人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

日本文学Ⅰ(第5回):『紫式部集』における女性同士の絆

2020-06-12 12:38:37 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

すみません、ほんとに遅くなりました。
第5回をアップします。

 今回は紫式部の家集である『紫式部集』についてお話します。
 今日のお題は二つ、
・従来男女間の贈答だとされてきた4番歌、5番歌を女性同士の贈答として読み替える。
・冒頭部分に注目することで、『紫式部集』を、すでに失われてしまった女性同士のつながりを、和歌によって、心の交流として、構築するものと位置付ける。

 それでははじめます。

はじめに
『紫式部集』冒頭部分は、悲しい別れに彩られた女友だちの贈答が続きます。幼い頃からの女友だちと再会してもほのかにしか会えず、その女友だちは再び遠くへと旅だってゆく…、あるいは遠くに行った女友だちに対し、文の贈答を約束することで慰める…。そのような中にあって、次の四番歌、五番歌は男性との恋の贈答であると言われています。

〈本文引用1〉
    方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて
4 おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
    返し、手を見わかぬにやありけむ
5 いづれぞと 色わくほどに 朝顔の あるかなきかに なるぞわびしき

【口語訳】方違えで来た人がなんだかはっきりしないことがあって帰った翌朝、朝顔の花をやるといって
4 なんだかはっきりしない。そうであったのかなかったのか、明け暮れにぼんやりしていた朝顔の花、あなたの顔は。
    返歌、手跡を見分けなかったのであろうか
5 どちらかと区別している内に、朝顔があるかなきかになったのが侘びしいこと。

 これについては、「なまおぼおぼしきこと」が何を指すのか、「手を見わかぬにやありけむ」とはどういう意味なのか、またこの贈答の相手が後に結婚した宣孝であったのかなどについてさまざまに論じられています(1)。そしてその焦点は、肉体関係があったのかどうかにほぼ絞られ、恋の贈答であるか否か、相手の性別についてはさほど検討されていません。
 しかしながら、「方違へにわたりたる人」の性別は明示されていません。また、「なまおぼおぼし」の用例はなく、「おぼおぼし」の用例も、視覚、聴覚、物事などがはっきりしないことを指す(2)のであって、特に男女関係を指すものではありません。確かに男女関係について朧化した表現を用いる場合は多いのですが、朧化した表現であれば必ず男女関係であるとは断定できず、そもそも朧化した表現であるかも検討を要するでしょう(3)。また、女友だちとの贈答が続く中に男性との恋の贈答が置かれるのはやや唐突です。
 そこで、相手の性別について検討した上で、当該歌の位置づけについて考察します。結果、女性同士の親愛の情を表したものととることとなるでしょう。

1.紫式部の「エス」的感性
 ということで、『紫式部集』冒頭の女性同士の別れや、女性同士の親愛の情について、見ておきましょう。

〈本文引用2〉『紫式部集』
    姉なりし人亡くなり、また人のおとと失ひたるが、かたみにあひて、亡きが代りに思ひ思はむといひけり。文の上に姉君と書き、中の君と書きかよひけるが、おのがじし遠き所へ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて
15 北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲のうはがき かきたえずして
    返しは西の海の人なり
16 行きめぐり たれも都に かへる山 いつはたと聞く ほどのはるけさ

【口語訳】姉であった人がなくなり、また人の妹を亡くした人が、互いに出会って、亡くなった姉妹の代わりに思い思われよう、と言った。文の上(表書き)に姉君と書き、中の君(姉妹のなかの二番目のこと)と書き合ったが、それぞれ遠いところへ行き別れるのにつけて、別所にありながら別れを惜しんで
15 北へ行く雁のつばさに言伝ててください。雲の上を雁が羽ばたくように、手紙の上書きを書き絶えないで。
    返歌は西の海の人である
16 鹿蒜山や五幡(という地名があると)聞くが、(任国を)行き巡り、誰もみな都に帰るというが、(再会は)いつまた会えるだろうかと思うほどのはるか先である。
▽「雁のつばさ」に言伝るという発想は、漢の蘇武が雁の脚に手紙をつけて送った故事を踏まえる。
▽雲のうはがき=雁が雲の上を羽ばたく/手紙の表書き
▽鹿蒜/帰る、五幡/いつはた。
▽鹿蒜山、五幡は紫式部が下る越前国の地名。

 これは、紫式部が仲の良い友達と、それぞれ親の国司赴任について行くので遠いところに別れなければいけなかったときに、送り交わした贈答です。紫式部は姉を亡くしており、友達は妹を亡くしていたというので、お互いにその亡くなった姉妹の代わりに思おうと言って、姉よ、妹よ、と呼びかけあっていたのだと言います。
 注目したいのが、(昭和の半ばころの研究で)この部分を根拠に、

〈参考〉岡一男「紫式部の少女時代及び文芸的環境―越前への旅行―」(4)
 彼女が姉をうしなつたかはりに、妹をうしなつた友だちと、姉妹の約束をしたといふのだから、紫式部には同性愛的傾向が著しいといはねばならぬ。

