諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

128 「ズレ」を考える #1 脳と筋肉

2021年03月28日 | 「ズレ」を考える
道 丹沢山塊 最長 大倉尾根の道 標高差1200メートル 💦

脳への入力は、いわゆる五感による。
反対に脳が表現する、つまり出力する手段は筋肉を動かすことのみである。

今こうして、キーボードを操作しているのも指先や前腕の筋肉だし、声を出すのも声帯筋という筋肉に脳が指示をしている。何かを焦点づけて見るとき、(ネットで調べてみると)内側直筋、上直筋、下直筋、下斜筋、斜筋、外側直筋が連動するという。
アスリートの身体表現など最たるものである。

ところが、脳の指示というのが上手に筋肉に伝わらないことがある。
例えば、走り高跳びの選手が、実に合理的フォームでバーをクリアする動きを見て、まね事をしてみても、跳躍の形にすらならないことが多い。
脳の出力は必ずしも筋肉は表現できない。
そんな例はたくさんあって、スポーツの簡単な動作ができないことや、簡単な手作業に思わぬ苦戦をすること、健康診断で「リラックスして」と言われても力を抜けなかったことなど経験している。

逆に、何度も練習した楽器演奏などは体が覚え、自然に近い形で指が動いたりすし、ランニング練習をし続けると、「足が勝手に行っちゃって」の状態になることもある。

筋肉は脳から指示を受けるものであると同時に、それ自体の都合で動きに限界があったり、逆に筋肉自身が自己目的をもって独自に動いしまうこともある。

脳の指示と筋肉の出来る範囲との「ズレ」は誰にでも多少なりともあるが、それが大きく、自分の管理下に置きにくい状態になると「身体障害」と呼ばれ状況になる。

そして、人間はそのズレを埋める技術をもった。

まず眼鏡である。眼鏡は上述の目の動きに関連する筋肉の限界をカバーするものだ。
現在日本人の平均視力は0.5なのだそうだから眼鏡(コンタクト)の恩恵は大きい。
眼鏡がなければかなりの数に人が「視覚障害者」ということになるだろう。

同じように、補聴器があり、心筋という筋肉を管理するのがペースメーカーである。
歩くための、装具車椅子も脳の指示と筋肉の出来る範囲との「ズレ」を調整してくれる優れた技術といえる。
呼吸器系の筋肉を補うポータブルの人工呼吸器を伴って旅行する人すらある。

五感を通じて得た外界の状況や、環境の変化に対応すべく脳は出力し表現媒体である筋肉は働こうとするのだが、ズレが生じる。
そのズレは、筋肉の出来る範囲の問題だったり、脳の指示に無理があることだったり、あるいは外界がタフすぎる場合だってあるだろう。
ズレについて考えてみる。

                     (つづく)

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127 続 閲覧御礼!

2021年03月21日 | エッセイ
道 上高地から横尾に向かう平坦な道 ここを歩くだけで十分いいです。

お礼のつづきです。

学校の教育活動で経験すること、研修や、本、講演会で学ぶことは多様です。
その都度、これは大切なことだと思うことを頭の中に付箋のメモとして残していくと、日々の実践面での実感や疑問がどんどん付箋になって貼られます。そして、研修や読書でも知識や疑問が投げかけられ、それも付箋として心に貼りついていきます。

この付箋がたまっていく状況が私(達)にとって学びなのか?

付箋が飽和して、貼る隙間がなく、本当は二重丸つけて貼っておくべきことも、「あれと同じだな」とスル―してしまうことも出てきます。

経験や知識の付箋に覆われて心がかえって酸欠になってしまうもあり得ます。
付箋がふえることが学びではないとしたらどうするか。

そこで文章化するとどうなのかと以前から予感はあったのですが、毎週、ブログを書いていて、やっぱりそうかと思いました。これら片々の付箋がまとまりを作り剥がれていくような快感?です。

ちょうど、研究会でよくやる付箋のグループ化の作業のように、片々の付箋は大きな価値のグループのディテールとして位置づく感じです。

もちろん、その作業はいつも手際よくできる訳ではありません。付箋が多いなりに、そのグループ構成に異議を唱える付箋も現れます。そうするとまたグループの組み直しが必要です。
そこを何度か練り直しつつ、グループ化することで、少しは普遍性のある価値ができる気がします。

それは価値がある?と言ってすぐに役立つ類のものではありません。しかし、様々な場面での判断や教育活動の振る舞いの根拠になっていくようには思います。第一、懸案が書かれた貼りっぱなし付箋がとれていって楽になります。
(それがすなわち“諦めない教育原理”だ!など言う力はありませんが)

こんなことなので、作業は個人的なもので、あくまでブログ界の片隅を一教師がお借りしている感じです。しかし、個人的と言っても読んでくださる皆さんがあって、難航するグループ化の作業も進むのですから個人的と言い切れない気もします。おかげ様で、ブログ商店街の小さなショップに商品?もならべられるわけです。
せめて拙文が皆さんのお役にたっていればいいのですが…。

前回の最後に、感じることもあると書きました。

それは、SNSの一角であるブログのモラルのことです。
本ブログは、抽象的な教育論が中心ですが、イメージが膨らむように若干事例を扱うこともあり、そこは特に注意が必要です。
言葉は言葉として無所属なうちはいいのですが、特定のどなたかの心に個人の問題として、(誤解も含めて)つながってしまっては大きな問題です。
匿名で言論を発することにもいささか抵抗がありますが、言葉のリスクを抑制する意味でも無所属の透明度があった方がいいようです。
このことは特に要注意!と思っています。

読んでくださり有難うございます。

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126 閲覧御礼!

