釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

「桜舞太鼓(おうぶだいこ)」

2012-03-11 19:38:29 | 文化
今朝は小雪がちらつき、日中も日射しを見ることがなかった。震災からちょうど1年になる今日は沿岸各地で鎮魂の黙祷が捧げられた。メディアもたくさん入り込んで、例月の11日とは比べもにならないほど、人もたくさん集まっていた。今回の震災の死者は1万5,854人に達し、未だに3,155人の行方が分っていない。岩手県でも9日から今も行方不明のままの1,200人余りを捜索するために沿岸部で県警と釜石海上保安部合わせて400人近くが出動し、今日まで捜索が続けられた。我が家では釜石の唐丹地区本郷で行われる午後2時46分の黙祷とそれに続く鎮魂の「桜舞太鼓」に惹かれた。釜石へ引っ越してから、東北の歴史や民俗芸能の伝統の深さに気付き、釜石の虎舞や鹿踊、神楽の存在を知った。そんな中で、ふと聴いた唐丹地区の「桜舞太鼓」にひどく心を打たれた。ネット上に載せられたものではあったが、それまでに聴いたどんな和太鼓よりも心に響くものがあった。以来、子供たちにも機会があれば是非聴かせてみたいと考えていた。「桜舞太鼓」を深く理解されておられる方のおかげで、3日前、子供たち二人は運良く、「桜舞太鼓」の練習に立ち会わせていただいた。しかも「桜舞太鼓」の会長の計らいでメンバーの方々とともに実際にバチを持って太鼓を打つことまでさせていただき、感無量で帰宅した。二人とも興奮して、娘などは釜石にこのまま留まるのであれば、何としても「桜舞太鼓」に参加するだろう、とまで言っていた。息子も大阪で世界的にも評価の高い和太鼓のグループの演奏を聴いていたが、その太鼓と比べても心に響く音は明らかに「桜舞太鼓」の方だった、と言っていた。この貴重な「桜舞太鼓」を是非世に広めたい、ということで、全員が一致した。しかし、11日は残念ながら、娘はNPOで他の取材に当てられており、どうしてもそれが心に引っ掛かっていた。幸い、同じNPOの先輩に頼んで、結局は、先輩のご配慮で唐丹地区の「桜舞太鼓」を聴く機会を得られた。U先生の組織の方たち3名も釜石での活動があったので、声をかけさせていただき、ともに唐丹地区へ向かった。唐丹地区本郷には過去の津波被害から高い防波堤が築かれていたが、今回の津波はあっさりとその防波堤を超えてしまった。「桜舞太鼓」のメンバーからも犠牲者が出た。太鼓自体も流され、「桜舞太鼓」は危機に立たされた。しかし、会長初めメンバーの強い意志で、瓦礫の中から太鼓を探し出し、自分たちの手で復旧させた。太鼓は世界的にも最初は単なる情報伝達手段として生まれ、日本では縄文時代に遡る。縄文中期と考えられる長野県茅野市の尖石遺跡からは土器に皮を張ったと思われる太鼓が発掘されている。天岩戸に隠れたアマテラスのために岩戸の前で桶を使った太鼓が打たれている。現在の太鼓に近い形になったのは1,500年前頃と言われている。愛知県津島市には900年以上前から和太鼓を作り続けている家がある。和太鼓は宗教儀式や儀礼に使われるようになり、戦国時代頃より民衆の祭事にも浸透して行ったようだ。戦後になって地域の祭りの楽器であった和太鼓が他の楽器と同様に一つの独立した演奏用楽器として使われるようになった。現在では地方だけでなく、そうした独立した演奏グループとしての和太鼓集団が大都市にもたくさん結成されるようになっている。しかし、やはり、和太鼓はよく言われるように「魂」の楽器であり、地方にこそその真髄が見られるように思う。「桜舞太鼓」を聴くとそう感じてしまう。津波が乗り越えた高い防波堤の上で打たれた「桜舞太鼓」の音は海に眠る犠牲者にもきっと届いただろう。
高い防波堤の上で準備をする「桜舞太鼓」