などと指摘されることです。でもちょっと待ってください、なぜ姉妹の約束をしたからと言って「同性愛的」なのでしょう。姉妹の関係というものは、「同性愛的」なのでしょうか?
 この指摘は、対象や昭和初期頃の女学校の中にあった、「エス」という関係を想定しなければ、ちょっと理解できません。

〈参考〉久米依子「エス―吉屋信子『花物語』『屋根裏の二処女』」(5)
 「シスター」の略である「エス」は、主として女学生同士が恋愛のようにシスターフッドを深める仲を、やや隠語的に指す。(中略、吉屋信子の小説が)一人の少女が美しい女性に出逢って思いをつのらせるが、相手は余儀なく幻のように去り、少女は悲しい別れをいつまでも思い続ける

 岡一男は1900年の生まれですので、こういった関係が花盛りである頃に、青春時代を過ごしたのでしょう。「エス」は女学生同士のシスターフッドであって、同性愛そのものとは異なるのですが、男性である岡の眼には、「同性愛的」に映ったのかもしれません。
 しかも、久米依子が「一人の少女が美しい女性に出逢って思いをつのらせるが、相手は余儀なく幻のように去り、少女は悲しい別れをいつまでも思い続ける」とまとめる吉屋信子の小説の構造は、『紫式部集』の和歌の配列にも当てはまるのです。
      
〈本文引用3〉『紫式部集』冒頭部分
  はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへて行きあひたるが、ほのかにて、七月十日の程に月にきほひてかへりにければ
1 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし よはの月かな
    その人、とほき所へいくなりけり。秋の果つる日きて、あかつきに虫の声あはれなり
2 鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋の別れや かなしかるらむ 
「筝の琴しばし」といひたりける人、「参りて御手より得む」とある返り事
3 露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ
    (中略、本文引用1)
    筑紫へ行く人のむすめの
6 西の海を おもひやりつつ 月みれば ただに泣かるる ころにもあるかな
    返り事に
7 西へ行く 月のたよりに たまづさの かきたえめやは 雲のかよひぢ
・    遠き所へ行きし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに
39 いづかたの 雲路と聞かば 尋ねまし つらはなれたる 雁がゆくへを

【口語訳】早くから幼馴染であった人に、何年かたって再会したが、ほんのわずかな間で、七月一〇日頃の月と競うように帰ってしまったので
1 見たかどうか、それかどうかも分からない間に、雲に隠れてしまった夜半の月のように、出会ってすぐに帰ってしまったあなたであることよ。
   その人は、遠いところ(親か夫の任国)へ行くのだった。秋が終わる日に来て、暁に虫の声が切な  
   い
2 弱弱しく鳴く籬の虫も、(遠くへ行くあなたを)止めることの難しい、秋の別れが(私と同じように)悲しいのだろうか。
   「筝の琴をしばらく(借りたい)」と言っていた人が、「お伺いして直接教えてほしい」とあるのに対する返事
3 露の多い蓬のなかの虫の音のような、粗末な家で弾く私の琴を、いい加減な思いで、人が訪ねて来るだろうか(酔狂なお人ですね)。
    (中略)
    筑紫へ行く人の娘が(詠んだ歌)
6 西の海を思いやりながら月を見ると、ただひたすら泣けてくるこの頃であるよ。
    返事に
7 月が西へ行く雲の通い路がかき絶えることがないように、(あなたへの)お手紙が書き絶えることがあるだろうか。
・   遠いところに行った人が亡くなってしまったことを、親きょうだいなどが帰ってきて、悲しいことを言っていたのに
39 どちらの雲路であるかと聞いたなら、訪ねていくのに。列から離れてしまった雁(あなた)の行方を。
▽39番歌で亡くなっているのは、六、七番歌、15、16番歌の贈答の相手。

 もちろんここで登場する女性たちは、いわゆる「少女」ではありません。ですが、父について任国に下ったり、結婚であったり(夫について任国に下ったり)、亡くなったり、ということで、相手が幻のようにはかなく消えてしまうという基本構造は、共通するように思います。
 ところで、最初に見た「朝顔」の詠みこまれた4、5番歌も、この贈答歌群の中に配列されています。その中にあって、4、5番歌だけ男女関係の贈答と読むのはなぜなのでしょうか。女性同士の贈答と見たって良いのではないでしょうか。

▽39番歌で亡くなっているのは、6、7番歌、15、16番歌の贈答の相手。
▽女性同士の悲しい別れ。
▽朝顔歌(4、5番歌)も、女性同士の贈答の中に配列されている。
▽朝顔歌だけ男女関係の贈答と読む根拠はないのでは?

