釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

安日彦・長髄彦兄弟の祖国

2012-08-01 19:21:36 | 歴史
ここのところ日を追って暑さが募る。昨日は内陸で35度を超える猛暑となった地点が倍増した。釜石の予想最高気温は30度となっているが、実際にはもう少し高く感じる。職場のある海岸付近と家のある内陸部では1度は違っているだろうと思う。高い空に筋雲が流れ、風もあるため日陰はすこしいいが、日射しの中だととても暑く感じる。こうなるととても高原の涼しさなどとは言っていられない。ここしばらくは釜石もこの暑さが続くようだ。昨日大阪から戻った娘も涼しさを期待していたので、がっかりしている。NPOを辞めたので今日は時間が自由に使えるにもかかわらず、暑くて出かける気がしないようだ。東北の歴史に疑問を持つようになり、古田武彦氏の「九州王朝説」と『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)に出会った。正史では語られることない歴史があることを知った。敗者の歴史は葬られる。東北には阿蘇部族、津保化族という先住者がいた。筑紫の日向の賊に追われた安日彦・長髄彦兄弟がそれら先住者を統合して荒覇吐王国を打ち立てた。奥州安倍氏はその子孫だ。『東日流外三郡誌』を初めとする和田家文書は大部分が安日彦・長髄彦兄弟が津軽の地に逃れた後の記述になっているが、わずかにだが、安日彦・長髄彦兄弟の祖国である耶靡堆国について触れたところがある。和田家文書の『奥州風土記』の「奥州一統信仰之事 荒覇吐石化保野利我古神」に「我が日乃本国は唐書に明記ある如く、故主は耶靡堆国の阿毎氏、安倍なり。即ち、阿毎氏とは古き世に、山靼より満達、朝鮮を経て越州にたどりて加賀の犀川に居住し、白山神三輪大神を祀り、地民と染むるに国を 耶靡堆に拡め、耶馬止王とて君臨せる故事ありき。 地の三輪山に祀れる大神ぞ、先住なる加賀の犀川に祀りき三輪山大神を移鎮せしものなり。故事をたどりては、祖の山靼に祀りき無流波旡(ぶるはん)神、即ち荒覇吐(あらはばき)神を祀りたるものにして、女神を出雲に、男神を耶靡堆に祀りきを西に西王母、東に東王父を地聖選定に依りて祀るを故事正伝とせるなり。 何れも神源は天然自然を祀るを旨とせるは荒覇吐神なり。即ち、荒覇吐神とは天地水を要とせる神にて、万化に変じて世を護持せる全能なる神通力の神なりと曰ふ。」とある。さらに「荒覇吐神之創抄」には「太古に耶靡堆国を司る安泰なる国造りき王あり。是を阿毎氏と曰ふ。安泰なる国政に民安らけく国を併せ、その国域五畿七道に及びぬ。王居は耶靡堆三輪山蘇我郷に存し、五千年なる歴史に創むる国なりき。 初代を 耶馬戸彦と曰して、中央高倉に在りて、王領の東西南北に分倉を置ける五王立政の王国を号けて、代々に阿毎氏王とて襲称さるるなり。 古来より山靼と通ぜるが故に丑寅の日乃本国と親近し、世々安泰を旨とせり。国神を荒覇吐神と定めきは、山靼の化に習う故なり。 幾十万年前に吾等が祖人、彼の祖国よりこの国に渡り来たり、子々孫々を遺し、丑寅に日乃本国、未申に倭国を開きて国造れり。即ち、古きより二つの王国坂東阿毎川より越の糸魚川を以て王領を堺境せり。ときに丑寅の国王は津保王にして北辰の覇者たり。 もとより倭の阿毎氏と祖を同じゆうせる血縁なりせば、争事是無く泰平たり。」という記述がある。山靼から列島へたどり着いた人たちのルートは二つあり、氷で大陸と繋がった北方ルートで津軽至るものと、西方ルートで朝鮮半島から恐らく船で越に着き、加賀の犀川に至るもの。西方ルートを辿った人々は加賀の犀川から耶靡堆三輪山蘇我郷へ至り、そこに王居を設けている。祖は両者ともに同じだと言う。耶靡堆国を建国した西方ルートの人々は謎とされている銅鐸文化を築いた人々ではないだろうか。神武が大和へ侵入した事で銅鐸文化はこつ然と姿を消した。和田家文書著作の中心人物である秋田孝季は「筑紫の日向の賊」、「佐怒」に追われて安日彦・長髄彦兄弟が津軽に逃れたと書いている。耶靡堆国の五十余代国主であった安日彦は津軽に逃れてからも祖国耶靡堆国の国神である荒覇吐神を祀っており、国名も荒覇吐王国としている。銅鐸は現在まで東北では見出されていない。銅鐸圏の国主であった人が何故東北で銅鐸を造らなかったのか。今この疑問には答える事は出来ないのだが。

鶏頭 万葉集でも詠まれている古くから日本にある花