大倉草紙

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【和歌山】 根来寺・粉河寺・和歌山城

2008年05月04日 23時43分34秒 | 旅 - 和歌山県
本日の行程:(車)…【根来寺】 → 【粉河寺】 → 【和歌山城】 → 【紀三井寺】 → 【淡嶋神社】


連休の2日目は、風吹峠を通って根来寺を訪れる。

          
                大塔(国宝)

       
                      本坊

       
                   根来寺のてぬぐい


深い緑に囲まれたお寺の佇まいは素晴らしく、ずっと見ていても飽きることがない。
境内は広々としており、空が高く、あかるい。
どの建造物も個性的なのだが、衒うところがないのが好ましい。

秀吉の紀州征伐の焼き討ちを免れた大塔の外壁には、火縄銃の弾痕が残っている。
訪れる人々がその弾痕を指で触れるからだろう、弾痕の部分だけ木がツルツルになっていた。
本坊の庭も美しい。
聖天堂の朱塗りの壇は根来塗だという。
根来塗は、下地の上に黒漆を塗り、それに朱漆を重ねるのが特徴である。
使い込むと、朱漆の下の黒漆が透けてきて、味わい深くなるそうだ。

          

記念に根来塗の箸を買い求めた。
お高いものではないのだが、桐箱におさめられていて立派だ。


       
                粉河寺庭園と本堂

       
                 粉河寺てぬぐい

粉河寺は西国三十三所観音霊場、第三番札所。
国指定名勝の庭園は、蘇鉄が植えられているせいか、
どことなく南国の雰囲気が漂っている。


お昼は和歌山市内の和歌山ラーメン屋さんで。
長いこと行列に並んだ分だけ期待が高まったけれど、お味のほうはそれほどでもなかった。


          
                 和歌山城

       
                 天守閣から紀ノ川を望む

和歌山城は駐車場が混んでいて、なかなか入ることができなかった。
長い石段をのぼり、天守閣内へ。
天守閣からは、和歌山市内が一望できる。
紀ノ川の川幅はひろく、ゆったりと横たわっているのが印象的だった。
先日九度山で見た紀ノ川とはまるで違う川のようだ。


西国三十三所観音霊場、第二番札所の紀三井寺へ向かう。
      
        楼門の先の階段            紀三井寺のてぬぐい

       
                      本堂

楼門をくぐると、231段の階段が続いている。
かつて、ここは「結縁坂」と呼ばれる坂だったようだ。

坂にはこんないわれがある。
紀ノ国屋文左衛門は親孝行で、母を背負ってこの坂をのぼり、観音様にお参りしていた。
ある日、坂の途中で草履の鼻緒が切れてしまうのだが、その時通りかかった玉津島神社の宮司の娘が鼻緒をすげ替えてくれ、これが縁で二人は結ばれた。
その後、文左衛門は宮司の出資金によって仕立てた蜜柑船で大儲けする。

これだけの御利益があってもよいくらい、きつい勾配の石段だった。

本堂の前にあるのは和歌山の桜の標本木。
すでに葉桜となっていたが、桜の季節はさぞかし美しかったろうと思い描く。

淡嶋神社に寄ってから帰ることにした。
紀ノ川を渡り、思いのほか早く神社に着いた。
海に面した神社で、近くでは、釣竿を持った人を多く見かける。
参道で、さざえの壷焼きが売られていた。
人形供養の神社として有名で、境内には、あらゆる種類の人形が、地面に敷き詰められたかのように置かれている。
あの「お菊人形」もこの神社にあるとか。


そして渋滞地獄。
連休だから仕方がないか。

【和歌山】 九度山・高野山

2008年03月08日 23時31分43秒 | 旅 - 和歌山県
本日の行程:(南海電鉄・九度山駅) → 【真田庵(善名称院)】 → 【慈尊院】 → (南海電鉄・九度山駅~極楽寺駅)…(南海高野山ケーブル・極楽寺駅~高野山駅)…(タクシー) → 【金剛峯寺】


九度山駅から坂道を下り、やや大きな通りを10分くらい歩いただろうか。
真田庵は静かな場所にあった。
真田庵は、正式には、善名称院という。
関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸・幸村父子は、蟄居を命じられ、ここに隠棲していた。
この地で死去した死去した昌幸の墓もある。


   

真田庵の門の扉には、六文銭が彫られていた。

敷地内の「真田宝物資料館」の料金箱に200円を入れて入館する。
武具、真田紐、書状などの資料とともに、真田昌幸・幸村父子をテーマとした小学生の自由研究も置いてあり、ほほえましかった。
 
近くに「真田の抜け穴」があるというので、探してみた。
近所の人にも尋ねてみたのだけれど、結局、場所が分からなかった。
どこにあるのだろう?