 ということで、4、5番歌について、再度詳細に見ておきましょう。

2.『紫式部集』朝顔歌の解釈
 ここからは、それぞれのことばについて、同時代以前の用例を、少していねいに見てゆきます。
 まず、一番のポイントとなる「朝顔」について。

〈参考〉朝顔の用例(一部)
・『紫式部集』
    世の中の騒がしきころ、朝顔を、同じ所にたてまつるとて
53 消えぬまの 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな

【口語訳】世の中が騒がしい(=疫病の流行など)頃、朝顔を同じところに差し上げるといって
53 消えない間の身(=自分の命がほんのわずかであること)をも知りながら、朝顔の露が消えるのと争う(ように人が亡くなる)世を嘆くことであるよ。

・『古今和歌六帖』第6中巻
     あさがほ やかもち
  春日野の野べの槿面影に見えつゝ妹はわすれかねつも(『万葉集』では「高円の野辺の容花」)
  おぼつかなたれとかしらむ秋霧のたえまに見ゆる槿の花

【口語訳】朝顔 家持
 春日野の野辺の朝顔を見ると、面影にちらついて見えて、恋しい人を忘れることができない。
 はっきりしなくて、誰であるかと(はっきり)知りたい、秋霧の晴れ間に見える朝顔の花(のようなあなたの顔)を

・『小町集』
96 しどけなき寝くたれ髪を見せじとやはた隠れたる今朝の朝顔
【口語訳】だらしない寝起きの髪を見せるまいとしてか、隠れてしまった今朝の朝顔(朝の顔)である。
▽朝顔=女性の顔

・『源氏物語』
    「咲く花にうつるてふ名はつゝめどもをらで過ぎうきけさの朝顔
   いかゞすべき」とて、手をとらへたまへれば、いと馴れて、とく、
      朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る/(中略)
をかしげなる侍童の(中略)花のなかにまじりて朝顔をりてまゐる…(夕顔、1巻110頁)

【口語訳】(源氏)「咲く花に浮気をしているという名が広がるのは隠しておきたいが、折らないで過ぎることがつらい今朝の朝顔(=あなたの美しい朝の顔)
どうするべきか」と言って、(源氏を送ってきた六条御息所の侍女、中将の君の)手をとらえなさったので、とても馴れて、早く、
  朝霧の晴れ間も待たない様子で、花に心をとめないものと見る(=主人である六条御息所のこととして詠んで、早く帰る源氏をとがめた歌)
 可愛らしい侍童が、花の中に混じって朝顔を折って参る…
 
 枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれに這ひまつはれて、あるかなきかに咲きて、にほひもことに変はれるを、折らせ給ひてたてまつれ給ふ。
      (中略)
    見しをりの露忘られぬあさがほの花のさかりはすぎやしぬらん
      (中略)
 おとなびたる御文の心ばへに、おぼつかなからむも見知らぬやうにや、とおぼし、人\/も御硯とりまかなひて聞こゆれば、
    秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつるあさがほ
  似つかはしき御よそへにつけても、露けく。 (朝顔、2巻257~258頁)

【口語訳】枯れている花々の中に、朝顔がこれやあれに這いまつわって、あるかないかわからないくらいに咲いて、色つやもことに変わっているのを、折らせなさって差し上げなさる。
(源氏)見た折の露が忘れられないように、全く忘れられない、朝顔の花(であるあなたの顔)の盛りは過ぎてしまっただろうか。
  落ち着いた御文の文面に、はっきりしないのも情趣を解さないようであるか、とお思いになり、人々も御硯をとり準備し申し上げたので、
(朝顔斎院)秋が終わって、霧の籬にからみつき、あるかなきかの様子に移ろってしまった朝顔(である私)
  似つかわしい御たとえであることにつけても、露っぽく(涙に濡れる)。
 
 をり給へる花を、扇にうちおきて見ゐたまへるに、やう\/赤みもて行くも、なか\/色のあはひをかしく見ゆれば、やをらさし入れて、
   よそへてぞ見るべかりける白露のちぎりかおきし朝顔の花
 ことさらびてしももてなさぬに、露落とさで持たまへりけるよ、とをかしく見ゆるに、おきながら枯るゝけしきなれば、
   「消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるゝ露はなほぞまされる
 何にかゝれる」 (宿木、5巻43頁)

【口語訳】お折りになった花を、扇にちょっと置いてご覧になっていると、だんだん赤く色変わりしてゆくのも、かえって色合いが美しく見えたので、そっと(朝顔の花を御簾の下から)差し入れて、
(薫)(あなたに)よそえて見るべきであった、白露(のようにはかなくなくなってしまった大君)が、約束した朝顔の花(であるあなたを)。
 ことに注意していたわけでもないのに、露を落とさずにお持ちになったことよ、と面白く見えるのに、露が置いたまま枯れる様子であるので、
(中の君)「露が消えない間に枯れてしまった花(=大君)のはかなさに、遅れる露(である私)はさらに(はかなさ、頼りなさが)まさっている。
  露が何にかかるのか=私は何を頼りにすればよいのか」
▼朝顔=女の顔(6)
 
