大倉草紙

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【東京・港区】 旧乃木邸

2009年12月27日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
11月15日(日)
当日の行程:【旧乃木邸】【高橋是清翁記念公園】【豊川稲荷東京別院】【「虎屋・寅年・虎づくし」展(虎屋ギャラリー)】【圓通寺】【鈴降稲荷神社】【浄土寺】【激動の明治国家建設〔特別展〕(衆議院憲政記念館)】【藤本能道 命の残照のなかで(菊池寛実記念 智美術館)】【特別展 根来(大倉集古館)】【特別展 幻の京焼 京都瓢池園(泉屋博古館分館)】


↑こちらは須田画伯による旧乃木邸の門

旧乃木邸
「東京都港区指定文化財
 有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
 旧乃木邸は、明治三十五年(一九〇二)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(一九一二)九月十三日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を附属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は一六八㎡、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。
 馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治二十二年(一八八九)に建てられた。間口約十二・五m、奥行約四・五mの細長い建物には、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
 昭和六十二年十月二十八日
   東京都港区教育委員会」(案内板より)


御供侍所
「乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬をうけた。
将軍大将従二位勲一等功一級伯爵に敍せられ晩年明治天皇の思召によつて学習院長に任ぜられ専ら華冑子弟の薫育に盡したが大正元年九月十三日明治天皇御大葬の当日六十四才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
将軍は嘉永二年十一月十一日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ(少年乃木無人所載年譜)安政五年十一月将軍十才の砌り一家と共に長門国長府に移つた。幼名を無人とよび慶応二年六月十八才の折文蔵と改名した。明治二年十一月二十一才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治四年十一月二十三才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
明治八年二十七才の時熊本鎮台歩兵第十四聠隊長心得となり同十年には西南の役に従軍四月二十二日中佐に任ぜられた。
将軍の父希次は 同年十月東京に於て病没した。
翌年十一年一月二十六日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第一聠隊長となり、八月二十七日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に二十才であつた。
当時将軍は 芝桜川町に住んでいた。(山路愛山著乃木将軍)
翌明治十二年八月二十八日長男勝典が生れ十一月に新坂五十五番地に初めて邸宅を設けたのである。
同十三年四月大佐に進み翌十四年十二月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍 英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間 那須別邸に自適されたこともあつたが本邸は依然として此地に在り、明治十二年以来三十四年間に及んだ。
本旧邸は、素朴高潔であつた。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
因みに長男勝典中尉は 明治三十七年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典は 同年十一月三十日歪頭山に於て戦死した。時に長男は二十六才、次男は 二十四才であつた。
大将夫妻 及び両息子の墓はともに青山墓地にある。」(案内板より)


表玄関


棗の標
水師営棗の樹の孫


向かって右側の、ちょうど木の緑に隠れた部屋が、故大将夫妻殉死之室。


乃木大将と辻占売少年像
「今に伝えられる『乃木大将と辻占売りの少年』の話は、明治二十四年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです、希典は金沢で偶然、当時八歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売を営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。
 この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることになり、希典所縁のこの地に移建されました。
   平成十三年九月」(案内板より)





愛馬「壽号」の馬舎
「愛馬の由来
正馬壽号は『ステッセル』将軍の愛用した『アラビヤ』産の牡馬で明治三十八年一月五日水師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さない事なので後日を約してこれを『壽』号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。
大将は壽号を明治三十九年末に種馬として鳥取県赤崎町佐伯友文氏に贈られた。後大正四年五月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏方で飼育中大正八年五月二十七日に終命した。馬齢二十三歳でその仔馬は二十余頭に及んでいる。副馬『璞』号は去勢馬で仔馬なし。」(案内板より)


元乃木家菜園


乃木大将御手植の月桂樹


灯籠
はじめは門柱として用意された石材。
門柱に用いるには適当でなかったために邸内に保存していたものを、後に遺族が灯籠として建てたもの。


戦後、マッカーサーが植樹したハナミズキ


乃木家祖霊社


「武士は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ  希典」


瘞血之處
殉死された時の血のついたものを埋めてあるらしい。

室内は、命日の9月13日とその前日の12日のみ。


すぐ隣の乃木公園
すぐ隣の乃木神社の様子はこちら


そしてこちらは、すぐ隣の衆議院副議長公邸。
中は見えない。