釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

対米従属のための解釈変更

2014-07-04 19:23:34 | 社会
今日は朝から高い雲が空を覆い、気温は20度ほどしかなかったが、身体を動かすと湿度が高いせいで汗ばんで来た。職場の近辺の山々には山背が流れ、風もひんやりしていた。午後も22度ほどにしかならず、まわりがほとんど半袖の中で、長袖を着ていても暑くはなく、ちょうどいいぐらいであった。職場の自室の窓からは復興工事の音とともに薬師公園からはウグイスの声が今日も聴こえて来た。7月に入り釣りが解禁になった甲子川も今のところ釣り人の姿を見かけない。日中は仕事をしているために見られていないだけなのかも知れないが。 戦後、「日本国憲法」が施行されてからの吉田茂内閣が成立して以来、日本は敗戦国として、対米従属姿勢を貫いて来た。それは吉田茂の出身である外務省を中心に維持され続けて来た。経済大国となり、自衛隊の軍事力も大国としては十分なほどに強化されたが、それでも尚、外務省は対米従属を主導して来た。極めて保守色の強い首相が登場すると外務省はこの機を逃さないように、米国への得点稼ぎに出た。米国は東西冷戦期にはたとえ残酷な独裁政権であっても協力に支持して来た。中東紛争でも同じく利用可能であれば独裁政権を支持した。「民主化」を相手国に求めるなどと言うのはあくまでも口実でしかない。米国はイラク占領、アフガン占領にことごとく失敗し、財政難から軍事力の縮小を現在せざるを得なくなった。2012年8月に知日派の米国元国務副長官であったリチャード・アーミテージ(Richard Lee Armitage)や国際政治学者で国務次官補などの重職も務めたジョセフ・ナイJoseph Samuel Nye, Jr.らが出した「The U.S.-Japan Alliance anchoring stability in asia」(米ー日同盟 アジアの安定性を定着させるために)と言う超党派で作製された報告書では、「Prohibition of collective self-defense is an impediment to the alliance.」集団的自衛権の禁止は同盟にとって障害になるとされている。軍事費の削減に迫られている米国にとって、今や日本の集団的自衛権の行使は不可欠となって来た。この意を組んだ外務省は「戦争の出来る普通の国」を目指す首相を動かし、憲法解釈を担当する内閣法制局長官に外務省から故小松一郎氏を送り込み、憲法解釈変更の下地を作った。沖縄の辺野古で米軍基地の建設を進めるのも、外務省が軍事費削減で沖縄から撤退しようとした米軍を必死で引き止めるためのものだ。しかし、外務省と首相の間には微妙なズレもある。米国は日本と同盟を結ぶだけでなく、韓国とも同盟を結んでいる。しかも、表向きとは異なり、中国との経済的結びつきはもはや切れない関係になっている。安倍首相はそれら中国や韓国と領土問題で緊張関係をあえて作り出している。米国は日本の集団的自衛権の行使を歓迎するが、首相の領土問題を通じた中国や韓国との緊張関係には不快感を持っている。外務省はあくまで対米従属の維持の一環として集団的自衛権の行使を捉えているが、その行使の要件には極めて曖昧さが残されており、外務省の思惑とは異なり、時の政権次第で適応をいかにでも拡大し得る。それでも外務省は自分たちでこれまで通りいかなる政治家もコントロール出来ると思っているのだろうか。
庭のスカシユリが咲いた 釜石では海岸の岩場に咲き、ハマユリと呼ばれる