『紫式部集』の用例は、朝顔のはかなさに、人の命のはかなさをたとえるもので、こういった詠み方も、朝顔のよく詠まれるパターンの一つです。
『源氏物語』の用例を見ても、確かに恋愛のイメージは濃厚なのですが、ここで注意したいのは、「朝顔」に誰かの顔がたとえられる場合、その顔は女性の顔なのです。さらに、後で見ますが、『紫式部日記』には、女性同士で男女関係、というか夫婦関係であるかのような表現が用いられる贈答もあります。
 最初に見た『紫式部集』の歌は、贈歌である4番歌が、紫式部(女性)の歌、答歌である5番歌が相手の歌です。4番歌では紫式部が相手の顔を朝顔にたとえてなんだかよくわからなかった、と言っており、5番歌では相手の手跡を見分けているうちに朝顔の花がしおれてしまったと言っています。
 ですから、紫式部が自分の顔を朝顔にたとえているのならばともかく、相手の顔を朝顔にたとえている以上、相手も女性であると考えたほうが良いように思うのです。

 ここで、朝顔が詠みこまれ、女性同士の贈答と解されている和歌があることに注目しましょう。

〈参考〉『中務集』 方違えと朝顔
    琴を借りて、人に
182 年を経て 音に聞きつる 琴の音を 手にならしつる 秋ぞうれしき
    返し
183 音にのみ 聞きけることに 劣ればや ならしそむるに 秋のそふらん
    方違へに人の家に行きて帰りて、翌朝、萩に朝顔のかかりて咲きたるををりて、彼より
184 初秋の 萩の朝顔 朝ぼらけ 別れし人の 袖かとぞ思ふ
    返事
185 袖の色も 見えやはしけむ 朝顔の 昼は移ろふ 別れならぬに

【口語訳】琴を借りて、(その琴を貸してくれた)人に、
182 長年うわさに聞いていた琴の音を、手に慣らして鳴らしている秋が嬉しい。
    返事
183 噂でのみ聞いていた事に琴の音が劣っているからか鳴らし始める秋に飽きが添うのだろうか。
    方違え(陰陽道で忌むべき方向を避けるために、目的の場所とは別の場所にいったん泊まること)に人の家に行って帰って、その翌朝、萩に朝顔がかかって咲いているのを折って、あちらから
184 初秋の萩にかかった朝顔は朝ぼらけのなか別れた人の袖かと思うことだ。
    返事
185 袖の色も見えたのだろうか、朝顔が昼は色が変わってしまうように、昼は心変わりする別れではないのに。

『中務集』は、平安中期の歌人であり三十六歌仙の一人である中務の家集ですが、この部分の配列は、琴をめぐる贈答と朝顔をめぐる贈答が並んでおり、『紫式部集』ともよく似ています。
 これについて、

▽木船重昭『中務集相如集注釈』(7)は、
「人の家」とは「女ともだちの家」「さきの夜は、しみじみと語り合い、夜明けに帰っていった、その朝、さっそく中務がなつかしくて、某女詠みよこす」「お別れして帰っては来ましたが、もうこれきりのはかない別れではありませんでした。またお会いしましょう、の心」

として、親しい女性同士の贈答と解しています。残念ながらその根拠は示されていないのですが、少なくとも配列や詠歌状況の類似した贈答について、女性同士によるものであると解されていることは、『紫式部』4、5番歌についても、女性同士と解してもよい根拠にはなるでしょう。

▼親しい女友だち同士の贈答
▼詞書「方違へ」「帰り」「翌朝」「朝顔」・・・詠歌状況の類似
▼「袖の色」、「見え」→『紫式部集』詞書「手を見わかぬ」、5番歌「色わく」
▼琴を借りること・・・配列の類似

「これかあらぬか」は、
〈参考〉それかあらぬか
・『小野篁集』三の君との結婚後、亡き妹の霊が恨み言を言う
 さて、そのころ、妹のある屋に行きたりければ、いと悲しかりければ、寝にけり。
 妹、
30 見し人にそれかあらぬかおぼつかなもの忘れせじと思ひしものを

【口語訳】さて、その頃、妹の(霊の)いる家に行ったところ、とても悲しかったので、寝てしまった。
   妹(の霊)、
30 見た人(恋人であった人)であるのかそうでないのかはっきりしないあなたは、私のことを忘れはしないと思っていたものを(なぜ私のことを忘れてしまったのですか)。

*『篁物語』…『小野篁集』とも。古くは『篁日記』『小野篁記(おののたかむらのき)』などともよばれた。平安時代の物語。作者・成立は未詳。平安中期成立とする説、平安末期成立とする説が並存する。(中略)第一部は篁の異母妹との恋が語られ、篁の子を身ごもった妹が母親に仲を裂かれて悶死(もんし)し、亡霊となって現れるというもの。第二部は右大臣の娘に求婚した篁が、大君(おおいぎみ)や中の君には断られたが、三の君と結婚して栄達したというもの。 [小町谷照彦]『日本大百科全書(ニッポニカ)』 JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-06-07)