防波堤を取り巻くように走る道路で太鼓の音を聴くたくさんの人たち

防波堤下には瓦礫がまだ残り、周囲の山には雪が少し残る

メンバーは喪に服した黒で太鼓を打つ

会長のバチさばき

防波堤の向こうの湾にまで響き渡る太鼓の音

支援を打ち切るには被害が大き過ぎる

2012-03-10 19:19:32 | 文化
夜半過ぎに茨城県北部を震源とする地震があったようだ。最大震度は5弱。余震の回数は確実に減少傾向にあるが、関東近辺や北部東北から北海道にかけての地域はまだ余談を許さない状況だと考えておいた方がいいだろう。ここ3年は油断が出来ない。今日の釜石は午前中にみぞれ様の小雪が降り、昨日よりは寒く感じる。今日と明日は被災地では震災後1年を迎えて、様々なイベントが行われる。娘も両日ともに仕事がある。息子の方は明日唐丹地区で行われるイベントに立寄ってから、職場の匠の方に用立てていただいた自分用の車でボランティア活動のために気仙沼市へ戻る予定だ。今回の津波で東北沿岸部3県では市町村の自治体職員も多くが犠牲になった。宮城県の南三陸町では町長が職員に最後まで避難指示を出さなかったために職員が犠牲になったとして、遺族が町長を相手取って訴訟まで起きている。支援と復旧のためにはとても現職員だけでは手が回らない。全国の自治体から、警察や消防を除いても8万人近い自治体職員が東北へ支援に来てくれた。岩手県へも2万人近い職員が来てくれている。役所事務手続きや、現場での直接の支援活動など毎日大変な業務を続けている。多くのボランティアも同じだ。ただ残念ながら震災後1年を迎えると、その大半が引き上げて行く。せめて仮設住宅が設けられている2年間だけでも支援が受けられればいいのだが。自治体でも少しずつ復興計画が進むにつれ、専門職の支援が必要になって来ている。これだけの大災害にもかかわらず、人々の冷静な対応に海外から過大とも言える好評を得ているが、それはあくまで現場の被災者や支援者の有り様に対してであり、特に国の対応にはむしろ批判的である。今日の東京新聞の記事を見ても、緊急事態であるにも関わらず、法案の成立や、復興のための具体的な資金の拠出はあまりにも遅い。政府委員からでさえもその遅さに批判が出ている。現政権政党は官僚主導を排するとして、政権に着いたが、震災をきっかけに動転するばかりで、その隙に、前政権以上に官僚により牛耳られるようになってしまった。外交から経済政策、復興対策、原発事故対応まで官僚の思惑通りに動かされ、官僚の縦割りという緊急事態には最も非効率な組織運営がそのまま反映されてしまった。復興庁も形ばかりとしか思えないほど設置が遅過ぎた。しかも設置は中央の発想で、現地の意見を聞くことがなかったために、現場には不便きわまりない場所に支庁がおかれるざまだ。今回の震災はこうした日本の悪しきシステムをまざまざと見せつけられた。中央と地方がまったく連携がとれていない。自ずから地方は自力で頑張らねばならなくなる。せっかく貴重な国民の税金が使われながら有効に生かされない。東京電力の処理をめぐっても国営に持ち込みたい経済産業省と、これ以上負担を負いたくない財務省の思惑が合致した東京電力の2つのグループのせめぎ合いで、そこには国民不在で、官の思惑だけが押し出されている。政治家には何のビジョンも見られない。現場を見ることもしないで、地元自治体に顔を出しただけで東京へ帰ってしまった国会議員の何と多かったことか。多忙な首長はただ振り回されただけである。犠牲者や被災者と支援者のその後の努力を思うと怒りさえ覚えて来る。
水玉の花

