時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀前半オランダの宗教世界

2009年01月06日 | 絵のある部屋

  これまで少しばかり覗いてきた17世紀ネーデルラントの画家の宗教と制作活動については、興味深い問題が多数残されている。いずれまた取り上げてみたいが、この辺で一休みしたい。年末に会ったオランダからの友人、17世紀美術・建築研究者との話から示唆されたこともあり、多少まとめの意味で、17世紀中ごろネーデルラントの宗教世界の輪郭を少しだけ記しておこう。

 17世紀にはプロテスタントの国として独立、発展したネーデルラントだが、今日では信者の数で見る限り、カトリックがプロテスタントを上回っているようだ。友人の話では、カトリック、プロテスタントの双方に言えることだが、教会へ行く若い人は明らかに少なくなったらしい。不安な時代とはいえ、神頼みでは解決しえないと思う人が増えたからだという。半ば冗談ではあるが、その通りだろう。  

壮絶な対立
 ここで注目しているのは、宗教が今よりはるかに大きな重みを持っていた時代の話である。といって、現代で宗教の存在が薄れたというのでは必ずしもない。宗教を背景とする戦争が今でも絶えないことから明らかだ。

 17世紀のオランダは、スペインとの戦争の過程、そしてその勝利の結果として、新教カルヴァン派を国教として奉じる国となった。自由な宗教上の選択というよりは、強制でプロテスタント化したといえる。しかし、公的には否定されたカトリックが、北ネーデルラント(オランダ)から抹消されたわけではなかった。現実には、プロテスタントとカトリックの間では、しばしば壮絶・巧妙をきわめた対立関係が連続的に展開していた。その実態は、現代人のわれわれの目からみても、きわめて興味深いところがある。  

 とりわけ、公的には存在を認められなくなったカトリック側の存亡をかけた努力は大きかった。ローマ教皇庁との関係も途絶えがちとなったオランダのカトリックは、カルヴィニスト改革による活動禁止とカトリック宗教改革の支援の狭間で、必死の生存努力を続けた。教皇庁との関係も円滑ではなくなった。こうした背景もあって、カトリック宗教改革の歴史上、ネーデルラント・カトリックの位置づけは、主流からのローカルな分岐という理解がなされがちであった。カトリック・オランダ教会は、ユニークでナショナリスティックな例外的展開のひとつと考えられ、その活動の実態は長い間、よく分からない部分が多かった。これには、当時の文書などがほとんどすべてオランダ語であり、正確な事情が教皇庁などにも伝わらなかったことも指摘されている。  

 しかし、現実にはオランダでのカトリックの動向は、宗教史上の観点から布教活動としても、きわめて注目すべき点を含んでいた。教皇庁側はカトリック宗教改革の中で、きわめて現実的に多彩な努力をしたオランダ・カトリックの経験を考え、取り入れることに失敗したともいえる。

自らの手での基盤維持
 窮地に立ったオランダのカトリック教徒および教会は、プロテスタント側からの迫害に立ち向かいながら、信仰基盤の維持のためにさまざまな対応を迫られていた。たとえば、教会財産の接収は、オランダ・カトリックの運命に重大な影響を与えた。パトロンがなくなることの危機、司祭などの国外追放による聖職者の不足などが発生した。  

 ネーデルラントのカトリックは、次第に教皇庁から相対的に切り離されて、独自の決断、活動をすることになる。幸いであったことは、改革の意欲に燃えたカトリック・リーダーが各地に出現、ゼロからやり直す決意を持って望んだ。彼らは普通の平信徒間でのエリートであり、制度化したパトロンや長い間に浸透した利害関係から独立していた。そのため、ネーデルラントのカトリック・リーダーは、トリエント改革を他のヨーロッパ地域よりも自由に実施できた面もあった。時には、従来の伝統に固執するローカルな聖職者と対立する場面もあったようだ。地域によっては、迫害、差別などが、かえって熱心なリーダーの信仰活動を促進、維持させた。女性の活動も目覚しかった。フェルメールと義母マーリア・ティンスなどの関係を見ると、こうした時代背景の一端を感じさせられる。  

生存のための現実的対応
 カトリック信者であることを選択した者は、時には罰金支払いの覚悟も辞さなかった。さらに、地域の役人への賄賂、献金、隠れた場所で時間もばらばらに礼拝すること、公的地位からの追放、逮捕、拘束、聖職者の追放、収監、教会の接収も仕方がないとするなど、他の国ではあまり見られない現実的対応が行われた。  

 こうした中で、ネーデルラントではカルヴィニストからかなりの数がカトリックへ戻ったとも報じられていた。カトリックにとっては外部からの迫害、圧力と、内部での人材養成が相まって進んだ。

国際的な活動
 この過程で、これまでほとんど気づかれなかったのは北方でのミッショナリー活動の国際的次元での展開だった。ホーラント・ミッションといわれた布教組織は、北ヨーロッパのブラッセル、ルーヴァン、ケルンなどの国外追放者が主体となった活動だった。しかし、宗教活動の体系としては、しばしば統一性、整合性を欠いたとみられ、しばしば宗派間の対立・構想を生んだ。 ホーラント・ミッション神学校における教育は、ローマン・カトリックの国際的次元を強調した。オランダにおけるカトリックの再生は、結果としてカトリック宗教改革の強みとなった。

 カトリックの観点からみると、1572年の孤立状態から、1600年時点ではほとんど機能しない、分裂状況にあった。しかし、その後上述のようなさまざまな活動が実を結び、1650年頃までには再生と活性化が進んだ。地域的差異があったにもかかわらず、オランダの経験を通してみたカトリックは、初期近代ヨーロッパにおける社会の周辺部で、少数信仰者が生存、活性化しうることを示したといえる。

 フェルメールの生きたデルフトなど都市部の実態をみると、プロテスタントとカトリックの関係は、多数者が少数者の存在を抹消することなく、相互にある距離を保ち、お互いの領域に干渉することなく、市民生活をするという状況が形成されていた。日常の生活の前線部では、迫害、差別、嫌がらせなどの小競り合いは常に起きていたようだ。しかし、それらは、さまざまな現実的対応によって緩和されていた。

 たとえてみれば、信仰背景の異なる人々がお互いに顔の見える垣根を境に同一地域に生活し、必要とあらば決まった出入り口から最低限の交流をするという社会であった。こうした経験を積み重ね、今日にいたったオランダだが、実際に住んでいる人々の話を聞くと、かなりのストレスでもあるようだ。他国へ移住する人も多い。オランダの友人は、オランダ人には住みにくく、外国人には住みやすい国になっていると、評した。

 世界の先進国の間でも、際立って寛容な社会といわれるオランダだが、そのために物心両面で多大なコストも払われている。とりわけ、2002年、移民制限を提唱した政治家ピム・フォルスタインの暗殺、そして2004年の映画監督テオ・ファン・ゴッホの暗殺は、オランダの寛容性に文字通りナイフを突きつけるものだった。とりわけ、後者の犯人がイスラーム過激派の青年であったことで、イスラームとの関係は全国民にとって寛容性のあり方自体を深く考えさせる新たな課題となった。

  新年早々、イスラエル・ハマスの泥沼化し、殺伐きわまりない戦争場面を見るにつけ、17世紀ネーデルラントの社会の有りようは決して遠い時代のものではないことを改めて思わせるものとなった。


 

コメント
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