・『古今和歌集』巻第三 夏歌
     題しらず よみ人しらず
159 去年の夏なきふるしてし郭公それかあらぬかこゑのかはらぬ

【口語訳】去年の夏さんざん鳴き古してしまったほととぎす、その同じほととぎすであるのかないのか、声が変わらない。
・巻第十四 恋歌四   題しらず  よみ人しらず

731 かげろふのそれかあらぬか春雨のふるひとなれば袖ぞぬれぬる(『古今和歌六帖』第四句「ふる人みれば」)
【口語訳】そうであるのかないのか分からない陽炎のように、そうであるのかないのか分からない古人(幼馴染)であるから、春雨の降る日となれば袖が(涙で/春雨で)濡れてしまう。

などの用例にみられるように、かつてよく知っていた対象に、時間の隔たりなどを経て再会する場合に用いられる表現です。

「そらおぼれ」は、
〈参考〉そらおぼれ
・『源氏物語』惟光による夕顔の調査
   「案内も残る所なく見給へおきながら、たゞわれどちと知らせてものなど言ふ若きおもとの侍るを、そらおぼれしてなむ隠れまかりありく。(・・・・・・)」 (夕顔、1巻112頁)
【口語訳】「家の案内も残るところなく拝見しておきながら、ただ自分のことと思わせてものなど言う(自分が言い寄る相手となるような)若い女性がいますのを、そらとぼけて隠れて出かけていく。(・・・・・・)」

・六条御息所の死霊の歌(本当にその人かと問う源氏に)
  わが身こそあらぬさまなれそれながら空おぼれするきみは君なり(若菜下、3巻371頁)
【口語訳】私の身こそかつてとは異なった様(死んで霊になっている)であろうが、空とぼけているあなたはあなただ。

・『公任集』
     五月五日につかはしける
548 郭公いつかと待ちしあやめ草けふはいかなるねにか鳴くべき
     返し  馬内侍
549 五月雨は空おぼれする郭公ときに鳴く音は人もとがめず(『新古今和歌集』。『馬内侍集』初句第二句「五月雨の空くもりする」)

【口語訳】五月五日に送った歌
548 いつかと待ったほととぎすが、五日のあやめ草の根ではないが、今日はどんな音で鳴くだろう。
     お返事  馬内侍
549 五月雨に紛れて空とぼけるほととぎすが、時に合わせてなく音は人も聞きとがめない

などの用例にあるように、わざと周りに紛れている、分からないふりをするという意味で使われる表現です。

「おぼつかな」「おぼおぼし」は、
〈参考〉『源氏物語』「おぼつかな」と「おぼおぼし」 小君と浮舟
 「(中略)僧都の御しるべはたしかなるを、かくおぼつかなく侍るこそ」(中略)「おぼし隔てて、おぼ\/しくもてなさせ給ふには、何ごとをか聞こえ侍らん。(中略)たゞ、この御文を人づてならでたてまつれとて、侍りつる、いかでたてまつらむ」  (夢浮橋、5巻404~405頁)
【口語訳】(小君)「(中略)僧都のお導きは確かであるのに、このようにはっきりしませんのは…」(中略)(小君)「(私を)思い隔てて、はっきりしない扱いをなさるのでは、何事を申し上げられましょう。(中略)ただこの御文を人づてではなく(直接に)差し上げなさいといって参上したものを、どうにかして差し上げたい」
*浮舟の生存が分かり、薫の使いとして異父弟の小君が浮舟のもとを訪れた場面。

のように、なんだかはっきりしないこと。

「色わく」は、
〈参考〉色わく(一部)
・『源氏物語』夕霧中納言に昇進。雲居雁の乳母と贈答。
  「あさみどりわか葉の菊を露にても濃きむらさきの色とかけきや
 からかりし折の一言葉こそ忘られね」(中略)
  「ふた葉より名立たる園の菊なればあさき色わく露もなかりき(略)」(藤裏葉、3巻193頁)

【口語訳】(夕霧)「(六位で)浅緑の袍を着ていた若葉の菊である私を、菊に置く露ではないが、少しでも濃い紫色(中納言の着る袍の色)をかけるとは思っただろうか。
つらかった折の一言が忘れられない」(中略)
(雲居雁の乳母)「若い頃から名だたる名門の菊であるあなたであるので、浅い色(=低い官位)を差別する気持ちは全くなかった」
*夕霧は父の源氏の方針で、高級貴族の子弟としては異例に低い六位から官位がスタートした。「浅緑」というのはその六位の官位に決められた袍(上着)の色。ここでは順調に昇進し、かつて雲居雁(夕霧と幼馴染で結婚する)の乳母に「浅緑」と悪口を言われたことをあてこすっての贈答である。