列島の阿蘇辺族

2012-03-09 19:23:21 | 文化
昨日は雨が降り、今朝も路面は濡れていた。しかし、寒さは確実に遠のいて来た。日中であればコートを着ていなくとも寒く感じなくなった。気のせいか小鳥たちのさえずりも頻繁に聴かれるようになった。九州ではもう土筆が芽を出しているが、さすがにこの東北ではまだ1ヶ月はかかるだろう。震災以来日本列島の地震や津波の歴史を調べることが多くなったが、それとともに全国に分布する断層や活火山にも関心をよせるようになった。釜石にいると鳥海山や岩木山の噴火に思い至り、東北が何故「えぞ」と呼ばれたのか、と言う疑問とともに、太古の時代に岩木山の噴火で先住の阿蘇辺族の大半が滅んだという和田家文書を思い出した。日本列島はかって大陸と繋がっており、和田家文書では大陸の粛慎族を祖とする阿蘇辺族が津軽に最初に渡って来たことが記されている。しかし、同文書では津軽だけに留まらず、飽田、越、出雲及び北筑紫へも阿蘇辺族が渡っている。全国には今だに「あそ」地名が残っている。また『出雲国風土記』では新羅の岬、北門の佐伎の国、北門の良波の国、越国の都都の岬を引いて来て、出雲の国を大きくしたとある。古田武彦氏によれば北門は粛慎の住む沿海州地域であるとしている。粛慎族である阿蘇辺族が出雲に国を建てたのだ。日本列島の最初の一大民族は粛慎族である阿蘇辺族だった。列島全体に阿蘇辺族が最初に広がっていたが、国家的なまとまりを最初に形成したのが出雲だったのだろう。出雲と津軽には今も阿蘇辺族のものと思われる「ズーズー弁」が残る。古田武彦氏の言われる言素論なるものはまだ体系的なものが提示されていないため理解出来ていないが、そこで述べられる「そ」が神を表すということを考えると、東北、北海道の「えぞ」、九州の「くまそ」も阿蘇辺族由来の言葉と考えることが出来るのかも知れない。津軽の岩木山麓中心に定住していた阿蘇辺族は打ち続く地震の中で起きた岩木山の噴火で壊滅的な被害を受けて、故地を求めて23頭の馬を伴って山なす大筏に乗り、米国大陸から引き上げて来た靺鞨族を祖とする津保化族に併合されてしまう。同じく、時期は異なるのであろうが、出雲の阿蘇辺族や北筑紫の猿田彦らの阿蘇辺族も中国杭州湾近辺の寧波や舟山諸島を故地とするアマテルを中心とした高砂族=天(海人)族に併合される。古田氏などによれば、九州の南の硫黄島や箱根の火山噴火により、南九州や関東に住んでいた縄文期の人々が難を逃れて海へ出て、海潮に乗り、遠く、南米のエクアドルやチリへたどり着き、そこに定住するようになったという。中国の魏志倭人伝に記された「裸国」「黒歯国」がこれにあたる。土器やウイルスの知見がそのことを補強する。太古においても列島では人々は天変地異に翻弄されながらもしっかりと生き抜き、変化を受け入れて、適応して来たのだ。しかし、現代の核物質だけは人類が適応することのできない途方もない物質だ。開けてはいけないパンドラの箱を現代人は開けてしまった。たかが電力を得るためにコントロールの最終的に不可能な物質を使わなければならない必然性など全くない。太古から受け継いで来たこの四季に溢れる列島の自然を何としてもこれ以上忌まわしい物質で汚染させてはならないだろう。
北上山地に属する標高1228.5mの愛染山
北上山地は奥羽山脈より早く隆起し、愛染山のあたりはかってサンゴが生育するような水温の高い大陸縁辺の浅海で
あった

一人一人の気概

2012-03-08 19:19:42 | 文化
気温が氷点下にならないと如何に暖かく感じるか、今日はそれを教えられた。最高気温がわずか5度であっても最低気温が氷点下にならなければ寒く感じない。わずかな風さえもが暖かく感じてしまう。それほどこれまでは異常な気温だった。今週末は震災後1年を迎える行事が目白押しで、釜石のホテルや旅館は予約で一杯になっている。娘と息子の共通の知人がその時に他の用件で釜石へやって来るようで、イベントの準備で忙しい娘は、その人のことを息子にも手伝ってもらって案内役を何とかできないかと思案中のようだ。11日には唐丹の桜舞太鼓(おうぶだいこ)の演奏もあるようで、これも是非聴いておきたいと考えているようだ。週末はU先生の組織でもインターネットを通じて釜石と東京を結んで、イベントが計画されている。これにも娘は声をかけられていて、NPOと掛け持ちで、どうスケジュールをこなすか、思案中でもある。この1年間に震災の支援のために集まった義援金は総額で5千億円を超えた。現在も尚、日本赤十字社には1週間当たり数億円の義援金が届いており、同社や中央共同募金会など4団体は3月末で終える予定だった義援金の受け付けを9月末まで延長するという。岩手、宮城、福島の東北3県ではこれまでに延べ100万人ものボランティアが支援してくれた。こうしたお金と人の支援はとてもありがたい。しかし、支援はあくまで支援であり、重要なのは地元の人たち自らが立ち上がることであり、支援は一時的にそれに手を貸してくれるものに過ぎない。哲学者である大阪大学鷲田清一名誉教授は共同通信の記事で「食べること、排せつ物の処理、出産、子育て、教育、看護、介護、みとり、紛争解決...。そういう人間が生きるうえで絶対に必要な「いのちの世話」を、われわれは行政や民間のサービスに「委託する」という、お任せの構造でずっとやってきた。近代以降ね。それまでは家族と地域社会でやってたことを。 震災でその利便性が裏返しになって、戻った地点は原始生活以下。そのときのわれわれの姿は、クレーマーですよ。文句言うだけ。行政が頼りない。政局のごたごたはもはや「酷薄」とも言うべきありさま。なのに「もう任せられない。自分たちでやる」と言えない。 能力を無くしたから。 それは震災で生じたのではなく、これまでずっと抱えていながらみんなが「見て見ぬふり」してきた問題でしょ。「市民社会」「民主主義」と言いながら、いかに未成熟で無能力だったか。」と述べ、「右肩上がりの幻想とお任せの構造によって、われわれが近代の、150年かかって喪失してきたものを取り戻すのは大変なことです。でもやらないとどうしようもない。」と言われている。「鳩山政権が出した「新しい公共」という考え方は、間違ってないと思う。政党が「大事なことは政党に任せるな」と言ってるんですよ。自分たちで考えてくれって。ものすごいパラドックスでしょ。でも「公」のことはみんなで相談して責任を取る気概のことを、シチズンシップと言うんです、本来。」。江戸時代300年の上意下達の構造と、明治維新以来150年の官主導の構造は日本人に「お任せ」の体質を植え付けてしまった。議会制民主主義という形態をとっていても、実態はまさに「シチズンシップ」を欠いていた。「責任を取る気概」は生まれて来なかった。鳩山由紀夫元首相が行った初めての所信表明演説で明らかにされた「新しい公共」の理念そのものは現在の日本において的を得たものであった。実現されておれば、鳩山氏の言う通り『無血の平成維新』になっていただろう。震災からの真の復興のためには、あるいは、翳りの見えて来た日本を再興するためには、「シチズンシップ」の確立は不可欠だろうと思う。
膨らみ始めたコブシの蕾

