大倉草紙

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【大阪】 福澤諭吉生誕地・若宮商工稲荷神社

2008年06月16日 22時27分01秒 | 旅 - 大阪府
本日の行程:(自転車) → 【福澤諭吉生誕地】 → 【若宮商工稲荷神社】


   
                  蛸の松

福島へ自転車で行く用事のついで、福澤諭吉の生誕地を探してみようと思った。
急に思いついたことなので、福島1丁目にあるということ以外、詳しいことは分からない。
行けばなんとかなるだろう。
で、うろうろしていたら、「蛸の松」を見つけた。

江戸時代、この辺りには、諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいたらしい。
各屋敷の前には松が植えられていて、その中でも、とりわけ美しかったのは、久留米藩屋敷と広島藩屋敷の境にあった松で、その枝振りが蛸に似ていることから、「蛸の松」と呼ばれるようになったそうだ。
この松は、当時、広島藩主だった福島正則によって植えられたとのこと。
現在、田蓑橋北詰に植えられている「蛸の松」は2004年に植樹したもので、かつては、対岸に植えられていたようだ。


   
              福澤諭吉生誕地の碑

玉江橋北詰の辺り、先月オープンした「ほたるまち」の前に、福澤諭吉生誕地の碑があった。


   
       福澤諭吉生誕地の碑(向かって左側の碑)

      天ハ人ノ上ニ
        人ヲ造ラズ
      人ノ下ニ
        人ヲ造ラズ


          
          福澤諭吉生誕地の碑(中央の碑)

   
             中央の碑の下にある石版

石版には次のように書かれている。
『幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る。時に天保五年十二月十二日(西暦一八三五年一月十日)。こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。先生の父百助は一面に於いて、経學者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる。封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう。當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか』


           
  
          福澤諭吉生誕地の碑(向かって右側の碑)

向かって右側の碑には、「豊前國中津藩屋舗之跡 大阪堂島玉江橋北詰」とある。
角柱の碑の左側面には「従是江戸迄 海路二百四十八里 陸路百三十三里」、右側面には「従是中津迄 海路百三十里 陸路百三十五里」とある。


   
        福澤諭吉生誕地辺りから見た玉江橋


玉江橋を渡り、土佐堀通を東へ向かう。
松屋町筋を南に折れて、大阪商工会議所へ。


          
           大阪商工会議所にある銅像

   
              ビルの間にある神社

銅像は、左から、五代友厚、土居通夫、稲畑勝太郎の銅像。
銅像の奥の階段を見上げると、ビルとビルの間に神社がある。


          
              若宮商工稲荷神社

   
                  手水舎

  
         狛犬                  本殿

若宮商工稲荷神社という神社らしい。
手水舎もある。
狛犬はかわった顔をしていた。

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