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作品を読む ⑥ (加藤治郎)

2019年04月07日 | 作品を読む
 作品を読む ⑥ (加藤治郎)



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


52.かたかたと人面機関車われにきて生産性を落せ、つぶやく 加藤治郎『ニュー・エクリプス』

★(私のひと言評 3/31)
●「人面機関車」と言えばNHKテレビで時々見かける『きかんしゃトーマス』。子どもが小さい頃には、親はこのようなものもよく目にする。作者44歳位だから、これは〈私〉の子どもがその模型を持っていて〈私〉の方にいっしょに遊ぼうよとかたかたと動かして来るイメージだろうか。「生産性を落せ」という言葉は、例えば子どものあそぼうよ等という言葉を、〈私〉がそうユーモラスに大人言葉で受け取ったということ。〈私〉は、自宅で短歌関係のことを取り組んでいて、そこにそんなふうに子どもがやって来たか。もちろん、転がっている「人面機関車」をふと目にしてそのような場面を構成したとも取れる。作者の表現の具体的な現場にたどり着くのは難しい。



53.千々石ミゲル、さみしいなまえ夏の夜のべっこうあめのちいさなきほう 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/2)
千々石ミゲルについては、「天正遣欧少年使節」の一員だった位しか知らない。「千々石ミゲル」(Wikipedia)によると、日本に戻ってから、「次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。 」とある。また、「1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。」「千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と『日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである』と述べ、主君の棄教を後押ししている。」と、どんな資料によるとは書いてないが、このような記述もある。
 
少年の千々石ミゲルは、初め純粋な心と希望を胸に遙かなヨーロッパの地を目指したのだろうが、宗教が政治や地上的な利害と結びついている様を目の当たりにして失望したのかもしれない。こうしたことや秀吉の1587年と1596年の禁教令の動向も関わりがあるのかもしれない、棄教している。こういう状況で生きていく千々石ミゲルのイメージは、「さみしいなまえ」とならざるを得ないだろう。
 
昔は、晴れやかな若々しい時代もあったかもしれないが、棄教して「千々石ミゲル」を脱ぎ捨てた千々石ミゲルは、目立たないさみしい晩年を送ったのかもしれない。ちょうど「夏の夜のべっこうあめのちいさなきほう」のように。これを私たちに拡張すれば、誰でも遠い未来から振り返ればそのようなちっぽけな儚いイメージに映るのではないか。と、〈私〉はイメージを走らせ、イメージを収束させている。



54.冬のドア細くあけたりあかあかと太郎次郎は寝返りを打つ 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/2)
所載の歌集からすると作者53歳頃の作品だから、これは子ども(たち)の小さかった頃の昔をふと思いだした歌だろうか。わたしたちは誰でも現在を重力の中心のように生きているから、現在的なものが表現の素材やモチーフとしても押し寄せて来やすい。そのような中、何かをきっかけにこのように過去のことをふと想起することもある。

この歌を読んで、以下の三好達治の詩「雪」をイメージした。本歌取りのようなものとして意識されていると思われる。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

だからこの歌でも、三好達治の詩「雪」と同様に「太郎次郎」はこの列島のこどもの代表として歌われている。ただしモチーフとしては、三好達治の「雪」が宗教的な自然思想に収束するのに対して、こちらは人間界の誰にもある情景として表現されている。
親である〈私〉が、様子見に子ども部屋のドアを少し開けると部屋に明かりが差した。その明かりにあかあかと照らし出されるように子どもらが寝返りを打った。心のどこかでほっとして引き返してゆく。どこの家族でも子どもが小さい時には親が経験することである。



55.ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/4)
数回読んで、上の句はわかる、下の句もわかる、しかし、その連結の意味や場面がわからない。もう少し言葉の森に入り込んでみる。わたしにも経験がある。傷の手当てにバンドエイドを貼っていて、もういいかなとはがしたら傷は塞がっているがしわしわの指になっている。一瞬びっくり。そのとき、「じょうゆうさあん」と人を大声で呼ぶ女性の声が聞こえた。びっくりつながりだろうか。職場の光景に見える。上の句のバ音の連鎖やねばねばやしわしわという感覚的な擬音語の使用がよく肌感覚を表出している。下の句のひらがな表記も上の句のひらがな使用に連なりつつも、話し言葉の感じを演出している。

この歌を最初に読んだとき、「じょうゆうさあん」にひっかかった。オーム真理教の広報担当として昔ひんぱんにテレビに出ていた上祐さんである。オーム真理教の地下鉄サリン事件が1995年3月20日でこの前後に彼はテレビによく出ていたと思う。『昏睡のパラダイス』 が1998年刊である。と、ここまで来てわたしは引き返した。他者理解でも作品の理解―短詩型文学では特に―でも、相手(作品)の言葉の受けとめ方次第によって、限りなく誤解の線上を走っていくということがあり得る。ここから、上のような理解に進んでいった。



56.病葉の日本語一語くちびるに貼りつきながら普通の暮らし  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/4)
「病葉」(わくらば)という言葉は、わたしには耳慣れない言葉だが、夏の季語で「病気や害虫にむしばまれて変色した葉。特に、夏の青葉にまじって赤や黄に変色している葉」のこと。文学でも表現の世界の行きがけでは作品を作るのが楽しいとかあり得るだろうが、その行きがけを突き進んでいくと、自分はなぜこんなことをやっているのだろうか、これは一種の取り憑かれた病気ではないかというような思いが訪れてくることがある。それは、表現とは何なのかという帰りがけの課題を抱え込むことにつながる。この意味で、表現者は人間的な精神の病(「病葉」)を抱え込むことになる。

