釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

今も縄文の風景を残す35号線

2013-05-28 19:16:30 | 歴史
午前中は薄い雲が覆っていたが、昼頃から少しずつ日が射すようになった。出勤直後、職場の伝統の匠の方と山藤が咲く裏山を見ながら、子供の頃の話をしていた。気仙沼出身だけあって、子供の頃は、フカヒレを無断で取って食べていたそうだ。釜石出身の職場の匠の方は子供の頃の弁当がいつもアワビで、肩身の狭い思いをしていたと、お聞きしたことがある。いずれも人が聞けば羨ましい話だが、本人たちにすれば、それしかなかった、と言うことだろう。他人から見て羨ましいようなものも地元でそればかりに慣れると、特別なものではなくなってくる。この東北の自然のすばらしさについても同じことが言えるのだろう。すばらしく感じること自体が、古くからそこに住んでいなかったから、と言うことなのだ。 釜石市の鵜住居地区を流れる鵜住居川の河口には南北2Kmの砂浜があった。日本列島では数少なくなった自然の砂浜であった。残念ながら津波でその砂が見事に海に消えてしまった。河口の一部のようになってしまった。砂浜があった頃は河口付近の流れも緩やかで、砂州がたくさんあり、野鳥の宝庫となっていた。それも震災後は姿を変えた。この海岸から川に沿って上流に向かったところに栗林地区がある。海岸からの直線距離で6.5Kmほどの地点になる。地区の名前の通り、栗の林が古くからあり、そこの縄文時代の沢田2遺跡と呼ばれる遺跡からは6000年前の遺物が発掘されている。この時代からこの付近には栗の林があった。先日、さらに上流の橋野地区へ行った帰りに見つけた海岸よりずっと内陸の山肌に残された海岸跡はやはり、かってその辺りが海岸であったことを示していた。縄文時代は海がずっと内陸へ入り込んでいた。それだけ現在の鵜住居地区は低地であり、かっては海であって、やがて湿地帯に変わり、現在のように変化して行った。恐らく、海岸から4Kmくらいまでは海だったろう。いわゆる縄文海進によるものだ。人々の生活で栗は貴重な栄養源であり、川を遡上する鮭もまたそこに定着することを助けただろう。遺跡にはいくつかの竪穴住居跡が発見されている。遺跡は県道釜石遠野線、35号線の改修工事の際に発見され、工事のために調査後は遺跡の一部が消えてしまった。考古学的な遺跡の多くが何らかの工事の際に偶然発見されており、まだまだ地中には多くの遺跡が残されていると考えられる。特に東北は未開発地域が多いだけに、その可能性が強い。栗林地区は一次産業主体の地域であり、それだけに、縄文前期から長く同じような環境が残されて来たと言える。山の植林されていない部分は、太古から変わらない姿を見せているのかも知れない。ただ、縄文時代は、このあたりは気温が現在より2~3度高かった。暖流も流れる海岸から今より近いので、それも気温を上げる要因の一つだったのだろう。豊かな栗の林があり、鮭や岩魚、山女などもたくさんいて、山では熊や鹿がいた。安定した食料が得られた。ほぼ同時代の青森県の三内丸山遺跡では栗の林が植林されていたことが明らかになった。栗林地区に長く残る栗の林も縄文時代の人々が植林したものである可能性がある。そして、そこに定住していた人々はかなりの数がいた可能性もあるだろう。三内丸山遺跡は6本柱と3層の床を持つ塔でイシカ・ホノリ・ガコカムイ(天地水の神)を祀った津保化族のものと思われるので、栗林地区に縄文時代に住んでいた人々も同じ津保化族であったろうと思われる。列島に早くからやって来た先住の阿蘇辺族は主に山中の洞窟や簡単な竪穴住居に住んでいた。生活も狩猟が中心であった。35号線の風景は今も縄文時代の姿を見せてくれているのだ。
今日もまた裏山の旧道を走ってみた