2021年03月14日 | エッセイ
道 秋の南アルプス北沢峠 仙丈岳と甲斐駒ケ岳の基地としてにぎわいます

おかげさまで、本ブログも2年間つづきました。
修養のつもりとは思いながらも、読んで下さる方があっての連載と実感しています。
お読みいただき有難うございます。

「学び続けること」は教師にとって大切なことですが、何をどう学び続けるのかは少しむずかしい。

学校で行わる研究は直接教育実践にその成果を出しうるし、学び合う雰囲気を作ることにもつながりますから、これが学びのベースかもしれません。

ただ、少し長く教師をやっていると、いろいろ学んだことが蓄積され、片々だったことが時間を超えてまとまることがあります。「学生の時、講義で聞いた“あれ”が“これ”なんだ」と思う時のような。

すると、片々は一つにまとまり、すとんと心の中で結実します。
それがたぶん「身になる」瞬間なのではないかと。

ところが、個人として「身になった」内容は、ほぼ発表する機会を持ちません。
ごく親しい同僚に話す程度でしょう。

かつては、教師の勉強会(サークル)があちこちで自主的に行われていたように聞きます。たぶんそんな場が、中堅以上の教師を育てる場だったように思います。
サロン的な雰囲気の中、議論を交わし認識を確認しあったのでしょう。
ところが、最近はめきっりそんな対話の場がない。

だからと言って、帰りがけのロッカールームで、
「ねぇ、先生。僕「幸福の種」について考えたんだけどォ…」
なんて話かけたら、
「ちょっと!、急ぐんで!!」
と恐ろしい末路をたどります。

それは極端ですが、学びの結実したものをもっと出す場があるといいです。
意見を出すことでさらに理解が深まるし、関心がある人があればなおさらいい。

「だったら、本にでも書いて出版したら」
ということがありますが、実際、本を書くのも、出版するのも大変な労力がかかります。
そして、出しても、500部も売れないようです。

そこで、ブログというわけなのです。
2年間の実験の結果は、修養として大変有効だったといえます。
ただし、感じることもあります。

                   (つづく)

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125 「余白(スペース)」をもって接すること

2021年03月07日 | エッセイ
道 夏の大雪渓 白馬岳に続きます

NHKに視点・論点という番組があり、伊藤亜紗さん(東京工業大学 准教授)が障害をもった人とのかかわりについて語っていた。
タイトルは、
「多様性と利他」

要点は次のとおり、

多様性という言葉をよく聞くようになった。それは、かねこみすずさんの「みんなちがって、みんないい」という言葉に表されるようにだいぶ一般に浸透してきている。

ところが、障害当事者はこの言葉をあまり使わない。障害者と呼ばれる人達は、障害者である部分の他にもたくさんの面をもち、健常者と違う部分だけを特に意識はしていないことが多い。
だから、多様性という言葉は、それぞれの差異を認めようとする一方で、「ひとはひと、自分は自分」といった、両者の共通点を飛び越えて、お互いを干渉しないようにしようという意識につながるのではないか。
実際の障害のある人も(ない人も)、父親だったり、会社の上司だったり、ある専門分野だったら先輩だったりする。
人は、「ひとりひとりの中に多様性」があると言える。

そして、お互いのかかわりあいとして大切なことは、
障害者の障害部分だけを意識して、利他的に「してあげる」のでなく、障害者の中の多様性に信頼をよせながら付き合うこと。
つまり、ひと(この場合障害者)は自分には知らない部分をもっている、という敬意をもって接すること。
そうすればもっと多様に「その人」のことが見えてくる。
別の言い方をすれば、
Be your whole self を実現できるよう「余白(スペース)」をもって接する
ことであり、そのことは、
双方にとっても真の利他的な行為につながる
ことなのではないか。


と続く。
以上は、わずか10分の番組の中での講話であるが、興味深い発想であると思いこのブログに記録したいと考えました。

当たり前の感想として、学校では、子ども達を、教育の対象と見るから、一方的な「利他」を教師は働きがちなのかもしれず、子ども達との関係の間にもっと余白(スペース)をもつべきなのではないか、ということだろうか。
だが、投げかけている「ひとりひとりの中に多様性」の尊重というのは、他者意識の根源としてもっと大きなことを意味しているようにも感じる。

ちなみに、伊藤亜紗さんは、生物学者をめざして文転し、美学、現代アートの先生だという。
こういう視点から障害をもっている人とのかかわりを考える発想は興味深い。

著書、『記憶する体』(春秋社)はその視点でのケーススタディー。
(この本を紹介して下さった読書会諸氏に感謝します!)


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