慈尊院(世界遺産)へ向かう。
慈尊院は、弘法大師が高野山を開く際に、この地を表玄関として伽藍を草創し、政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所としたのがはじまり。
女人禁制のため高野山への入山できず、この政所に滞在していた弘法大師の母は、ここで亡くなったという。
 
弥勒堂(重要文化財)の前には、布で作った乳房型が奉納されていた。
不謹慎だが、いろいろな形、大小さまざまな乳房が並んでいて、思わず見入ってしまった。
不思議な光景だ。

有吉佐和子の『紀ノ川』を思い出す。
 
 
再び南海高野線に乗って、高野山(世界遺産)を目指す。
ケーブルカーに乗り換えて、高野山駅へ。
バスの待ち時間が長かったので、タクシーで大門(重要文化財)へ向かう。

高野山では、大門 → 壇上伽藍 → 金剛峯寺 → 徳川家霊台 → 奥の院参道 → 奥の院の順に回る。
 

   
        奥州仙台伊達家墓所

なかでも、とりわけ印象に残っているのは、奥の院への参道と燈籠堂。

一の橋から約2km、杉や檜の大木の間に20万基の墓石が並んでいる。
見れば、大名や武将の名が。
霊園のように区画が整理されているのではなく、参道に沿って、さまざまな形の墓石が雑然と建っているのが、よかった。
まだ雪が道の端に残っていて、花の季節には少し間があるせいか、人もまばらで、静かにこの参道を歩けたのも、またよかった。

燈籠堂には、2万個もの燈篭が灯っている。
孝女お照が髪を売って両親の菩提のために献した「貧女の一燈」と、白河天皇が献燈された「白河燈」の灯は、1000年以上燃え続けているという。
ぼんやりと赤く照らされた空間は、じつに神秘的だ。

弘法大師御廟の前は、熱心に祈りを捧げる人であふれていた。
入定した弘法大師の御廟には、今でも、維那(いな)と呼ばれる仕侍僧による日々のお給仕を絶やすことがないという。

【和歌山】 新宮 (熊野速玉大社・神倉神社)

2008年03月02日 23時04分02秒 | 旅 - 和歌山県
本日の行程:(JR新宮駅) → 【徐福公園】 → 【神倉神社】 → 【熊野速玉大社】 → 【佐藤春夫記念館】


新宮駅から東へ2~3分、中華街を彷彿させる門がある。
徐福公園である。
約2200年前、徐福は、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて船出した。
ここ熊野で薬木「天台烏薬」を発見した徐福は、母国に帰ることなく、新宮で一生を送ったという。
天台烏薬の木が植えられている公園内には、徐福や重臣たちのお墓、徐福像、不老の池などがあった。
徐福のお墓の前では、熱心に拝む人の姿もある。
不老の池には、七重臣が有していた七つの徳「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」が刻まれた石柱が建っていたので、順番に触れてきた。


     
          神倉神社の石段

神倉神社は、熊野速玉大社の飛地境内摂社。
538段の石段は、1193年に源頼朝が寄進したものといわれる。
これには参った。
2006年に九重の吊橋(大分県)ができるまでは、世界一の高さを誇っていた綾の吊橋(宮崎県)を平気で渡り、一度だけ乗ったグライダーの楽しさが忘れられず、いつかはハングライダーにも挑戦したいと思っているくらい高い場所には抵抗がないつもりでいたのだが、この石段は、恐くて登れない。
夫に笑われながらも、四つん這いになって、よじ登る。

この神社の例祭で、「お灯まつり」というのがある。
白装束に身を包んだ男たちが、この石段を駆け下りる勇壮な火祭りだ。
この祭りの様子を見たのは、ポスターだったか、テレビだったか。
松明の灯が、波のように鳥居に押し寄せる光景が印象に残っている。
灯を持って、この石段を駆け下りるなんて、あぁ恐ろしい。

地元の人たちは、上り下りに慣れているのだろうか。
70は過ぎているであろうおじいさんが、ひょいひょいと身軽に石段を登っていく。
「コワイ、コワイ」と言っている自分が情けない。

神社のご神体は、「ことびき岩」と呼ばれる巨岩。
「ことびき」とは、この地方の方言で、ヒキガエルのことだという。


神倉神社の次に向かったのは、熊野速玉大社

道中、香梅堂で「鈴焼」を買う。
ベビーカステラのようなこのお菓子と似たものは多いけれど、ふんわりとした感じといい、香りといい、他のものとは違う。
絶品だ。
和三盆を使っているのだという。
やわらかな甘さもいい。

石段や階段を登っての参拝が続いていたせいか、熊野速玉神社が平地に建っていて、不思議な感じがした。
もともとは、神倉山に祀られていたらしく、それを移したのが現在の熊野速玉大社の始まり。
それで、神倉山を元宮、ここを新宮を呼ぶようになったようだ。
朱塗りの新しい社殿は、昭和になって建てられたものらしい。


