今朝は小雪がちらつき、日中も日射しを見ることがなかった。震災からちょうど1年になる今日は沿岸各地で鎮魂の黙祷が捧げられた。メディアもたくさん入り込んで、例月の11日とは比べもにならないほど、人もたくさん集まっていた。今回の震災の死者は1万5,854人に達し、未だに3,155人の行方が分っていない。岩手県でも9日から今も行方不明のままの1,200人余りを捜索するために沿岸部で県警と釜石海上保安部合わせて400人近くが出動し、今日まで捜索が続けられた。我が家では釜石の唐丹地区本郷で行われる午後2時46分の黙祷とそれに続く鎮魂の「桜舞太鼓」に惹かれた。釜石へ引っ越してから、東北の歴史や民俗芸能の伝統の深さに気付き、釜石の虎舞や鹿踊、神楽の存在を知った。そんな中で、ふと聴いた唐丹地区の「桜舞太鼓」にひどく心を打たれた。ネット上に載せられたものではあったが、それまでに聴いたどんな和太鼓よりも心に響くものがあった。以来、子供たちにも機会があれば是非聴かせてみたいと考えていた。「桜舞太鼓」を深く理解されておられる方のおかげで、3日前、子供たち二人は運良く、「桜舞太鼓」の練習に立ち会わせていただいた。しかも「桜舞太鼓」の会長の計らいでメンバーの方々とともに実際にバチを持って太鼓を打つことまでさせていただき、感無量で帰宅した。二人とも興奮して、娘などは釜石にこのまま留まるのであれば、何としても「桜舞太鼓」に参加するだろう、とまで言っていた。息子も大阪で世界的にも評価の高い和太鼓のグループの演奏を聴いていたが、その太鼓と比べても心に響く音は明らかに「桜舞太鼓」の方だった、と言っていた。この貴重な「桜舞太鼓」を是非世に広めたい、ということで、全員が一致した。しかし、11日は残念ながら、娘はNPOで他の取材に当てられており、どうしてもそれが心に引っ掛かっていた。幸い、同じNPOの先輩に頼んで、結局は、先輩のご配慮で唐丹地区の「桜舞太鼓」を聴く機会を得られた。U先生の組織の方たち3名も釜石での活動があったので、声をかけさせていただき、ともに唐丹地区へ向かった。唐丹地区本郷には過去の津波被害から高い防波堤が築かれていたが、今回の津波はあっさりとその防波堤を超えてしまった。「桜舞太鼓」のメンバーからも犠牲者が出た。太鼓自体も流され、「桜舞太鼓」は危機に立たされた。しかし、会長初めメンバーの強い意志で、瓦礫の中から太鼓を探し出し、自分たちの手で復旧させた。太鼓は世界的にも最初は単なる情報伝達手段として生まれ、日本では縄文時代に遡る。縄文中期と考えられる長野県茅野市の尖石遺跡からは土器に皮を張ったと思われる太鼓が発掘されている。天岩戸に隠れたアマテラスのために岩戸の前で桶を使った太鼓が打たれている。現在の太鼓に近い形になったのは1,500年前頃と言われている。愛知県津島市には900年以上前から和太鼓を作り続けている家がある。和太鼓は宗教儀式や儀礼に使われるようになり、戦国時代頃より民衆の祭事にも浸透して行ったようだ。戦後になって地域の祭りの楽器であった和太鼓が他の楽器と同様に一つの独立した演奏用楽器として使われるようになった。現在では地方だけでなく、そうした独立した演奏グループとしての和太鼓集団が大都市にもたくさん結成されるようになっている。しかし、やはり、和太鼓はよく言われるように「魂」の楽器であり、地方にこそその真髄が見られるように思う。「桜舞太鼓」を聴くとそう感じてしまう。津波が乗り越えた高い防波堤の上で打たれた「桜舞太鼓」の音は海に眠る犠牲者にもきっと届いただろう。
高い防波堤の上で準備をする「桜舞太鼓」
防波堤を取り巻くように走る道路で太鼓の音を聴くたくさんの人たち
防波堤下には瓦礫がまだ残り、周囲の山には雪が少し残る
メンバーは喪に服した黒で太鼓を打つ
会長のバチさばき
防波堤の向こうの湾にまで響き渡る太鼓の音