・『家持集』
287 しらゆきのいろわきがたきむめがえにともまつゆきぞきえのこりたる
【口語訳】白雪の色を見分けがたい梅の枝に、友待つ雪が消え残っている。

・『躬恒集』
137 月影に色別きがたき白菊は折りても折らぬ心地こそすれ(『古今和歌六帖』)
【口語訳】月影の色と見分けがたい白菊は折っても折らないような心地がする

・『拾遺和歌集』巻第二十 哀傷
     親に後れて侍ける頃、男の訪ひ侍らざりければ  伊勢
1301 亡き人もあるがつらきを思ふにも色分れぬは涙なりけり

【口語訳】親に死に後れていました頃、男が見舞いに来なかったので  伊勢
亡き人を思うのか、ある人のつらさを思うのか、区別するのが難しいのは涙であることよ(どちらを思って泣いているのか区別できない)。

のように、色が同じために区別がつかないという文脈でつかわれます。

 確かにちょっと、『源氏物語』宇治十帖で、匂宮が宇治の姉妹のどちらの文字か見分けがつかないと言ったり、薫が同じ枝で片方だけ濃く色づいた紅葉に託して姉妹のうちのどちらへの愛が深いのか(大君へのほうが深い)と言った贈答とか、思い浮かべたくはなります。なので、男性からの恋の贈答、しかも姉妹に対する、という発想は分からないでもない。

「あるかなきか」は、
〈参考〉あるかなきか(一部)
・『後撰和歌集』巻第十六 雑二
     題しらず よみ人しらず
1191 あはれともうしとも言はじかげろふのあるかなきかに消ぬる世なれば(『古今和歌六帖』)

【口語訳】可哀想ともつらいとも言うまい、蜉蝣があるかないかのように消える、そのようにはかなく消えてしまう世であるので。

 巻第十八 雑四 題しらず よみ人しらず
1264 世中と言ひつる物かかげろふのあるかなきかのほどにぞ有りける(『古今和歌六帖』)

【口語訳】世の中と言ったものか、蜉蝣があるかなきかであるくらい(はかないもの)であったよ。

・『拾遺和歌集』 巻第二十 哀傷
     世中心細くおぼえて、常ならぬ心地し侍ければ、公忠朝臣のもとに詠みて遣はしける、この間病重くなりにけり 紀貫之
1322 手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ(『貫之集』)
    この歌詠み侍て、ほどなく亡くなりにける、となん、家の集に書きて侍る

【口語訳】世の中が心細く思えて、常ではない気分がしましたので、公忠朝臣のもとに詠んで送った、この間に病が重くなってしまった。 紀貫之
手ですくった水に宿る月影があるかなきかであるような、そんな(はかない)世であったことよ。

のように、はかなさや、時間的経過の短さを託して詠まれます。
 以上から、4番歌、5番歌について、次のように解釈しておきたいと思います。

▼幼い頃からの女友だちが久しぶりに方違えでやって来たが、式部は直接顔を見ることもできなかった。4番歌はその不満を詠んだものである。「そらおぼれ」は式部が顔を見ようとしたときに、女友だちが寝たふりをして袖で顔を隠したようなことを指すだろうか。「手を見わかぬにやありけむ」、「いづれぞと 色わくほどに」は、研究史で指摘される姉など、別の人物がもう一人いたことを想定しなければ理解しにくい。

3、女性同士の絆
 ここまで、『紫式部集』4、5番歌の表現について、細かく見てきました。ここでもう一度、『紫式部集』冒頭部分の配列を見ておきましょう。

〈本文引用4〉配列上の連鎖(再掲)
    はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへて行きあひたるが、①ほのかにて、七月十日の程に②月にきほひてかへりにければ
1 めぐりあひて ③見しやそれとも わかぬまに ④雲がくれにし よはの月かな
      (中略)
 「筝の琴しばし」といひたりける人、「参りて⑤御手より得む」とある返り事
3 露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ
    方違へにわたりたる人の、`①なまおぼおぼしきことありて`②帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて
4 `③おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
    返し、`⑤手を見わかぬにやありけむ
5 `③いづれぞと 色わくほどに 朝顔の `④あるかなきかに なるぞわびしき

(↓直接の対面ではなく文による贈答)

▼①「ほのかに」しか会えなかったこと≒ `①「なまおぼおぼしきこと」
▼②「月」と争って帰る≒`②帰りにける
▼③見しやそれとも わかぬまに≒ `③おぼつかな それかあらぬか
▼④雲がくれにし よはの月≒ `④あるかなきかに なる
▼⑤御手より得む≒ `⑤手を見わかぬ

▼3番歌詞書の「手」は直接対面し、直接琴の奏法を習うこと
→4番歌の「手」は手跡を指し、文による贈答の距離。
▼6番歌以降、直接対面することの難しい友との文の贈答。
▼「顔」を見る対面ではなく、「手」、文による交流に変化している。

