奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

揖斐川町ゆかりの人物 No338

2022-09-24 02:25:29 | 奥揖斐の歴史など

揖斐川町ゆかりの人物

2022年9月23日(祝)

 今日、郷土読本「揖斐川町ゆかりの人物」※という本を見、感激した

 ~ ゆかりの人物一覧をみると200を超える人が載っており、その中で私の眼に残った7人の人物を(五十音順で)紹介します

[ ]書きは私 が追記

 

① 小野 ゆき 1901(明治34)年~1945(昭和20)年[揖斐川町]三輪の生まれ。看護婦になり、戦地で救援活動に携わり、ルソン島沖で殉職した。ナイチンゲール記章を受けた ※🅟118

② 春日の局[揖斐川町小島の]白樫で生まれる。[徳川]家光が誕生し、乳母になる。以降江戸城大奥の第一人者となり、一方で幕政にかかわる存在になる 🅟48

③ 岸  武雄 1912年(明治45)年~2002(平成14)年[藤橋村]東横山の生まれ。岐阜大学付属小学校主事を22年務める。代表作「千本松原」をはじめ多くの児童文学書・教育書を発刊した 🅟118

④ 土岐 頼康 1318(文保2)年~1387(嘉慶元)年 美濃国守護第3代で尾張・伊勢の守護も兼ねた。後光厳天皇を[揖斐川町]小島へ迎えた。父頼清を弔うため南禅寺の大林和尚を招いて[小島の]瑞巌寺を開いた 🅟122

⑤ 徳山五兵衛則秀 不詳~1606(慶長11)年 徳山の初代領主で、更木(各務ヶ原市)に陣屋を構え、家康に御側衆として仕える 🅟122

⑥ 播隆上人 1786(天明6)年~1840(天保11)年 越中(富山県)大山の生まれ。[揖斐川町三輪に]播隆院一心寺を開いた。厨子を背負って山間部を行者として修業した僧。槍ヶ岳を開いた 🅟123

⑦ 増山 たず子 1917(大正6)年~2006(平成18)年[徳山村]戸入の生まれ。徳山村の人々・暮らし・行事・自然を写真に収める。撮影枚数7万枚を残す 🅟124

 

 

☆ 今日の反省など

① 小野ゆき 16歳で揖斐小学校を卒業、18歳で大阪赤十字病院付属看護婦養成所で学ぶ、22歳で関東大震災に救護要員として参加、42歳フィリピンマニラ野戦病院に勤務、44歳ルソン島カラバン南方の地で餓死する。1944年フィリピンの戦況は厳しさを増し(略)、[食料は]深夜に支給される数グラムの米に水を加えたカユだけでした。[それでも]ゆきは身命をなげうって必死の看護に努めました。しかし、ついに病におかされ回復することが出来ず、46歳の生涯を終えました 🅟4

🅟118には殉職と書いてあり、🅟4では「ルソン島カラバン南島の地で餓死する。」と。この「餓死」の記事読んで、この日何度も涙がでました。この当時(大正8年)18歳で揖斐から大阪に行ったということも凄いです

③ 岸 武雄 揖斐川町鶴見の藤橋城3階に岸 武雄コーナーがありますので、是非ご覧あれ

 

⑤ 上の写真は行市山(余呉町と敦賀市にまたがる)の帰り(下山時)に2014年3月撮ったもの。秀現は則秀の戒名(ウィキペディア)  

⑥ 🅟94~96に上人が南宮山(不破郡垂井町)での修行を終え、伊吹山池谷峰の岩穴で念仏修行を行ったとあります。私は20年ほど前、伊吹山登山の帰り春日村古屋笹又で上人を偲ぶ祭り?に出会い、およばれしたことがあります

⑦ 増山たづ子さんに写真を撮ってもらったことがあります。2枚の写真と手紙が郵送されてきました。手紙に一枚はあなたの母親に送りなさい、と書いてありました

◇ その他

・新選組の近藤 勇を捕らえた[揖斐の]岡田さん 🅟118

・後光厳天皇 北朝第4代の天皇。南朝に攻められ京を逃れ、小島頓宮に2ケ月滞在した 🅟119

 

★ 今日の一枚

昨年撮った写真、今年はこんないい天気なかったなあ!!、もうすぐ新米が食べれます (笑)

 

2014年 9月23日に岡島橋下流で採ったアユ。数年前鑑札を返上したので、今年はまだ天然アユ食べていない 

 

コメント (3)
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