ボランティア活動

2012-03-07 19:20:21 | 文化
今日も朝から気温は8度で日中も10度まで上がった。午前中で今週のボランティア活動を一旦終える息子を迎えに気仙沼まで出かけた。途中の沿岸部を南下する45号線の何か所かで、年度末恒例の道路工事が行われていた。こうした道路工事だけではなく、各地の瓦礫回収や、盛り土のためにダンプカーもたくさん走っている。乗用車も他府県ナンバーが多い。神戸や山口県のものまで走っている。市の中心部の大半を津波に襲われた陸前高田市では海岸部を仮の堤防で繋いで波を防いでいるが、時折、波が跳ね上がっていた。その内側でクレーン車とダンプが何台も出て、盛り土を始めていた。元の市街地を走る45号線のそばまで海水が来ており、道路脇には土嚢が積み上げられていた。沿岸部全体の海岸線が地盤沈下してしまったのだ。気仙川河口付近に立つ「1本松」も補修が施されてはいたが、結局は駄目になってしまったようだ。気仙沼市の大川の橋の上から上流を見ると、白鳥やキンクロハジロなどの水鳥たちがたくさんいた。海が近いので甲子川同様にウミネコたちもたくさん飛んでいる。昼少し前にボランティア組織のセンター前にある駐車場に着いた。しばらくすると、次々に車が戻って来て、大勢の金髪の男女と少数の黒髪の男女が下りた。一旦センターに入った後、大荷物を抱えて息子が出て来た。息子の頼みで近くのイオンに寄った。気仙沼のイオンには東京の有名店が結構入っている。広い店内には思ったより客が少ない。一通り買い物を済ませてから、気仙沼市街地を走る26号線に沿って、北上し、途中の道路沿いにある仮設店舗で食事を摂った。食後その近くに息子が午前中に活動をしていた家があると言うので少し歩いて、その家を見に行ってみた。大川の堤防沿いを歩いていると、上空を2羽のミサゴが飛んで行った。周囲に何もなくなってしまった中で何軒かの家だけが取り残されたように建っていた。そのうちの1軒で午前中は作業をしていたそうだ。そのあたりも震災直後は出火しており、近くの陸橋も火の跡を残していた。車中で息子が話してくれたところでは、ある家族を亡くした女性が仮設住宅に移るのを拒否したため、市からの支援を全く受けられず、被災した家で、震災後7ヶ月間も家にあった玄米だけを食べていたそうだ。そのため女性は衰弱していただけでなく、人への不信感も強く、息子が参加しているボランティア組織が関わろうとしても外国人で日本語が通じにくいせいもあって、拒否されてしまった。日本人ボランティアに代わって、少しずつ心を開いてくれるようになり、家から1歩も出ようとしなかった人が、外へも少しずつ出るようになり、笑顔まで出るようになったそうだ。現在いる外国からのボランティアはドイツからの人たちが多いそうだが、ドイツでは若者には1年間のボランティア活動が義務付けられているそうだ。そのドイツ人たちがこの女性が玄米だけで7ヶ月を過ごしたことにショックを受けた。もちろん我々日本人にとってもショックを受ける話である。しかし、確かに震災直後は釜石でもこうした行政の融通の利かなさのために、家に残った人たちは何も支援を受けられなかった。支援のないまま寒く、食料の乏しい生活を強いられていた。ボランティア活動はそうした行政の手の届かないところを埋める役割を持つ。ドイツのように日本でも1年間若者はボランティア活動を義務付けるというのは大いに意味のあることではないかと感じた。
食事を摂った仮設店舗

