諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

156 「学び」と私たち#11 ③科学と教育の不整合

2021年09月30日 | 「学び」と私たち
紅葉 奥秩父の最西、瑞牆山の雄姿!

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
最終章は、しばらく佐伯さんの引用のみで続けます。

引用③ 科学と教育の不整合

「教育科学」を「科学」にしようとすれば「教育的視点」は失われ、それを「教育」にしようとすれば、「科学」であることを放棄せざる得なくなる。

人間を扱う科学として、心理学、行動科学、生物学、言語学、社会学、政治学、法学、経済学、人類学、歴史学、考古学、……ほとんど数えられない分野が、「人間を科学的に解明する」という標語で進められてきた。採用してきた「説明」は、ほとんどすべて「AとBで説明する」自然科学的説明であり、先に言った意味での「教育的説明」にはなりきれなかったし、またそのためにこそ、何度も何度も「問いなおし」が行われ、またその「問いなおし」によってこそそれなりの「発展」もして来たのであろう。

教育の科学化は、科学の「教育化」をも意味しなければならないし、人間の科学は科学の「人間化」として進められなければならない。







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155 「学び」と私たち#10 ②可能性に賭ける

2021年09月28日 | 「学び」と私たち
絵地図🈡 ≪番外≫ 地図ではありませんが、導かれます。気を付けないと遭難しまます!。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
最終章は、しばらく佐伯さんの引用のみで続けます。

引用② 可能性に賭ける
教育という営みは、「結局」と絶対と言わない人間の「決意」であり、その人について、たとえ何がわかっても、未知数XをXとしてのこし、けしてそこに定数Aを代入しない。いわば「可能性に賭ける」営みではないだろうか。
何故、われわれはそのように「可能性に賭ける」のか。それはほかでもない、人間はつねに「学びつづけていく」存在だからである。




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154 「学び」と私たち#9 ①「解なし」の探求

2021年09月26日 | 「学び」と私たち
絵地図 これもまた旅情をさそいます。槍ヶ岳、穂高岳への新穂高温泉からのルートのターミナルでもあります。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回から最終章の「学びつづける存在としての人間」に入ります。
「おぼえる」から「わかる」へ、道徳というのは探求する過程であること、そして、「機械」そのものを凌駕する学びの深化が必要であること、と続いて、『学びの構造』という本そのもののまとめになる本章は、「学び」の本質に関わる含蓄ある文章うがたくさんあります。
ということで、しばらく、佐伯さんの引用のみで続けます。

引用① 「解なし」の探求

 そもそも、「教育」というものは、人間を何かに向かって育てるところにその本質をもつ。つまり、人間というものを、「可能性をもつもの」としてながめるわけである。
 ところで、この可能性というものは、「AがBとなる可能性」という形では表現できないというところに「可能性」の意味がある。いいかえるならば、教育においては「人間はどうなるべきか」という問いに、一方では仮に答えようとしつつも、他方では、この「どうなる」自体をもっともっと大きな可能性へむかってひろげていく営みでもあるわけだからである。
 強いて説明を要求すれば、「A(人間)が、B(何らかのもの)でなくなる可能性をもつもの」として人間をとらえるものとして人間をとらえているのが教育である。この場合でも、一番苦しいことは、「それではBでなくなったときは何になるか」と言われれば何とも答えられなという点で、ここに、さきにあげた自然科学の宿命とちょうど相対立する「宿命」があることが明らかであろう。
 いわば、教育においては、「AをBでないものとして説明する」とか、「AをB以上のものとして説明する」のであり、自然科学のように、「AをBによって説明」してしまったとたん、それは教育的視点を失う。


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153 「学び」と私たち#8 「機械」で学べるか 3

2021年09月19日 | 「学び」と私たち
絵地図 箱根の三島側にある山中城址 城というより砦です。小田原の北条氏はここを秀吉に落とされます。 

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回は、「「機械」で学ぶことはできるか」についてのまとめでがすが、次の佐伯さんの渾身の一文を引用して十分と思われます。

科学を生み出していくのも人間、技術をつくり出すのも人間、しかもそれらはすべて、人間の「学び」の結果である。したがって、「正しく学ぶ者」だけが正しい科学や正しい技術を生み出せる。そして、そのように「正しく学ぶ」人間をつくりだそうというのが教育であり、そのための科学、そのための技術を工夫し考えだすことの責任は計り知れないほど大きいいであろう。しかも、これらの、教育のための科学や技術の発展を監視し、正しく方向づけることを要求しつづけるのが、ほかならぬあなたやわれわれ、国民全体であり、そのしごとだけは一部の「専門家」や企業、政府の手に一括してゆだねてしまってはならない。



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153 「学び」と私たち#7 「機械」で学べるか2

2021年09月12日 | 「学び」と私たち
絵地図   箱根旧街道 歴史好きな人には興味深いと思います。箱根越えルートがこんなに変わっているのは政治的な思惑なのでしょうか。


テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回も、「「機械」で学ぶことはできるか」についてさらに本質に迫ります。
その前提になるのは佐藤学さんの近著でのこんな論説です。

(行動主義の心理学者B・F・スキナーが1950年ごろ開発したティーチングマシンがコンピューター教育の起源と言われているが、)最近では彼のS-R-R学習理論を信じている学習科学の研究者はいません。S-R-R学習理論はネズミの動物実験にもとづく理論であり、言語やシンボルを活用する人間の学びにおいては、たとえS-R-Rで学びが成立したとしても、その記憶は短期記憶にしかならないが知られているからです。しかし、スキナーの学習理論はコンピューター教育の領域では生き延び、「教える道具(CAI)」としてコンピューター教育の伝統を作り出しています。(『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)

スキナー等の行動主義心理学者の願いは、「ベテラン教師の「知恵」や「工夫」を万人のものにしていくためには、その「知恵」や「工夫」が、どんな人間でもわかる形で明確に記述されていかねばならないどろう。」だったとすると、その高い志に対して、方法論自体に盲点があったのかもしれません。
そして、その盲点がありそうなことが、子どもを前にした私たちが感じるCAIを全面的には受け入れにくい感覚と一致しているようにも思います。テキストにもどって、行動主義の源泉を探ります。

スキナーの理論の要素は3点。
1 偶発的行動の先行
2 即時強化
3 目標行動の系列化


はじめに、(注意深く設計された)条件設定された環境で、
(1 偶発的行動の先行)
生徒が、何らかのことをやってしまう、
(2 即時強化)
そしてそれが解となる「好ましい」行動だったら、即座に評価する。
(3 目標行動の系列化)
そして、その強化された行動から次の段階に至るように次の環境が提示される。

ということのようだ。そしてこの幾重もの連続性によって学習が進行される。
これが原理である。
したがって、ティーティング・マシンといっても、それは必ずしも何らかの機械的な装置を意味するとはかいらず、スキナー自身は意見普通に本に見える「プログラムド・ブック」と呼ばれるものを使っていたらしいが、さすがに学習者の反応が多肢選択になったり、さらに、反応の種類に応じて枝わかれしていったったりする形式のものは電子計算機でコントロールすることになる(Computer Assisted Instruction:CAI)。

いずれにせよ、基本的には、条件提示、答えの発見、次の条件の提示のシステムは変わらず、この学習形式総体を「ティーチングマシン」という。具体的には現在の学習ソフトである。

そして、テキストでは、この行動主義の学習システムを、
「教育の目標は「行動のことば」であらわせるか」
という項を設けて評価していくのだが、お察しのとおり結論は、佐藤学さんが述べている通り、「その記憶は短期記憶にしかならないことが知られている」ということになる。
そして、実際の課題はその学際的な見解を不問のまま開発がどんどんすすんでいることが今日的な問題ということになる。

しかし、佐伯さんの視点は必ずしもここではないのである。
この議論の過程で、高い志である「教育の科学化」を一つの問題提起として、教えることと、学ぶこととの本質を真理の2軸のように語っているのである。
少し長いが、省かなで引用する。

教育の目標を学習の「行動のことば」で表現し、それが到達されたか否かを検証することを強調し、学習者がその目標行動を達成したときにはじめて「教えた」と自認する、このような教育観は「成功的教育観」とよばれる。それに対して、従来の教育観にみられるように、教育の目標が教師の側で意図することがらとして、しかもそれが達成されたか否かについては外からの観察で「検証」することのできない「……を理解させる」式の表現であらわされているものは、「意図的教育観」とよばれる。いやしくも「教育の科学化」をめざしている人ならば、これはいかにも当然のことであり、そのためには、旧来の古い教育観から抜けきれない人々から誤解や非難をうけることがるとしたならば、これは誠に残念なことという言う以外にない。
教育の目標はできうるかぎり明確にしなければならない、学習者の行動のことがであらわすことがきわめて大切なことである、というについては、ここで十分確認しておくべきであり、「教育の科学化」をそこに賭ける、といってもよいほどに重要なことであることも認めよう。

もう一度繰り返すと、「わかる」とは自分にとって「わからないことがわかる」ことであり、また、「絶えざる問いかけを行う」ことでもある。ここで「行う」といっても、それは頭の中で、本人がやることであり、もちろん外から観察できる明確な行動の意ではない。また、どういう問いかけをするかも全く外から予想もできないし、規制することもできない。われわれは「考える」といわれれば、「“考えるな”といわれたこと」を考える。さらに、「わかる」とは過去の自分自身の経験(これも外からすべて予想できないものだとし規制もできないものであるが)とむすびついてきて、「無関係であったものがどんどん関連づいてくる」ことである。いわば、死に至るまで、「わかりつづけていく」ことなのである。
これを「教える」という場合、一体どのような外から観察できる、明確な「行動」として、その目標を記述できるというのだろう。


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