組織の長の立場だから、用件に適格に、理性的に話される。

 この日は病院に併設する特別支援学校である。
病院の長い廊下をコツコツと歩きながらの校長先生との会話もその「校長先生」の話口調だ。
学校の課題、病院の実情、入院している生徒のこと…。簡潔に、一定の調子で。
「そうですか」「なるほど」「はい、わかります」…。こっちも職制として頷く。


 ところが、である。
角を曲がったところの小さな教室に入り、数名の子ども達が集まってくると、

「おはよう! 〇〇さん、△△さん、□□さん、…、それでみんなねー、この間の〇〇のことだけどね…。」

と話し始める。(さっきと違う…。)

 生気に満ちたオーラが見がみえるほど全身が雄弁に見える。
 引き込まれて、子ども達の表情もぐっと明るくなっている。その場にいた先生もそのオーラの中にいて子ども達と同じような気分になっているように見える。

 ベッドサイドで授業をしいる子ども達も、重度の障害で言葉のない子ども達も同じように、全身で歓迎し、かわいがっていることが心地よく伝わってきて、担任もこちらも笑顔になってしまう。


 エレベータの中で、すでに一定の調子に戻っている校長先生に、そのことを聴いてみると。
「そりゃ、無意識だよ」
と少し照れている。



 可愛がることは他の職員にも共鳴していく。単純なことのようだが、なんだか文字による「学校目標」なんかよりずっと大きな学校の理想を学校長が伝えているようにも感じたりする。

 もちろん校長先生だけではない。可愛がるセンスを備えたサブリーダーが、酸素の多いグループを作っている例をたくさん見てきた。  (つづく)


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06 目の色が深くなる

2019年03月20日 | エッセイ
 教員を仕事としていると、その子の成長や変化は本人やその周囲の人の心のありよう次第であるとつくづく思うことがある。
 料理の味付けのように外から調味料を加えて変化をつけるようにはほぼいかない。
 それでも、傍観しているわけにはいかないので、その子の内面を想像しながらできることを黒板に書いては消すような作業をする。
 多くのケースは、その子が卒業したり、偶然のできごとで事態が変わったり、時間とともに終息したりする。

 こんなことの一コマ一コマにきちんと心を遣う仕事はあまりない。教員の専門性と言って目に見えるものは少ないように思うが、本当の専門性は長年のあいだに蓄積される感性のアーカイブスなのではないか。自制しながら、静かに子どもや周囲の人の心をしん酌し、自分の心のありかたを掘り下げるようなことを状況に合わせて行っていく。これによって誰かの気持ちの何かが打破されることを信じて。

 「目の色が深くなる」という表現を聞いたことがある。そういうことが実際あるなぁと実感できるのも年季がかかる。
 


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05 健康な学校#1 はじめに

2019年03月17日 | 健康な学校
 探しているがその本は見つからない。
何人かの天才スポーツ選手や棋士、芸術家の育った家庭をルポした本に、

「(天才が)育った家庭には酸素が多い気がする。」

とあるらしい。

酸素が多い。

 呼吸がしやすく、細胞が生き生きして、食べ物もおいしく、身体も軽い。そして、明日の新しい自分が楽しみになる。だから目標に向けて努力ができる。
 そんな家庭で育って天才は生まれるらしい。

 
 教育行政に携わっていた時、いくつかの学校を訪れる機会があった。
 例えば、はやっている店とそうでない店の雰囲気の違いがなんとなく分かるように、生徒のいない時間帯であっても「はやっている」教室というのはわかるのだ、と改めて思った。

 学校単位でも、はやっている教室の出現率の高そうな学校と、むずかしそうな学校とがある。
 そういうことは意外なほど渦中にいると分かりにくい。私自身もわが校のことは測りにくい。


 教育活動というのは客観的な評価がしにくい。
 数値目標などは下手をすると教育のバランスを崩す。
 しかし、確かに酸素の多そうな教室やグループがあり、それを育む雰囲気のいい学校というものはある。

 学校を含めたヒューマンサービスという仕事は利用者が健康的な雰囲気の中にいること自体が価値だといえる。その中で諸々の活動もいきいきして有効なものとなる。

 健康な学校づくりについて考えてみる。舞台は特別支援教育だが、一般性があるかとも思う。(続く)

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