仮設店舗周辺の被災地

被災地にわずかに残る家の修復にボランティアが関わっている

近くの大川の堤防も一部壊れていた

自然の循環

2012-03-06 19:17:29 | 文化
珍しく今朝は気温がプラスの8度になっていた。今日と明日は最低気温が2度で、残った雪が融けてくれるかも知れない。先日は職場の裏山にアオジが来ているのを見かけたが、今日はヤマガラとシジュウカラの一団を見かけた。わずかの時間だがいつものゴイサギも見かけた。東北の山は落葉樹に覆われ、秋には美しい光景を見ることが出来るだけでなく、落ち葉は肥沃な土壌を与えるため、山野草も多く、木の実が豊かなために小動物もたくさんいる。野鳥も種類が多く、ほんとうに自然の豊かさには驚かされる。しかし、現代の自然から離れた日常生活によって、これほど豊かな自然にも地元の多くの人たちが関心をもっていない。確かに他地方に比べて山菜の時期にはたくさんの老人たちが山へ入っているが、それも全体からすれば、数は決して多いとは言えないだろう。先日もスーパーで目にしたタラの芽の天ぷらを買ってみたが、料理に使う油のせいかタラの芽の天ぷらのあの美味さは感じられなかった。せっかくのタラの芽もその本来の美味さを生かすにはそれなりの工夫がいるのだろう。目の前にある豊かな自然もそこにただあるとしか認識されていなければ、その豊かさに意味がないのかも知れない。津保毛族の手によると思われる青森県の山内丸山遺跡では明らかに人の手によって整えられた栗の栽培が行われた跡が見つかっている。縄文や稲作が行われた弥生の時代ですら、東北では山海の幸が人々の生活を豊かにしていたのだ。狼が棲息し、山の動物たちの必要以上の繁殖が制限されることで、山の幸が守られて来た。人々も自然の掟の中でバランスを保った生活を営んでいたのだ。運送手段も限られていたことから、山や海で捕獲出来る数にも限界があることで、結果的に生態系がバランスよく保たれ続けることが出来た。近代化により、人は科学技術を手にして以来、次第にその生態系を無視し始め、自然の循環には乗せることが出来ない物質を次々に創り出し、不用になると還元出来ないものを自然界に放置するようになった。今地球温暖化が声高に叫ばれるが、それもかなりうさんくさい。今、人が考えねばならないのはこの地球の自然をどう守れるかということだ。単に気温だけではないだろう。制御不可能な核の停止は無論だが、さらに慣れ親しんでいる日常生活そのものの中に生態系のバランスを崩すものが入り込んでいることに目を向ける必要がある。現代的な意味での豊かな生活はもはや今後は望んでも得られないものになって行くだろう。日本の国力は確実に落ちて行く。かっての大英帝国が力を失ったように、米国も日本もその最盛期は過ぎてしまった。人口が減少して行く国家にはもはや国力の伸長は望めない。しかし、だからと言って国がなくなるわけでもない。国力は衰退して行っても国は残り、人はそこで生きて行かねばならない。そして、それはこの日本の今ある国土で生活することであり、その時の国土の状態こそが現代に生きる我々の守って行かなければならない、その姿勢にかかっているのだ。これからの科学技術の発展も常に自然との調和が必須の条件とならなければならい。次世代を担う子供たちは大人の背中を見て育って行く。今ある若者や子供たちの有り様は大人たちの反映でもある。今回の大地震と津波はあらためて我々に自然へ真摯に向かい合う必要を教えてくれた。この太古から続いて来たであろう東北の豊かな自然がいつまでも残されて行って欲しいと願うばかりである。
アオジ スズメと同じくらいの大きさのホオジロ科の鳥

