釜石の日々

カルデア人の日本への渡来

『東日流外三郡誌』をはじめ津軽の和田家に伝わる文書にはしばしば奇想天外な内容が記されているため尚更、偽書として無視されやすいところがあるのかも知れない。しかし、一見奇想天外に思われる内容も最初から排除してしまうのではなく、史実である可能性をむしろ探って行く必要があるのではないかと思われる。これらの文書の大半を書いた秋田孝季自身が言うようにすべては当時の伝承を聞き取ったものであり、矛盾する内容も多々含まれている。それ故に彼自身がその真実性の検証を後世に委ねている。後世に当たる現代人はその検証の責任があるとも言える。『和田家資料3』に「北斗抄」があり、そこには紅毛人カルデア人が渡来し荒覇吐神の祖神を伝えたことが述べられている。「シュメイル」なる言葉も記されている。これはまさに偽書派が飛びつく内容だと思われる。チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアに世界最古のシュメール文明があったことが明らかになったのは1877年であり、秋田孝季らの存命中には一般に知られることはなかったからだ。しかしこのことが逆に史実としてあり得たのかも知れないと思わせてくれる。秋田孝季らは実際に松前から沿海州に渡り、黒龍江を遡上し、蒙古から西山靼、メソポタミア、エジプト、ギリシアへ行っている。メソポタミア現地の伝承をも調査しているのである。しかも「北斗抄」によれば西山靼の調査は三度行われているようだ。1877年にフランスの発掘隊が発掘したのもおそらくそうした現地の伝承を聞き込んでいたからだと思われる。カルデア人は紀元前1000年ころからメソポタミアで活動しているようだ。ネットを調べていると秋田孝季以外のルートでの「シュメイル」伝承があるのか、日本はシュメール人の国家だったなどというまさに奇想天外なことまで出ている。さらに調べると実際この世界最古の文明であるシュメールと日本を結びつける考えは1690年出島のオランダ商館付医師として2年間日本に滞在し、将軍徳川綱吉にも謁見したドイツ系オランダ人エンゲルベルト・ケンペルに始まるようだ。大正時代に入り、このケンペルの考えに影響を受けて弁護士で、バビロニア語に習熟した原田敬吾がバビロン学会を創設し、日本人はシュメール人に由来すると説いたようだ。この考えをさらに継承した人たちが後にも何人か出ている。日本人がシュメール人に由来するかどうかは証明は簡単ではないし、かなり「?」だと思われるが、「北斗抄」に記された紅毛人カルデア人の渡来と荒覇吐神への影響については可能性はあるのではないかと考えられる。西山靼は日本との関係や旧約聖書の起源の問題としても非常に興味を惹かれる地域だ。
大都会の屋根の上で見つけた菜の花
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