8月27日(水)の行程:(車) → 【問屋場跡】 → 【大垣宿本陣跡】 → 【奥の細道むすびの地】 → 【奥の細道むすびの地記念館】 → 【大垣城跡】 → 【中山道赤坂宿本陣跡】 → 【勝山】 → 【南宮大社】 → 【美濃不破関跡・壬申の乱史跡】 → 【関ケ原の戦いゆかりの地①東軍、②西軍、③傍観軍・反応軍、④陣跡以外の史跡】 → (大垣泊)
8月28日(木)の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍、②西軍、③傍観軍・反応軍、④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関ゆかりの地】 → 【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】 → 【伊吹山ドライブウェイ】 → 【国友鉄砲の里史料館】 → 【姉川古戦場跡】 → 【小谷城跡】
【開戦地】
開戦地の碑は、北天満山を背にした西田運動広場の入口に建っている。
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
開戦地
慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。
一方井伊隊も福島隊に遅れまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(標柱の位置は北寄りに移動) 関ケ原町」
【決戦地】
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
決戦地
西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。 関ケ原町」
【西首塚】
西首塚は、JR・関ケ原駅前から国道21号線を西へ700メートルほど行ったところにある。
「西首塚
関ケ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観音及び馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。 関ケ原町教育委員会」
柴ノ内関ケ原合戦戦死者胴塚
西首塚は別名胴塚とも呼ばれている。
この辺りの鉄道敷設工事の際には、広範囲にわたって白骨が出てきたらしい。
標柱の「史蹟 関ケ原古戦場 西首塚」の揮毫者は陸軍大将宇垣一成。
【東首塚】
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
東首塚
この塚は関ケ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。 関ケ原町」
「首洗いの古井戸
合戦で打ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を作って懇ろに葬られました。
首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。 関ケ原町」
8月28日(木)の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍、②西軍、③傍観軍・反応軍、④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関ゆかりの地】 → 【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】 → 【伊吹山ドライブウェイ】 → 【国友鉄砲の里史料館】 → 【姉川古戦場跡】 → 【小谷城跡】
【開戦地】
開戦地の碑は、北天満山を背にした西田運動広場の入口に建っている。
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
開戦地
慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。
一方井伊隊も福島隊に遅れまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(標柱の位置は北寄りに移動) 関ケ原町」
【決戦地】
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
決戦地
西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。 関ケ原町」
【西首塚】
西首塚は、JR・関ケ原駅前から国道21号線を西へ700メートルほど行ったところにある。
「西首塚
関ケ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観音及び馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。 関ケ原町教育委員会」
柴ノ内関ケ原合戦戦死者胴塚
西首塚は別名胴塚とも呼ばれている。
この辺りの鉄道敷設工事の際には、広範囲にわたって白骨が出てきたらしい。
標柱の「史蹟 関ケ原古戦場 西首塚」の揮毫者は陸軍大将宇垣一成。
【東首塚】
「国史跡(昭六・三・三〇指定)
東首塚
この塚は関ケ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。 関ケ原町」
「首洗いの古井戸
合戦で打ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を作って懇ろに葬られました。
首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。 関ケ原町」