人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

パラボリカビス「山尾悠子『飛ぶ孔雀』文庫化記念展示/「薔薇色の脚」中川多理」行ってきました。

2020-12-14 14:04:04 | 人形論(研究の話)
少し前のことになりますけども、パラボリカビスの最終展示、
山尾悠子『飛ぶ孔雀』文庫化記念展示/「薔薇色の脚」中川多理
に行ってきましたので、その報告を書いておきます。
本当は記憶が薄れないうちに、すぐに書くつもりでいたのですけれども、ずいぶん時間が経ってしまいました。

 

11月23日(月)、最終日の夕方16時頃に行きました。
この季節のことで、訪れたときにはあたりはほとんど薄闇で、帰りは真っ暗でした。
方向音痴の私が、地図をプリントアウトしないでもちゃんと迷わずにたどり着けるくらい、ああ何回も通ったんだなあ…と感慨深かったです。

今回の「薔薇色の脚」は2階のメインのスペースで、
1階の入って右側のスペースに、以前の「最終展示」で展示されていた高岳親王のお人形、
2階のもうひとつのお部屋でガレージセールが開催されていました。

会場は予約制で、ゆったりとした時間を過ごすことができました。
すごく鬱々とした気分で、何も自分の人生が拓けてこないような気持ちでいたときに展示を見に行ったのですが、
見上げるとお人形と目が合う位置に席をいただいて、
他のお客様もいたのですが、しばらくお人形と一対一で過ごしたような気分に浸れて、
ずいぶん癒されました。
最終日で余っているというので、ワイン1杯100円だというのを注文したのですが、
手違いで2杯出てきてしまい、
美味しいしもったいないと思ったけれど、さすがにあそこの手すりのない階段から転げ落ちたらいけないので、
2杯目は無理でした。

小説の『夢の棲む町』のなかで薔薇色の脚は、脚だけ肥大して上半身はほとんどないという、
グロテスクなイメージだったのですが、
そこはやはりお人形なので、
メインの脚は筋肉のつき方やタイツ、トゥシューズの擦り切れ方までひたすら魅力的であることはそのままに、
上半身は小さ目ながらも美しい顔をしていました。
スタッフさんが時々角度を変えてくださっていたのですが、
ほんのちょっとした動きで、崇高にも、あどけなくも見えてしまうのが不思議。
関節の動きもすごくなめらかそうでした。

演出家たちに脚に言葉を吹き込まれて脚だけ成長した薔薇色の脚たち、
その脚たちが「言葉」を抜き取られた後、
演出家たちの遺体を踏みつけながら劇場の中で踊り狂う「言葉を越えて美し」い場面、
それが言葉によって表現される、『夢の棲む町』の世界
(とは言え視点生物の夢くい虫のバクは眠りこけているのだけど)。
その世界を、言葉ではない人形という手法で表現した中川多理さんの展示。

ここ何年か、中川多理さんと山尾悠子さんの新作コラボレーションがあって、
でもパラボリカビスの本当に最後の展示が、山尾悠子さんの比較的初期の作品である『夢の棲む町』がモチーフの、
「薔薇色の脚」というのが、
『夢の棲む町』が円環モチーフの小説だということもあって、
なんだかくるっとひとまわりしたような感じで面白かったです。

思えば、私が山尾悠子さんの小説に出会ったのは、1999年の『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)でした。
まだ学部生でした。
かつての『夜想』の休刊を知ったのと、同じころ。
その後トレヴィルの出版活動はエディション・トレヴィルが引き継いで、
『夜想』の第二期(?)が刊行されるようになり、
展示室「パラボリカ・ビス」が開館して、通うようになりました。
大学院生のころだったかなあ…、それからでももう15年くらい経ちますね。

私は大学院を修了して、父が亡くなって、就職したり転職したり、
犬のいない生活に耐えられなくて実家に帰ったり、
隠居生活のような毎日に耐えられなくて東京に出てきたりしながら、
いつか、ちゃんと安定した収入を得られるようになって、
お人形を買えるようになりたいな、と思いながら通っていましたけれども、
結局そうならないまま、パラボリカビスは閉館になりました。

いつかまた、今度こそちゃんと私にきちんとした収入のある時に、
別のかたちで出会えたらいいなと思っています。

 
帰りにはあたりはすっかり真っ暗でした(それにしても私の写真の下手なこと…)。