釜石の日々

古文書も重要な歴史資料

今日は1日曇天が続いた。春は一歩一歩進んでいるので、庭の杏の花の蕾も膨らんで来ている。日射しの当たりにくい薮椿にも二輪の花がやっと開いて来た。昨年は結局芽を出さなかった片栗も今年は芽を出して来てくれた。植物は時々もう諦めていた頃に芽を出してくれたりすることがある。最近又歴史ものを時々読むようになった。震災から1年が過ぎ、気持ちの上でどこか少し落ち着きが出て来たのだろうか。一時、偽書として騒がれた『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の八幡書店版をまた初めから読み始めている。東北の知られていない歴史を探るには非常に重要な書物だと考えている。何万年も前にまだ列島が大陸と繋がっていた頃、大陸から最初に列島へやって来たのが阿蘇部族だ。彼らが縄文時代の長い期間を大分列島に住着いていた。次に列島へやって来たのが津保化族だ。彼らは馬を連れて来ている。戦いも馬を使った戦いに慣れている。東北津軽の阿蘇部盛(あそべもり)に住んでいた阿蘇部族たちは大地からの噴炎と流れる出る溶岩で大半が滅んでしまった。この頃大地は何度も揺れていた。そしてその大地はやがて隆起し現在の岩木山が現れてたという。近畿にあった耶麻台国は日向族の侵入で追われ、耶馬台国王兄弟は津軽に逃れる。古田武彦氏はこの国王兄弟が追われた日向族とは神武ではなく北九州に降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)だと考えておられるようだ。しかし、同書の著者の中心人物である秋田孝季は神武として捉えているようだ。同書には秋田孝季の時代である18世紀後半の江戸時代に津軽近辺で発掘されていたものの絵が描かれている。その中に津保化族のものとしてではあるが、銅鐘が描かれており、それは見方によっては近畿地方でこつ然と消えた銅鐸とも見える絵になっている。秋田孝季が考えていたように安日彦、長髄彦兄弟の耶麻台国が神武に侵略されたとすれば、耶馬台国には銅鐸があったはずであり、東北に逃れた彼らは当然銅鐸を東北でも使ったのではないだろうか。同書では北九州の筑紫を耶馬壹国とし、近畿を耶馬台国としている記述があった。列島に最初に住着いた阿蘇部族の系譜は後に阿部、安倍氏などを名乗っている。東北の安倍氏、安東氏、奥州藤原氏へと血脈が続いていたのだ。かっての東北は現在より気温も高かったようだが、阿蘇部族は温泉の湧き出る地に好んで住んでいた。しかし、定住することなく、各地を移り住んでいた。津保化族の方は火を使って料理をしていたようで、集落を作って定住生活をしていた。後の荒覇吐(あらはばき)信仰の基礎も彼らの信仰がかなり取り入れられていたようだ。古田武彦氏が言われているように列島の歴史は単純な万世一系などではなく、過去にはいくつかの王朝があり、その興亡がこの列島にもあったのだ。
八幡神社近くの山に自生する薮椿が満開だった
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