釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

過去を真摯に受けとめられるだろうか

2011-06-07 19:34:59 | 文化
今日は朝からよく晴れて気温も高く、予想最高気温が26度となっているが午後の暑さは恐らくそれ以上になっていたと思われる。東京や大阪よりも予想気温が高くなっている。釜石は海や山が近いので風が適度に吹いている。日陰にいると今日などはその風がとても気持ちがいい。職場の裏山の深い緑の中に青空を背景に薄紫の桐の花がよく映えていた。縄文時代末期から弥生時代にかけての遺跡は近畿地方より北部九州の方がはるかに貴重な遺跡が見出されている。しかしそれほどの重要な遺跡も内容に比べて歴史学では軽視されてきた。同じく東北も歴史の中では蝦夷という未開の辺境地として捉えられて来た。東北には北部九州に継ぐ早期の稲作があり、三内丸山遺跡のような巨大集落がすでに縄文前期から中期にかけて存在していた。岩手県二戸市には爾薩体(現在は仁左平)(にさったい)という遺跡の宝庫があり、やはりここでもその遺跡の重要性が顧みられることがない。歴史では全く無視されている。しかし『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』を始めとする青森県五所川原市飯詰の和田家に代々秘蔵されてきたいわゆる『和田家文書』には紀元前からの大陸との交流が盛んで平和が長く維持されて来た王国が東北に存在していたことが記されている。王居は先の爾薩体にもあったことが書かれている。北部九州にも各地の寺社の古文書として独自の王朝の存在を示唆する内容が残されている。東北や北部九州に存在した王朝は万世一系を前提とする現在の歴史学にとって認められる史実であってはならないのだ。そのことが発掘される遺跡よりも重要なことなのだ。それ故に歴史学と矛盾する東北や北部九州の遺跡は無視されて行く。地震学者の神戸大学石橋克彦名誉教授は1994年に『大地動乱の時代―地震学者は警告する』という書籍で歴史上の過去の超巨大地震が周期的に起きており、「技術的、あるいは戦術的な対応では到底凌ぎきれない」『迫り来る大地震活動期は未曾有の国難である』と2005年の衆議院予算委員会公聴会でも表明している。地震考古学者たちも各地に残された過去の巨大津波の堆積層を認めている。1771年にはすでに高さ85.4mもの津波が石垣島・西表島を襲ったことがやはり2005年には報じられている。地中に埋もれた歴史の記録がいずれも時の勢力にとって不都合な場合は無視されて来ている。そしていざその事態が現実になると「想定外」だと平気で語られる。1000年に一度の巨大地震は決して単発で訪れている訳ではない。巨大地震が次々に連動するそうした周期が1000年に一度過去に起きて来たということだ。従って今後は位置と時を変えて巨大地震が起きる可能性がある。「時」は月単位であるのか、年単位であるのか誰にも予測がつかない。明日起きるかも知れないし、7~8年後になるかも知れない。しかし、いずれはそう何十年も先ではないだろう。石橋克彦名誉教授はそのことをまさに何十年もかけて訴えて来られた。特にそうした危険が迫っている日本列島に50を超える原子炉が設置されている危険を訴えられて来られた。三陸の沿岸部の「復興」が始まりかけている。ここでも今回の震災の教訓が十分学ばれているか試されるのだろう。石橋克彦名誉教授の言われた「私たちの国土、あるいは社会経済システムというものの根本的な変革が必要ではないでしょうか」と言う提案はこの「復興」にも当てはまるだろう。
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