それはまた、日々の生活の時間でも生活と表現関係とうまく振り分けているときは、二重生活として安定しているだろうが、いずれか一方が時間としても浸食すると二重存在の私は不安定な状況に追い込まれる。こんなときなぜこんなことをしているのだろうという内省が訪れやすい。生活者と表現者は、微妙なバランスの上に成り立っている。



57.むせかえる苺畑のうすあかり集団殺戮(ジエノサイド)には段階がある 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/5)
人は、何をきっかけに別の何かを連想することがある。それは人それぞれの固有の世界が関わっているのだろうが、どういう心的な機構でそうなるのかはわからない。見ることは、人の〈了解〉というフィルターと連結されて多重化される。どんなありふれた光景がどういう讃歌や惨劇に結びつくのかわからない。

場面がはっきりとはわからない。夕暮れ時に「うすあかり」のこぼれるハウスのイチゴ畑をのぞいた場面か、そんな状況でのイチゴ狩りの場面か。あるいは、イチゴ狩りは想像しただけか。ここでは、ハウスの中実際の「むせかえる」中での「イチゴ狩り」のイメージが、次の段階を踏んで進行する「集団殺戮」への連想を表現として引き出している。



58.てのひらの先に五本の指があるそのようにしてきみと出逢った 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 4/5)
この歌は、表現の事実性としてみれば「きみと出逢った」ということにすぎない。その出会いの場面を、視覚的なイメージとして喚起するのではなく、意味的なイメージとして喚起させようとする。劇的な出会いというわけでもなく、ありふれた出会いだったということか。このような表現は、村上春樹の作品の中で時々出てくるフレーズ ―そのフレーズを思い出せないが― のような印象を持った。



59.
とっぷりと樹液の充ちた肉体が起きあがるときわれは夕闇   加藤治郎 『雨の日の回顧展』
ゆっくりと大きな舌が垂れてきて真夏の水に届きそうだな   加藤治郎『マイ・ロマンサー』
青空の患者のような雲がきてぷうくう無垢な雲にひっつく   加藤治郎『昏睡のパラダイス』
海蛇の東西線と交差する雷の銀座線 まなまな   加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/5)
例えば、江戸時代の地震のイメージは、当時の人々がどの程度信じている本気度があったかわからないけれど、大地の下に大ナマズがいて暴れるからだと言われている。当時の絵にも描かれている。今では荒唐無稽に見えるイメージや捉え方であるが、地震という自然の猛威をその時代に何とか理解し対処しようという心意の表れであろう。太古から自然の猛威・恵みや人間界の敵対する集団への表現としては、水神としての大蛇やヤマタノオロチ(八岐大蛇)などのイメージを生み出してきた。自然などの振る舞いの把握方法として、そういう自然物のイメージとの連結方法しか知らなかったからだろうと思われる。しかし、近代以降はそれに代わって、ギリシア-ヨーロッパ由来の自然科学の捉え方がわたしたちの自然認識になってしまった。近世までと近代では、わたしたちの自然認識の方法に断層ができてしまった。

とは言っても、現在でも近世までのような自然などの捉え方やイメージは生き延びている。特に、小さい子どもの世界はそういう世界把握に今でも親しいと思われる。これらの歌は、そのような世界把握・世界イメージの表現に見える。



60.いんいちがいちいんにがに陰惨な果実の箱はバスの座席に 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 4/6)
掛け算九九の1の段の「いんいちがいちいんにがに」が、序詞として下の句「陰惨(いんさん)」を導いている。しかし、「陰惨な」の意味・イメージがわからない。果実は、ミカンかリンゴだろうか。わたしのいる地方では、バスは数人しか乗ってない場合もよく見かけるが、ここではバスが混んでいるのに果実の箱を持って乗り込んだ者があって、しかもその箱が座席を占領しているということか。わたしなら(なんだこのやろう、困った者だ)という感情が湧くだろうから、「陰惨な」(暗くむごたらしい感じ。)がわからない。読みのイメージが確定できない。目下、不明歌。歌の註などがあるか誰かの読解があるかとこの歌に検索かけてもヒットしなかった。

思い直して、新たな読みとして、次のようなことを思いついた。わが国では目下そういうことがないからわたしの上のような読みになりがちかもしれないが、これは「自爆テロ」の場面ではなかろうか。異国のバスの中の座席にその地の果物の絵が描いてある箱が置かれている。中にあるのは爆弾。「自爆テロ」とすれば近くに実行者がいる。乗客はいつものように乗っていていつもの光景だ。誰も不審に思わない。「いんいちがいちいんにがに」は、「陰惨(いんさん)」の序詞と同時に、緊迫した爆発への秒読みに当たっているように感じられる。場面の緊迫感を生み出す効果的な表現になっている。表現世界に入り込んで変身した作者、すなわち〈私〉はそんな場面を想像し表現している。これなら、「陰惨な」のイメージに合う。わが国でも近年は、どうも単なる事故ではなくて車が人の列に突っ込んできたり、知らない者に急に刺されたりという事件に象徴されるように、少し不気味な社会になってきていて、こういう歌の場面ともまったく無縁というわけではないようだ。

技法的な類歌に次のようなものがある

古書店にみつけた螢ひいふうみいようしゃなく恋はこころを壊す 加藤治郎『ニュー・エクリプス』


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