11月15日(日)
当日の行程:【旧乃木邸】 → 【高橋是清翁記念公園】 → 【豊川稲荷東京別院】 → 【「虎屋・寅年・虎づくし」展(虎屋ギャラリー)】 → 【圓通寺】 → 【鈴降稲荷神社】 → 【浄土寺】 → 【激動の明治国家建設〔特別展〕(衆議院憲政記念館)】 → 【藤本能道 命の残照のなかで(菊池寛実記念 智美術館)】 → 【特別展 根来(大倉集古館)】 → 【特別展 幻の京焼 京都瓢池園(泉屋博古館分館)】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/31/13469e5b774b358c85a55d1ce8e4f42f.jpg)
赤坂の一ツ木通りに面している。
文亀3年(1503)、明蓮社教誉聖光によって開山。
開山当初は平河口にあり、その後麹町平河町に移り、慶長年間に現在地に移転。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/5f/a9e2c3c0aafc581d4d43ca6f6a006ea5.jpg)
本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/cf/924d88e3832119d1e11ca99fa05b7061.jpg)
銅造地蔵菩薩坐像
「東京都港区指定文化財
有形民俗文化財 銅造地蔵菩薩坐像
左手に宝珠を、右手に錫丈を持ち、趺坐している。
ひとびとはこの世で犯した罪業により、六道を輪廻して地獄におちると信じられていた。地蔵菩薩は、その地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。一般には六道に合わせて『六地蔵』の名が親しまれたが、六体で一具という限定はあるわけではない。
本像には、像身・台座に数多くの刻銘がある、それによれば享保四(一七一九)年二月二十三日に、勧進僧地蔵坊正元・赤坂一木浄土寺の住持観誉らを中心に、九四五名の信者合力を得て作成され、鋳物師は、太田駿河守正義である。正元は、同様の形のいわゆる『江戸六地蔵』を、各所につくっているが、本像はその中には含まれていない。
江戸時代中期における地蔵信仰のあり方を伝える資料として、また、港区における民間信仰の実態を知る資料として貴重である。
平成五年九月二十八日
東京都港区教育委員会」(案内板より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/b9/e24105ee22a670aacc093038439a55ab.jpg)
本堂の前に、地蔵菩薩坐像と対になるような位置に閻魔王坐像が置かれている。
江戸時代には、閻魔詣でで賑わったのだという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/1b/35052b80c284aa45fe1e19f6b4907e86.jpg)
この閻魔王坐像、眼鏡をかけているように見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/a4/7188ec4b144c6517b8783d271a9475c6.jpg)
本堂脇の奥のほうには、お地蔵様が並んでいる。
当日の行程:【旧乃木邸】 → 【高橋是清翁記念公園】 → 【豊川稲荷東京別院】 → 【「虎屋・寅年・虎づくし」展(虎屋ギャラリー)】 → 【圓通寺】 → 【鈴降稲荷神社】 → 【浄土寺】 → 【激動の明治国家建設〔特別展〕(衆議院憲政記念館)】 → 【藤本能道 命の残照のなかで(菊池寛実記念 智美術館)】 → 【特別展 根来(大倉集古館)】 → 【特別展 幻の京焼 京都瓢池園(泉屋博古館分館)】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/31/13469e5b774b358c85a55d1ce8e4f42f.jpg)
赤坂の一ツ木通りに面している。
文亀3年(1503)、明蓮社教誉聖光によって開山。
開山当初は平河口にあり、その後麹町平河町に移り、慶長年間に現在地に移転。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/5f/a9e2c3c0aafc581d4d43ca6f6a006ea5.jpg)
本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/cf/924d88e3832119d1e11ca99fa05b7061.jpg)
銅造地蔵菩薩坐像
「東京都港区指定文化財
有形民俗文化財 銅造地蔵菩薩坐像
左手に宝珠を、右手に錫丈を持ち、趺坐している。
ひとびとはこの世で犯した罪業により、六道を輪廻して地獄におちると信じられていた。地蔵菩薩は、その地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。一般には六道に合わせて『六地蔵』の名が親しまれたが、六体で一具という限定はあるわけではない。
本像には、像身・台座に数多くの刻銘がある、それによれば享保四(一七一九)年二月二十三日に、勧進僧地蔵坊正元・赤坂一木浄土寺の住持観誉らを中心に、九四五名の信者合力を得て作成され、鋳物師は、太田駿河守正義である。正元は、同様の形のいわゆる『江戸六地蔵』を、各所につくっているが、本像はその中には含まれていない。
江戸時代中期における地蔵信仰のあり方を伝える資料として、また、港区における民間信仰の実態を知る資料として貴重である。
平成五年九月二十八日
東京都港区教育委員会」(案内板より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/b9/e24105ee22a670aacc093038439a55ab.jpg)
本堂の前に、地蔵菩薩坐像と対になるような位置に閻魔王坐像が置かれている。
江戸時代には、閻魔詣でで賑わったのだという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/1b/35052b80c284aa45fe1e19f6b4907e86.jpg)
この閻魔王坐像、眼鏡をかけているように見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/a4/7188ec4b144c6517b8783d271a9475c6.jpg)
本堂脇の奥のほうには、お地蔵様が並んでいる。