災害への備えは個人で

2012-03-05 19:19:25 | 文化
昨夜から今朝までまた雪が続いたが、午前中には雨に変わって、道がべとつく状態になった。いつもの釜石の冬は2~3度雪が降って、翌日には融けていたが、この冬は気温が低いせいで、何度も雪が降った。最初は雪の降る回数を数えていたが、あまりに多いので、数えるのをやめてしまった。午後、いつもの木に冷たい雨に打たれながら2羽のゴイサギが休んでいた。職場周辺の被害家屋の取り壊し作業も今日は中止になっている。釜石市では両石地区を最後に被災した21地区すべての集団移転計画が住民との合意に達した。両石地区も盛り土で標高18mとした場所に移転することになった。ただもともと両石地区は小高い山に挟まれた狭い地域だったので、海からの距離が近いところで200mになるようで、住民にもほんとうにそれで大丈夫なのか不安があるようだ。一応、市ではシュミレーションを行って、大丈夫だという結論が出ているようだ。被害が大きく、それだけ残された建物も少ない地区から本格的に復興作業が行われて行くのだろうが、その前に地権者との用地交渉があり、まだまだ時間がかかりそうだ。震災後、沿岸部では特に、被害が甚大だった陸前高田市が全国的にも注目された。海岸から平地が広がる陸前高田市は津波がかなり内陸まで襲い、街としての重要な機能を果たす部分がほとんどやられてしまった。何も残らない平地が見渡す限り広がる状態になってしまった。戸羽太市長は震災直前に市長に就任したばかりで、津波が襲来した時には市庁舎の3階へ避難したが、そこにも波が押し寄せ、さらに上にある倉庫へ逃れた。内陸側にあった自宅も津波に襲われ奥さんが犠牲になった。家族の安否を確認するいとまもなく、直後からの業務に追われた。市の復旧のために奔走する中で県や国の大きな壁に直面させられた。緊急事態であるにもかかわらず、「手続き」が問題にされ、いっこうに必要なことが実現出来ない。緊急事態の即応性がまったく見られない。省庁の縦割り行政にも悩まされた。国がかなり遅れて設置した復興庁の出先も地元には不便な盛岡市に決められ、復興にはますます手間取る形になってしまった。身内に犠牲を出しながらも、懸命に復興に専念し、県や国へも直言する市長の姿に、住民も励まされ、マスメディアにも注目されるようになった。多忙な中著書を出して、県や国の復興への取り組みの不合理さを訴えてもおられる。震災後職場でも同じような事態に直面させられたことがある。緊急事態であっても、役人は、通常と変わらない法規を持ち出すのだ。前例がないものには決して動こうとしない。阪神大震災や中越地震の経験があるにもかかわらず、そうした震災時の特例が考慮されていない。要するにリスク・マネージメントが欠落しているのだ。そこには最悪の事態を想定するという発想が抜けている。今回の震災以前から東北の起こりうる巨大地震と津波の可能性はすでに研究者から出ていた。原発への影響も警告が出されていた。しかし、国はそれらを無視していた。むしろ、それらの研究成果を隠蔽し、書類の改ざんまで行っている。企業では今や当たり前になっているリスク・マネージメントのABCですら準備を怠っている。未だに原発の再稼働に執着する国の姿を見れば、ほとんどこれからも起こりうる天変地異への対処は期待出来ないだろう。個々人が自己防衛の手段をとれるように普段から備えておく必要がある。特に、これからは首都圏での大災害に備える必要があるように思う。首都機能が麻痺すれば、その影響は全国に及ぶだろうからだ。最低限食料の個人的な備蓄だけはやっておく必要がある。電力の供給も間違いなく断たれてしまうので、灯火の準備も必要だろう。我が家でも娘が震災直後の経験から、かなり、準備を整えている。
先日行われていた損壊家屋の取り壊し作業

日本だけが被爆国ではない

2012-03-04 19:25:43 | 文化
今朝はまたよく晴れたため、放射冷却で-6度まで下がった。日射しが春の日射しになったとは言え、我が家の庭には一面にまだ雪が残っている。車が走る路上の雪はもうほとんどなくなっているが。一昨日の朝、職場のそばの薬師公園の前に鹿が現れたそうで、通りがかった人たちが携帯電話のカメラを向けていたようだ。甲子川沿いに街中に入って来たのだという。毎年のようにこうして鹿が街中にもやって来る。山の餌がなくなって来たのだろう。先日たまたま岩手日報を読むと、高知県の元教師をやっておられた山下正寿氏のことが書かれていた。1954年に米国が南太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁などで6回にわたり水爆実験を行った。1回目の3月1日の実験で危険水域外で操業していたマグロ漁船第五福龍丸が被爆したため、日本国内で原水爆禁止運動が起きるきっかけとなった。しかし、山下氏によれば、米国のマーシャル諸島の実験では第五福龍丸だけではなく、日本からの漁船は1,000隻もが近くで操業しており、その影響を受けていたという。政府資料でさえ、被爆マグロを廃棄した漁船は延べ992隻、「死の灰」をうけたがマグロを廃棄しなかった漁船が14隻と記しているという。氏は若い孫を失った老人の話から25年以上にわたって当時の漁船員の聞き取り調査を行って来ておられるという。第一回実験の翌日には原子炉予算が衆議院で通過してしている。政府もマスメディアもビキニ事件の影響を過小化するために、被害は第五福龍丸だけであるかのように報じて来たのだと言う。政府の調査も第五福龍丸に限定されていた。翌年、日米間で補償協定が結ばれ、この事件に幕引きが行われ、以後政府はこの事件の被害救済は終わったものとした。第5福竜丸以外の被害実態は調査されることがなかった。補償金は船主だけに渡り、船員にはまったく補償がなかったと言う。氏は今回の福島第一原発事故に対する政府の対応はビキニ事件と何ら変わらず、同じく事故を過小評価し、そのために対応が遅きに失していると言われている。マーシャル諸島の核実験ではマーシャル諸島の原住民も多大な被害を受けているが、未だに正式な調査はされていない。大著『マーシャル諸島 核の世紀』を著されたフォト・ジャーナリストの豊崎博光氏は30年以上こうした核実験の行われた現地を訪れ、核や核燃料の原料となるウランの採鉱現場へも足を運んで、そうした現場が大部分原住民の居住する地域であり、いかなる情報も防護策も与えられないままに押し進められて来た実態を明らかにされている。特に、ウランの採鉱は廃鉱もそのままに放置されることが多く、被害を出し続けているという。「核の平和利用」などという言葉は原住民にとって全く無意味な言葉だと言う。日本ではよく「唯一の被爆国」という言い方がされるが、決して被爆国は日本だけではない。中国のチベット弾圧は執拗だが、これもウランを始めとする鉱物資源がチベットには豊富に存在するため、中国はチベットの独立に繋がる動きは封じる政策をとっているのである。チベットでもオーストラリアやカナダ、ロシアでも原住民の被曝の上で、ウランが採鉱されている。米国にあるウラン鉱を日本の著名な商事会社が購入しており、そこでも原住民が多く住んでいる。原住民の就労機会を与える一方で、被害も放置されている。歴史がどれほど進んでもマイノリティはいつまでも弱く、悲惨な状態に置かれたままなのだろうか。史書は常に勝者の史書ではあるが、歴史そのものは決して勝者だけのものではないはずだが。文明が進むとは一体何を意味するのだろう。
春光