「解釈」変更

2014-07-03 19:17:07 | 社会
今朝は昨日に続いて良く晴れていた。最高気温は27度まで上がり、風がなければかなり暑く感じただろう。幸い釜石はいい風が吹いてくれる。今日もウグイスが鳴き、夕方にはヒグラシの声も聞いた。職場の裏山には久しぶりに2~3匹のリスが現れ、木の枝の上を走り回っていた。甲子川沿いではてまり紫陽花が並んで咲き、目を楽しませてくれるようになった。 7月1日、政府は臨時閣議において、憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認することを決定した。1981年の政府答弁書では「憲法上許されない」との見解に立ち、それを堅持して来た。しかし、安全保障環境の変化を理由として容認に踏み切った。自国防衛以外の目的であっても武力行使が可能となった。この閣議決定を受けて、共同通信は1、2日全国緊急電話世論調査を実施した。その結果、内閣の支持率は47.8%で、前回6月から4.3ポイント下落した。一方、集団的自衛権の行使容認への反対は54.4%で半数を超え、賛成は34.6%だった。支持率が50%を割れたのは、特定秘密保護法成立直後の昨年12月の調査以来だと言う。集団的自衛権をめぐっては、「行使容認の範囲が広がる恐れはある」との歯止め策への懸念は73.9%に上っている。首相は閣議決定後、集団的自衛権の行使容認によって「抑止力が高まる」と説明したが、これに対する調査では、首相の言葉通り「抑止力が高まる」「どちらかといえば抑止力が高まる」との答えは計34.0%で、逆に「戦争に巻き込まれる可能性が高まる」「どちらかといえば戦争に巻き込まれる可能性が高まる」との見方は計61.2%と、大幅に上回った。そして、首相が政府、与党に検討を指示してからわずか約1カ月半で憲法解釈変更が閣議決定されたことに関して、82.1%が「検討が十分に尽くされていない」と答えている。解釈変更による新たな集団的自衛権の行使のための要件は、(1)日本への武力攻撃や密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある (2)日本の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない (3)必要最小限度の実力行使にとどまるーと言うもので、これらが満たされれば、「武力の行使」は憲法上許容されるとする。過去の日本の歴史を振り返れば、軍備の拡大や武力行使の範囲の拡大が抑止力ではなく、戦争の開始に繋がって来たことは明らかだ。何よりも集団的自衛権行使が時の政府の裁量次第と言う点が問題だろう。政府が閣議決定をした7月1日はちょうど自衛隊発足60年にあたる。憲法9条は第1項で「戦争の放棄」、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を規定している。そもそも自衛隊が発足した時点で、憲法9条第2項「戦力の不保持」に違反して来た。その後は「自衛のための武力行使」は憲法で許されると「解釈」し、自衛隊の戦闘力は強化され続けて来た。「交戦権の否認」を規定した憲法をそのまま適用すれば、たとえ自衛のための武力行使であっても許されることはない。とても明確なことである。しかし、一旦、政府が憲法を勝手に「解釈」し始めると、その流れは、まさに歯止めが利かなくなり、ハードルの高い「憲法改正」を避けて、ひたすら「解釈」だけで戦争の出来る「普通の国」を目指して走り始めている。昨年7月、麻生太郎副総理はドイツのワイマール憲法を空洞化させたナチス政権を引き合いに出して、「あの手口、学んだらどうかね」と発言している。まさに現在、日本の憲法は空洞化してしまっている。そして国会やメディアが本来の役割を担っていない。ここまで来れば、いつか来た道は目の前まで来てしまっているだろう。
甲子川沿いのてまり紫陽花

ライカとツァイス

2014-07-01 19:54:28 | 文化
内陸は27度まで上がったようだが、釜石は23度までだった。職場の窓を開けると清々しい風が入って来て、暑さは感じない。夕方になり、今年初めてヒグラシが鳴いた。裏山はもうジギタリスの花も終わりかけており、野バラ少し咲くだけとなった。周りの高い木々の下にシュロが育って来ているのを見つけた。子供の頃、渋柿を吊るすのにこのシュロの葉を使ったのを思い出した。我が家の庭にも高いシュロの木がある。シュロはイメージ的に暖かい地方の木だと思っていたので、東北で育つの見ると、少し、不思議な感じを受けた。 ドイツには現在も2大光学機器メーカーがある。ライカとツァイスである。前者はもとはライツ社と呼ばれていた。ツァイスはカール・ツァイス社で、いずれも1840年代に創業されている。ライカはカメラ本体が優秀であったのに対して、ツァイスはレンズが優秀と言われて来た。しかし、日本のカメラの安く精巧なカメラが市場を席巻すると、ライカもツァイスも経営的に厳しい状況に追い込まれ、ツァイスはカメラから撤退し、ライカも5年前には部門毎に別会社として独立させるようになった。ツァイスは天体望遠鏡や顕微鏡、眼鏡、光学照準器、軍用・医療用光学機器メーカーとして、自社の優れたレンズ技術を生かした道を歩んでいる。2001年にはライカはデジタルカメラでパナソニックと提携し、パナソニックのカメラのレンズを共同開発し、ライカのライセンスを提供している。従って、パナソニックのカメラにはライカ銘のレンズが付いたものがある。一方のツァイスは2006年にソニーがミノルタのカメラ資産を引き継いだ時に、レンズのライセンスをやはり提供している。ただ、ツァイスはすでに2004年に日本のコシナと提携しており、ソニーのツァイス銘のレンズはコシナが生産しているようだ。パナソニックのライカ銘レンズも生産は同社の山形工場のようだ。ライカもツァイスもその銘を刻むだけあって、パナソニックやソニーへ厳しい基準を求めているようだ。それだけに、確かにそれらのレンズは他のレンズに比べていい写りを生み出してはいる。ソニーやパナソニックはデジタル時代の一眼レフに新規に参入して来たので、キャノンやニコンのようにレンズ資産を持たない。従って、より写りのいいレンズを強調するためにライカやツァイスの技術を使ったレンズを導入することにしたのだろう。以前にも書いたが、現代の日本のメーカーが作るレンズはとても優秀だがニュートラルで面白味に欠ける。個性がないとも言える。そんな中でやはり視点が異なるライカやツァイスのレンズは優秀で、かつ、個性を持つ。しかし、考えてみると、それは日本製の物のすべてにおいて当てはまるように思う。要するに世界的に見て、日本製品は相変わらず安価で優秀なのだ。しかし、個性が埋没してしまっている。誰にでもそこそこの写真が撮れるレンズになっている。ライカやツァイスのレンズはそれぞれ写す条件が適切でなければいい写真が撮れない。撮れたときの写真はほんとうに素晴らしいものになっている。未だに古いライカやツァイスのレンズ、特に後者のレンズは高額で取引されているくらいだ。
まりものようなてまり草