熊野速玉神社の隣には、佐藤春夫記念館がある。
東京都文京区関口にあった邸宅を移築したものだという。
館内には、詩の朗読が流れている。
建物は、洒落た造りで、風通しがよく、実に気持ちがいい。
とくに、2階の「八角塔の書斎」には憧れる。
通路の踊り場のような感じで、狭いのだけれど、明るい書斎だ。

 
新宮市立図書館にある中上健次資料収集室にも寄ってみたかったが、事前に予約が必要な上に、日曜日は担当者がお休みのようだったので諦める。

そしてまた特急電車に乗り込む。
和歌山は広いなあ。
 
 

【和歌山】 熊野古道 (那智駅~熊野那智大社)

2008年03月01日 23時32分04秒 | 旅 - 和歌山県
【熊野古道】(世界遺産)


本日の行程:(JR紀伊勝浦駅)…(タクシー)…(JR那智駅前)…(徒歩) → 【浜の宮王子】 → 【補陀洛山寺】 → 【尼将軍供養塔】 → 【市野々王子】 → 【大門坂入口】 → 【多富気王子】 → 【熊野那智大社】 → 【青岸渡寺】 → 【飛瀧神社】(那智大滝) → (熊野交通バス:滝前バス停→紀伊勝浦駅)

紀伊勝浦駅までが、遠かった。
特急を利用しても4時間以上はかかる。

電車は海岸線を通っていく。
景色はすばらしく、名所が近づき車内アナウンスが流れると、心なしか、走る速度がゆっくりになるような気がする。

熊野古道は初めてで、どこからアプローチすればよいのか、どのくらいハードなものなのか、訪れる直前まで分からないことだらけだった。
そこで、和歌山県観光連盟が作っているモデルコースに沿って、那智駅~熊野那智大社を歩くことにした。
歩行距離7.4km、標準歩行時間2時間15分、標準所要時間4時間のコース。
これなら、お昼過ぎから歩き始めても大丈夫だ。

JR那智駅から歩き始める。
浜の宮王子、そして補陀洛山寺へ。
補陀洛山寺は、補陀落渡海で知られるお寺だ。
歴代の住職は、生きたままで小舟に乗り、那智の浜から南の浄土、補陀落山を目指したという。
裏山に登ると、ある歴代の渡海上人のお墓と平維盛の供養塔がある。
補陀洛山寺には、復元された補陀洛渡海船も置いてあった。
渡海船には扉が無い。
渡海上人が船に入ると、入口には、外から釘が打たれる。
渡海は、旧暦の11月に行われたらしい。
海上は寒かろう。
あれこれ想像する。

舗装された道路から、山の中の「古道」へと入る。
道を整備するための工事が行われていた。
山の中まで工事のための道具や材料を運ぶのは、大変なことだろう。
尼将軍供養塔までたどり着いたが、夫と私のほかに歩いている人はいない。
大門坂バス停もしくは滝前バス停までバスで移動する人が多いようだ。

尼将軍供養塔を過ぎ、しばらく行くと「ふだらく霊園」が見えてくる。
源頼朝の死後に植えられたという「柿の古木」を見る。
枯れているようにも見えるが、秋になれば実をつけるというのだから、すごい生命力だ。

再び、舗装道路を進む。
長閑な町だ。
川が流れている町はいいな、と思う。
市野々小学校の近くで、市野々王子を見つける。


     
            大門坂入口

大門坂入口までは、楽だった。
道の料金箱にお金を入れて、みかんを買って、「夫婦杉」の手前で休息。
 
ここから始まる大門坂の石段は急勾配。
すぐに息が切れた。
登っても、登っても、石段が続く。
途中のお店で梅ジュースを飲んで、
熊野那智大社を目指して、また階段を登る。

熊野那智大社の社殿は、朱塗りで鮮やかだ。
お参りをしたあと、「胎内くぐり」をやってみる。
入口にある護摩木に願い事と氏名を記入し、それを持って胎内に入る。
護摩木は、出口で納めるようになっている。

熊野那智大社のすぐ隣が青岸渡寺
西国巡礼の第1番札所だ。
本堂の近くから、三重塔と那智大滝を望む。
写真でよく見る風景だが、実際に見るとその美しさに心打たれる。
三重塔からも滝を見る。
何度見ても飽きない。


     
            那智の滝
      
滝を間近に見るために、坂を下る。
滝の前には、熊野那智大社の別宮の飛瀧神社がある。
この神社のご神体は那智の瀧なので、本殿はない。


     
                御神水をいただいた杯

ここで、那智の滝の御神水をいただく。
御神水をいただいた杯は、100円で持ち帰ることができる。

帰りは、滝前バス停から紀伊勝浦駅までバスで。
バスの待ち時間に、お土産屋さんで食べためはり寿司は美味しかった。