釜石の街づくり

2012-03-03 19:22:17 | 文化
ここのところ寒さが和らいで来ており、今朝も-2度で、日中は4度くらいまで上がった。日が射さない曇り日だが、昨夕から降り続けた薄雪も大部分は融けてしまった。夕方からはまた雪がちらついているが。気仙沼にボランティア活動に行った息子は、昨日から仙台で始まったフランクリン・グラハムによる「東北・希望の祭典」に組織の人たちと出かけた。そこで歌われるゴスペルに興味があり、ゴスペル歌手のアルフィー・サイラスとは以前に何度か会っている。会食も共にしているようだ。娘も3月11日に控えたいくつかの釜石でのイベントの準備に忙しそうだ。岩手日報によれば釜石市は震災で被害を大きく受けた旧商店街のさらに海側にある新日鉄の15ヘクタールある広大な空き地を利用してイオンタウンを誘致するようだ。既存の商店会とも話し合い、そこへの参画により、商店主たちの再興の機会としようというもののようだ。どこの地方都市でも郊外の大型店の進出により、旧来の商店は次々に客足が途絶え、通りに人影を見ない状態になってしまった。震災前から釜石でも旧商店街はほとんど集客力を失っていた。そこへ津波による大被害を受けたため、かなりの商店が再起不能となった。商店主の高齢化も大きく影響している。現在の釜石には大型店は大船渡市の企業が運営するスーパーが3店舗と薬の大型店など限られている。結局釜石の人たちはちょっとした買い物だと隣の遠野の大型店を利用する。大船渡市のスーパーは今回の津波で、本社も被害を受け、社長の身内もなくなっているが、沿岸でスーパーを展開する各市町へ、復興の多額の寄付金を納めている。日本の地方都市の流れを見る限り、いずれは釜石へも大型店が進出して来る。釜石の住民の日常の購入を考えれば、今回のイオンの進出計画はある意味ではいい機会なのかも知れない。既存の商店で再興を考えているところも自力での再興はなかなか困難だ。イオンに参画することで再興することも一つの手段ではないだろうか。実現すれば、釜石だけでなく、近隣の市町村からも客が集まって来るだろう。大きな職場の確保にも繋がる。これまでの釜石は新日鉄という巨大企業の城下町として各商店は顧客に向けた販売努力を怠り、殿様経営をやって来た節がある。イオンという外部の商法が入り込むことで、大変ではあるがあらためて顧客に向いた商法を学ぶ必要があるように思う。震災は大変な被害をもたらし、復興にもまだまだ時間を要する。待ち切れず、旧商店街の建物を修復してすでに営業を始めている店もあるが、このままでは恐らく営業を続けては行けないだろう。津波に襲われた地域は何らかの形で土地のかさ上げがなされる。区画もどう変わって行くか分からない。イオンの進出がこうした街づくりの起爆剤になればいいだろうと思う。かえって旧商店街の跡地をどう利用していくか、イオンを中心として進む可能性も出て来る。地方都市の郊外店のあるところには他の郊外店も集まって来るからだ。釜石の場合は土地が狭いので、旧商店街は本来は中心地であり、郊外ではないが、津波被害のために、今はむしろ、他の地方都市でいう郊外にあたる形になってしまった。これを機に釜石には是非将来に繋がる街づくりをやって欲しいと思う。
寒さが少し和らいで来た最近になって、氷柱を見ることが多くなった