 ここでは、類似した表現が少しずつ違う意味、違う文脈で用いられ、直接の対面から文による対面へと、変わっていきます。
 例えば、

〈本文引用5〉
    物思ひわづらふ人のうれへたる返り事に、霜月ばかり
11 霜こほり とぢたるころの 水くきは えもかきやらぬ ここちのみして
    返し
12 ゆかずとも なほかきつめよ 霜こほり 水のそこにて 思ひながさむ
(8)
【口語訳】もの思い悩んでいる人が嘆きを訴えていた文の返事に、霜月頃
霜や氷が凍てついている頃のような私の筆は、凍てついた流れを掻きやることができないように、よく書きやることができないような気持ちばかりして
    返事
(筆が)ゆかないとしても、やはり書いてください、氷の底で水が流れるように、手紙の底にあるあなたの思いで私の凍てついた思いを流そう。

のように、『紫式部集』においては、文による心の交流は信じられています。そしてそこにおいては、「水の底」という比喩が用いられます。

 対して、
〈本文引用6〉
    夕立しぬべしとて、空の曇りてひらめくに
22 かきくもり 夕立つ波の あらければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき

【口語訳】夕立が今にも来そうで、空が曇り、雷がひらめくので、
かきくもり夕立つ波があらいので、浮いている舟は落ち着いた気がしない

とあるように、(言葉や心の比喩はない文脈ですが)「水の上」は信じられていません。

 『紫式部集』においては、表層は信じられておらず、言葉の底にある心において、女性同士のつながりは保たれています。
 女性同士の避けられない別れをめぐる贈答は、結婚したり子供ができたり亡くなったりする中で失われてしまう心のつながりを再構成し、構築するものとして、『紫式部集』の中で配列されているのです。

 ちなみに紫式部による日記文学である『紫式部日記』のほうでは、

〈参考〉『紫式部日記』 顔を見る紫式部 
 上よりおるる道に、弁の宰相の君の戸口をさしのぞきたれば、昼寝したまへるほどなりけり。萩、紫苑、いろいろの衣に、濃きが打ち目心ことなるを上に着て、顔は引き入れて、硯の箱に枕してふしたまへる額つき、いとらうたげになまめかし。絵にかきたる物の姫君のここちすれば、口おほいを引きやりて、「物語の女のここちもしたまへるかな」といふに、見上げて、「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なくおどろかすものか」とて、すこし起きあがりたまへる顔のうち赤みたまへるなど、こまかにをかしうこそはべりしか。(15~16頁)
【口語訳】上(中宮の御前)から下がる途中で、弁の宰相の君の(局の)戸口をちょっとのぞいたところ、昼寝なさっていたところであった。萩(重ねの色目)、紫苑(重ねの色目)など、いろいろの衣に、濃い紅で格別につやのある打衣(砧で打ってつやを出した絹)を上に着て、顔は衣に引き入れて、硯の箱を枕にして伏せなさっている額の格好が、とても可愛らしく美しい。絵に描かれた何かの物語の姫君のようであったので、(紫式部は宰相の君の)口にかぶさっている衣を引きやって、「物語の女のようでいらっしゃることよ」と言うと、(宰相の君は)見上げて、「きちがいじみたなさりようであることよ。寝ている人を心なく起こすなんて」と言って、すこし起きあがりなさった顔のちょっと赤くなっているご様子など、整っていて美しくあったことでした。

とあるような、可愛い女の子大好きで顔を見たい紫式部が語られていたりもするのですが、

〈参考〉
 大納言の君の、夜々は御前にいと近うふしたまひつつ、物語したまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か。
   うきねせし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさえぞおとらぬ
 返し
  うち払ふ友なきころのねざめにはつがひし鴛鴦ぞよはに恋しき
 書きざまなどさへいとをかしきを、まほにもおはする人かなと見る。(58頁)

【口語訳】大納言の君が、夜夜は中宮様の御前に側近く宿直しながら、物語しなさった様子が恋しいのも、やはり境遇に順応してしまった我が心であるのだなあ。
  仮寝した水の上(宮中)だけがひたすら恋しく思われて、(独り寝で)凍えることは鴨の上毛のそれにも劣りません。
返歌
  (共に霜を)打ち払う友のいない夜半の寝覚めには、夫婦の鴛鴦のように共寝したあなたが恋しいのです。
書きぶりなどすら大変素晴らしいのを、完璧でいらっしゃる方であるなあ、と見る。

のように、仲のよい同僚女房との贈答において、「水の上」(=宮中)が恋しいと言われていたりもします。
 この贈答は、女性同士の関係において、夫婦関係によく用いられる「鴛鴦」の比喩が用いられていることでも注目したいのですが、「水の上」は、宮中であるとともに、「水」をめぐる比喩表現を踏まえれば、言葉の表層を意味するものでもあるでしょう。
「水の底」での女性同士の結びつきが構築される『紫式部集』に対し、「水の上」での女性同士の関係が構築される『紫式部日記』という対比もできそうです。


