大倉草紙

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【大阪】 大阪城

2008年11月17日 22時09分02秒 | 旅 - 大阪府
本日の行程:(大阪市営地下鉄・谷町4丁目駅) … 【江戸と明治の華-皇室侍医ベルツ博士の眼-(大阪歴史博物館)】【豊國神社】【大阪城】


   

          

大阪城へ行く。
天守閣は8階建てで、資料館になっている。
今月24日までは、天守閣3・4階展示室で、特別展「徳川大阪城-西国支配の拠点」が開かれている。
豊臣家の滅亡後、徳川秀忠によって約10年をかけて再築された大坂城は、江戸時代の西国支配の拠点となる。
当時の大坂城の役割が分かる多彩な資料が展示されている。
チラシにあるのは「西国図屏風」。
いつまで見ていても飽きない。
常設展でも、「大阪夏の陣パノラマビジョン」など、映像が多く用いられていて楽しめた。
全部をじっくりと見るとしたら、かなり時間がかかるのではないだろうか。


   
                 大手門

創建は明和6年(1620)。
天明3年(1783)に落雷によって破損し、現在の門は、嘉永元年(1848)に補修をしたもの。
昭和42年(1967)に解体修理もしている。
門の両脇には、赤い菊の花が飾られていた。


   
              大手門枡形の巨石

この巨石は、徳川時代に大坂城を再建する際に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたもの。


   
                 多門櫓

多門櫓は、塁上に築いた長屋状の櫓のこと。
多聞櫓の名称の由来は諸説あるようだが、一般に、松永久秀が多聞城で初めて築いた様式といわれる。
多門城跡を訪れたときの記録は、こちら
大坂城の多門櫓は、現存する櫓のなかで最大規模だという。


   
                 千貫櫓

昭和36年(1961)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、棟上式の日が判明した。
織田信長が石山本願寺を攻めたとき、この櫓あたりからの横矢に悩まされ、この櫓を落とした者には銭千貫文を与えても惜しくはないと語ったことから、「千貫櫓」と呼ばれるようになったそうだ。


   
                 太鼓櫓跡

創建は寛永5年(1628)。
明治元年(1868)の城中大火で消失。
かつては、左右の石垣の間に南仕切門があった。
右側の石垣の上には太鼓を蔵する二層櫓があり、この太鼓は、平時では時刻を知らせるために、戦時には将士の招集や出陣の合図のために打ち鳴らされたという。


   
             石山本願寺推定地


   
                六番櫓

創建は寛永5年(1628)。
かつては、一番櫓から七番櫓まであったという。
現在残っているのは、この六番櫓と一番櫓の二棟だけ。


   
                  空堀

本丸を囲む内堀は、南から西にかけてのみ、空堀になっている。
ここは寛永元年(1624)、徳川幕府による大坂城再築工事のときに築かれたものだが、豊臣秀吉築城の大坂城も本丸の南は空堀で、大阪の陣で埋められたわけではないそうだ。


   
                  桜門

桜門は、徳川時代の寛永3年(1626)に築かれた。
その後、明治維新の城中大火で消失し、明治20年(1887)に再築される。


   
               銀明水井戸の井筒

旧大阪市立博物館の裏北隅、本丸の御殿下台所裏にあった銀明水井戸の井筒を昭和6年(1931)の天守閣再建にあたって桜門を入ったところへ移動させたもの。


   
                  蛸石

本丸の正面を守る枡形。
正面の大きな石は「蛸石」と呼ばれ、場内一の巨石。
およそ36畳敷、推定重量130トンといわれる。


   
              旧大阪市立博物館

昭和天皇即位を記念して、昭和6年(1931)に市民の寄付により150万円が集められ、大阪城天守閣再建、大阪城公園の新設と併せて、第四師団司令部として建設されたもの。
戦後、大阪市警視庁、大阪府警本部として使われたのち、昭和35年(1960)~平成13年(2001)まで大阪市立博物館として使用されてきた。


   

旧大阪市立博物館の前の銀杏は、金色になっていた。


   

菊の花も美しい。


   
          大阪城・タイム・カプセル EXPO70

昭和45年(1970)、「人類の進歩の進歩と調和」をテーマに大阪で開かれた日本万国博覧会。
これを記念して、万博の翌年、20世紀の世界各国の文化所産2098点を納めたカプセル2個を地下15メートルに埋設したそうだ。
上部カプセルは毎世紀初頭に、下のカプセルは5000年後の6970年に開封することになっているらしい。


   
                日本庭園

昭和6年(1931)、大阪城天守閣復興に併せて整備された庭園。


   
         大阪城・上田城友好城郭提携記念碑

大阪城と真田昌幸が本拠とした上田城は、平成18年(2006)10月10日に友好城郭提携を締結した。
この記念碑の除幕式は、締結2周年にあたるつい先日、平成20年(2008)10月10日に行われたばかり。


   
                 残念石

元和6年(1620)から始まる大阪城修復の時、天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石として念願かなわず、いまなお残されていることから「残念石」と呼ばれる。


   
              金明水井戸屋形

水面まで33メートルの深さがあるといわれる。
覗いてみたが、真っ暗で分からなかった。当たり前か。
井戸水の毒気を抜くために、秀吉が黄金数枚を井戸に沈めたという伝説が残るが、実際は、徳川時代の寛永元年(1624)に掘られた井戸だという。


   
                 号砲

天守閣の入口には、号砲が据えられている。
1863年、幕府の命令で造られ、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後に大阪城内に移されたものだといわれる。
明治3年(1870)~大正12年(1923)頃まで、時刻を知らせる号砲として用いられていた。


   
                 天守閣

秀吉時代の天守は、天正13年(1585)~慶長20年(1615)、
徳川時代の天守は、寛永3年(1626)~寛文5年(1665)、
現在の天守は、昭和6年(1931)に建てられたもの。
平成9年(1997)、国の登録文化財に指定されている。


   
               刻印石広場

大阪城の北側には、刻印石広場がある。
刻印石とは、大阪城の石垣築城に携わった諸大名の家臣や石工が、個々の石にさまざまな文字や模様、大名の家紋を刻んだもの。
たとえばこんなふう。

   


   
             秀頼・淀殿ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)、大阪夏の陣で、徳川軍に追い詰められた秀頼とその母・淀殿は、山里丸にあった櫓で自害したといわれている。
秀頼・淀殿ら自刃の地は、天守閣の北側にある。


   
                 極楽橋

山里丸と二の丸とを結ぶ橋。
徳川時代の寛永3年(1626)に創建された。
明治維新の城中大火で消失した後、昭和40年(1965)に復興された。


   
                 青屋門

名前の由来は、大坂本願寺時代、このあたりに青屋町があったからだといわれる。
大坂城の非常門。
徳川時代、元和6年(1620)に創建。
昭和20年(1945)、大空襲で大破したが、その後、昭和45年(1970)に復元された。


   
               大坂城の梅林


   
                肥後石

京橋口枡形の巨石。
畳約33畳の城内2番目の大きさのこの巨石は、「肥後石」と呼ばれる。
加藤肥後守清正が運んできたと伝わるからだ。
しかし実際には、徳川幕府の大坂城再築時に、備前岡山藩主池田忠雄が運んだものだという。


石垣の遺構は、次の場所からも発掘されている。

   
          日本経済新聞社大坂本社
         (大阪市中央区大手前1-1-1)


   
       大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)
       (大阪市中央区大手前1-3-49)


今日の歩数:11,961歩
             

  

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