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表現の現在―ささいに見える問題から⑦

2015年11月28日 | 批評

 新聞の短歌欄も時々さらりと目を通すけど、以下に引用するような川柳の、記号を用いた目新しい表現には出会わない。おそらく川柳の方が、あんまりかしこまらないでカジュアルな意識で表現されているからではないだろうか。もちろん、その分普通誰もがそう思ったりするという通俗性に流される面もある。
 
 
①可愛いね→強くなったね→怖いです (「万能川柳」2015.3.12 毎日新聞)


②どの花に止・ま・ろ・う・か・な・と迷う蝶 (「同上」2015.9.2)


③彼の部屋ヌードポスターに〓(でべそ)書く (「同上」2015.10.31)


 註.〓(でべそ)の正しい表示は、○の中に×印の記号。
 
 
 これらの作品は、たぶん説明の必要はない、読者もぱっとわかるような作品だと思う。→や・やでべそ印という記号を駆使した表現である。

 ①は、通俗性に流されユーモラスに表現しているが、表現としてその通俗性を抜きん出ているのは、女性が成長し、変身していく過程の時間の経過を→で表現している所である。この→がなければ、大きな時間の経過が読者に十分に伝わらないような気がする。また、矢印の代わりに一字分の空白をそれぞれに入れるよりも時の経過がわかりやすい。
 
 ②は、①とちがって・の記号を取り去っても作品の意味としては変わらない。では、・の記号によって何が違ってくるのだろうか。・の記号がなくても、「迷う蝶」(蝶が迷うかどうかはわからないけれども、作者はここでそう捉えている)を追う作者の視線の動きは、言葉に込められている。しかし、・の記号を入れると、花から花をたどる蝶の動きが、よりゆったりとした時間的な動きとなり、より広がりのある空間性を読者に感じさせている。
 
 ③は、おそらく軽い嫉妬心のようなものから出た、ユーモラスな行動の表現である。その落書きが彼にわかった後の、二人のやりとりも連想させる作品になっている。ここでは、記号表現せずに単に「でべそ」という言葉でも変わりはないように見えるけど、記号表現の「でべそ」の方が、読者に与える視覚イメージとして言葉よりも強いし、また落書きした場面の描写をより具体的なイメージとして表現できていると思われる。
 
 川柳といっても、気楽なことを気楽に表現しているわけではない。気楽な心の状態の表現であっても、このように作者たちはいろんな表現上の実験や工夫を日々やっているはずである。作者たちの、日常の中の気づきや思うことや考えたことなどを、言葉に表現していく場合、できるだけ開放的にのびのびと表現するには、現実世界の仕事など様々なことと同様に、その小さな表現の世界でのそれ相応の格闘や修練が日々行われていなくてはならない。


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