釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

ボランティア活動

2012-03-07 19:20:21 | 文化
今日も朝から気温は8度で日中も10度まで上がった。午前中で今週のボランティア活動を一旦終える息子を迎えに気仙沼まで出かけた。途中の沿岸部を南下する45号線の何か所かで、年度末恒例の道路工事が行われていた。こうした道路工事だけではなく、各地の瓦礫回収や、盛り土のためにダンプカーもたくさん走っている。乗用車も他府県ナンバーが多い。神戸や山口県のものまで走っている。市の中心部の大半を津波に襲われた陸前高田市では海岸部を仮の堤防で繋いで波を防いでいるが、時折、波が跳ね上がっていた。その内側でクレーン車とダンプが何台も出て、盛り土を始めていた。元の市街地を走る45号線のそばまで海水が来ており、道路脇には土嚢が積み上げられていた。沿岸部全体の海岸線が地盤沈下してしまったのだ。気仙川河口付近に立つ「1本松」も補修が施されてはいたが、結局は駄目になってしまったようだ。気仙沼市の大川の橋の上から上流を見ると、白鳥やキンクロハジロなどの水鳥たちがたくさんいた。海が近いので甲子川同様にウミネコたちもたくさん飛んでいる。昼少し前にボランティア組織のセンター前にある駐車場に着いた。しばらくすると、次々に車が戻って来て、大勢の金髪の男女と少数の黒髪の男女が下りた。一旦センターに入った後、大荷物を抱えて息子が出て来た。息子の頼みで近くのイオンに寄った。気仙沼のイオンには東京の有名店が結構入っている。広い店内には思ったより客が少ない。一通り買い物を済ませてから、気仙沼市街地を走る26号線に沿って、北上し、途中の道路沿いにある仮設店舗で食事を摂った。食後その近くに息子が午前中に活動をしていた家があると言うので少し歩いて、その家を見に行ってみた。大川の堤防沿いを歩いていると、上空を2羽のミサゴが飛んで行った。周囲に何もなくなってしまった中で何軒かの家だけが取り残されたように建っていた。そのうちの1軒で午前中は作業をしていたそうだ。そのあたりも震災直後は出火しており、近くの陸橋も火の跡を残していた。車中で息子が話してくれたところでは、ある家族を亡くした女性が仮設住宅に移るのを拒否したため、市からの支援を全く受けられず、被災した家で、震災後7ヶ月間も家にあった玄米だけを食べていたそうだ。そのため女性は衰弱していただけでなく、人への不信感も強く、息子が参加しているボランティア組織が関わろうとしても外国人で日本語が通じにくいせいもあって、拒否されてしまった。日本人ボランティアに代わって、少しずつ心を開いてくれるようになり、家から1歩も出ようとしなかった人が、外へも少しずつ出るようになり、笑顔まで出るようになったそうだ。現在いる外国からのボランティアはドイツからの人たちが多いそうだが、ドイツでは若者には1年間のボランティア活動が義務付けられているそうだ。そのドイツ人たちがこの女性が玄米だけで7ヶ月を過ごしたことにショックを受けた。もちろん我々日本人にとってもショックを受ける話である。しかし、確かに震災直後は釜石でもこうした行政の融通の利かなさのために、家に残った人たちは何も支援を受けられなかった。支援のないまま寒く、食料の乏しい生活を強いられていた。ボランティア活動はそうした行政の手の届かないところを埋める役割を持つ。ドイツのように日本でも1年間若者はボランティア活動を義務付けるというのは大いに意味のあることではないかと感じた。
食事を摂った仮設店舗

仮設店舗周辺の被災地

被災地にわずかに残る家の修復にボランティアが関わっている

近くの大川の堤防も一部壊れていた

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