海の異変

2012-03-02 19:15:30 | 文化
この冬は寒さが厳しかったので今朝のように-2度くらいだと暖かい朝だと感じてしまう。慣れと言うものは怖い。日中の気温がプラスになってくると気のせいか小鳥もたくさん目につくようになってきた。庭のモミジの木にやって来たツグミを見ると春がやはり近いのかな、と感じさせられる。昨夜は娘は住民向けパンフレット作りのために夜中の2時までパソコンに向かっていたようだ。今月釜石で行われるU先生の講演の案内パンフレットだ。NPOの活動とは異なるために、日中には作れない。睡眠不足のまま出勤するので、まだ未熟な運転が心配で、注意をしておいた。今回の震災では津波で沿岸部のすべての漁業が大きな損害を抱えた。岩手日報によると、債務超過が約11億円に膨らみ解散に追い込まれた釜石の隣の大槌町のそれまでの漁協に代わって新たな漁協「新おおつち漁協」が今月からスタートした。組合員は150人で、出資金総額は1,500万円だ。旧組合員は800人いたそうだが、100人が犠牲になった。高齢を理由にこれを機に辞める人も多いのだ。今月中旬から始まるワカメの刈り取り準備が進められている。水産庁が2月29日付けで出した放射性物質の調査結果を見ると、釜石沖のマダラからもセシウムが1Kgあたり6.88ベクレル検出されている。一関市の砂鉄川や陸前高田市の矢作川の天然ウグイからは200ベクレル代のセシウムが検出されている。天然ヤマメも同じく100代の数値になっている。いずれも国が定めた基準値以下であるが、その基準そのもに「安全」の基準はない。たとえ基準値以下であっても体内に取り込まれれば、体内で放射線を出すことには変わりがない。セシウムに近接する細胞はまともに放射線を浴びる。近畿大学の山崎秀夫教授(環境解析学)の調査で、東京湾の荒川河口付近の海底で放射性セシウムの濃度が上昇していることが報じられている。国は現在まで東京湾の調査を行っておらず、同教授は今後も国が継続的な調査をする必要があることを訴えている。首都圏の放射能濃度の高い地域を流れる河川から東京湾に原発事故由来の放射性物質が流れ込んだもののようだ。核実験が盛んだった1960年代に、河川から琵琶湖に流入したセシウムの研究データから、地形が似る東京湾へのセシウム流入のピークは一、二年後になるという。東京湾は湾口が狭く、外洋からの海水が流れ込みにくい、というから蓄積が徐々に進み、魚介類への影響も食物連鎖としていずれ出現して来るだろう。放射性物資とは恐らく関係ないだろうが、九州の有明海でも異変が起きている。有明海特産のサルボウやタイラギなどの貝が大量死している。漁業者らがこれまで経験したことがない事態だという。生き残っている貝を独立行政法人水産総合研究センター増養殖研究所(三重県)で検査した結果、エラにあるはずの細かい毛が抜けていることが確認された。サルボウは、エラから植物性プランクトンを濾して餌として体内に取り込んでいるため、エラが傷んだサルボウは餌を取り込めなくなるという。有明海・八代海漁場環境研究センターの調べではサルボウは環境変化に強い上、大量死前に極端な環境悪化はなかったので、今後原因調査が必要だとしている。山口県水産研究センターなど3機関の合同研究チームの調査でも過去10年間で、山口県沖の日本海の熱帯、亜熱帯性の魚類が倍以上に増えていた。1991年に約300種だった魚種の累計は、約3倍の870種類になった。1990年代後半から日本海の水温が上昇したことの結果と考えられるようだ。萩市沖の海水温は1997年以降、60年~90年代初めより約1度高い19.8度の状態が続いている。原発では運転中は発電電力の3倍の熱量を発生する。火力に比べても1.7倍の発熱量になるという。100万キロワットの原子力発電所の場合、1秒間に70トンの海水の温度を七度上げといわれる。全国54基の原発がこれまで海水温を上昇させて来たことは間違いないだろう。これらが海の生態系へいかなる影響を与えているかほとんど調査されていない。
愛染山と東の高清水山を結ぶ嶺 遠野と釜石の市境にある
遠野には東西二つの高清水山があり、低い西の方がよく知られている