(1)岡一男『源氏物語の基礎的研究』(東京堂、昭和29年→増訂版昭和41年)、角田文衛『紫式部とその時代』(角川書店、昭和41年)が相手を藤原宣孝とし、清水好子『紫式部』(岩波新書、昭和48年)、南波浩『紫式部集全評釈』など諸注それを受けるが、近年では特定を避ける傾向にある。また、多くの注釈書において肉体関係まではなかったとするのに対し、石川徹「紫式部の人間と教養」(『国文学』昭和36年5月→『平安時代物語文学論』笠間書院、昭和54年)を踏まえた今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、昭和41年→新装版昭和60年)では「当然肉体的なものも含んでいる」、久保朝孝「紫式部の初恋―明け暮れのそらおぼれ・虚構の獲得」(『新講 源氏物語を学ぶ人のために』世界思想社、1995年)では「情事」と取る。
(2)『源氏物語』中の「おぼおぼし」の用例は次のようなものである。
・  たそかれ時のおぼ\/しきに、おなじなほしどもなれば(常夏、3巻7頁)
・  生まれ給ひけん程などをば、さる世離れたる境にてなども知り給はざりけり。(中略)あやしくおぼ\/しかりけることなりや。(若菜上、3巻270頁)
・  朦くに耳もおぼ\/しかりければ (同、271頁)
・  雪のやうく積るが星の光におぼ\/しきを、闇はあやなし(浮舟、5巻220頁)
・  おぼし隔てて、おぼ\/しくもてなさせ給ふには、何ごとをか聞こえ侍らん。 (夢浮橋、5巻404~405頁)
(3)注2の用例にあるように、「おぼ\/し」の場合は朧化表現ではなく、対象がぼんやりしてよく見えない、聞こえない、分からない状況を指す。
(4)『源氏物語の基礎的研究―紫式部の生涯と作品―』東京堂出版、昭和41年。
(5)『国文学臨時増刊号 恋愛のキーワード集』平成13年2月。
(6)竹内美千代『紫式部集評釈』(桜楓社、昭和44年、改訂版昭和51年)のみが「朝顔」を式部自身の顔ととり、藤岡忠美「愛と結婚 『紫式部集』に見る藤原宣孝との贈答歌」(『国文学』1982年10月)が朝顔は「女の顔」をいうので「あまり相手の顔にかかわらせすぎるのはどうであろうか」と述べる。他諸注いずれも男(相手)の顔ととっており、通常女の顔を喩える「朝顔」が男の顔を喩えることは問題とされていない。
(7)大学道書店、平成4年。
(8)実践女子大本では「水のうへ」となっているが、「思ひ」は水の「底」にあるものである。
    わづらふことあるころなりけり。「かひ沼の池といふ所なむある」と、人のあやしき歌語りするを聞きて、「こころみに詠まむ」といふ
88 世にふるになどかひ沼のいけらじと思ひぞ沈むそこは知らねど
    池の水の、ただこの下に、かがり火にみあかしの光りあひて、昼よりもさやかなるを見、思ふこと少なくは、をかしうもありぬべきをりかなと、かたはしうち思ひめぐらすにも、まづぞ涙ぐまれける
116 かがり火の影もさわがぬ池水に幾千代すまむ法の光ぞ
     おほやけごとに言ひまぎらはすを、大納言の君
117 澄める池の底まで照らすかがり火にまばゆきまでもうきわが身かな(巻末、日記歌部分)

テキスト
 本文引用は、山本利達校注『新潮日本古典集成 紫式部日記 紫式部集』昭和五五年(底本黒川本/陽明文庫本)による。『紫式部集』について、実践女子大本と陽明文庫本のどちらを取るべきかは難しいが、注11などの理由や、陽明文庫本では独詠歌として取られている「影見てもうきわが涙おちそひてかごとがましき滝の音かな」(61。実践女子大本68)を、実践女子大本では小少将の君「ひとりゐてなみだぐみける水のおもにうきそはるらんかげやいづれぞ」(69)との贈答と取っているが、そこに付された長大な詞書を贈答歌として取るために増補されたものと見ることもできるため、陽明文庫本を底本とした新潮日本古典集成をテキストとした。また、陽明文庫本では女房同士の親しい贈答が巻末に増補された日記歌部分以外では少なく、実践女子大本では多いため、編纂意図に違いがある可能性がある。
『源氏物語』『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』は新日本古典文学大系、『栄花物語』『催馬楽』は新日本古典文学全集、『古今和歌六帖』は図書寮叢刊、『家持集』『貫之集』『小野篁集』『公任集』は私家集全釈叢書、『躬恒集』は和歌文学大系、『中務集』は注7参照、『小町集』は私家集大成による。但し、私に改めた部分もある。

*ちなみに今回の内容は、拙稿「『紫式部集』四番歌・五番歌の再解釈―女性同士のつながり」(『古代文学研究 第二次』19号、2010年10月)で詳しく論じています。どう評価されているのかよくわからないのですが。

第4回
第6回