大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地③ 岸和田城

2009年05月27日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月24日(土)
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元弘4年(1334)、楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれる。
当時、このあたりは「岸」と呼ばれていて、そこに和田氏が城を築いたことから
「岸和田」の地名が生まれたと伝わる。
天守閣は文政10(1827)に焼失し、現在建っているのは、昭和29年(1954)に再建されたもの。
復元天守は資料館になっている。
本丸と二の丸をあわせた形が、機の縦糸を巻く「縢」(ちきり)という器具に似ていることから、千亀利城(ちきりじょう)とも呼ばれる。

天正11年(1583)、豊臣秀吉は家臣中村一氏を岸和田城主とし、紀州根来寺や雑賀衆の押さえとした。
天正13年(1585)、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺勢力を一掃し、その後は秀吉の叔父・小出秀政が城主となる。
秀正は城下町と城郭の整備にかかり、天守閣も秀正によって築かれた。
小出氏3万石は吉政、吉英と3代続き5万石となる。
城主・小出吉英のときに大坂の陣がおこり、岸和田城は豊臣軍に攻められるが、吉英は城を守りきった。
豊臣氏滅亡後は、松平(松井)氏2代を経て、寛永17年(1640)に摂津高槻から岡部宣勝入城する。
以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって治めていた。


八陣の庭
室町以前の城郭平面図をもとに地取りし、所々に諸葛孔明の八陣法をテーマにして「大将」を中心に、「天」「地」「風」「雲」「龍」「虎」「鳥」「蛇」を配したものだという。


二の丸多聞櫓
ここは、お手洗いになっている。
もちろん模擬の櫓。


岸和田城の鯱が描かれたマンホール

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