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子どもでもわかる世界論 3.世界内存在としての人間の有り様

2017年06月22日 | 子どもでもわかる世界論

 子どもでもわかる世界論
    ―宇宙・大いなる自然・人間世界
 
 
 3.世界内存在としての人間の有り様
 


 わたしたち人間は、誰もがこの世界の内にあります。固い言葉で言うと世界内存在です。この世界に生まれて間もない頃はこの世界の規模と中身がよくわからないでしょうが、育っていく過程で、家族や回りの地域や学校などの小社会に関係していきます。さらに青年期に入ると、もう少し抽象的な社会というものや国家というものの存在にも気づいていきますし、同時に愛や自由や平等などの抽象的な概念にも親しむようになります。つまり、この人間世界に自分の触手を伸ばしそれらの有り様について考えるようになってきます。そうして、自分から見える世界は、その人間界がすべてではないということもわかってきます。

 大震災などに対しては人類は今のところなす術もないというように、災害に対する防備はまだまだ難しく十分ではないでしょうが、それでも現在ではずいぶん人間力も増強されて、人間界に住むわたしたちは自然の猛威からのガード力をつけてきています。つまり、人間世界がわたしたちの大自然から受ける猛威から保護する力を増大させてきました。それは、大いなる自然の下、まだ洞窟住まいや吹きさらしのようなちっぽけな小屋のような建物に住んでいて、大いなる自然の猛威にさらされ続けたであろう人類の初期の頃と比較すれば雲泥の差ということになるでしょう。
 
 そういう人類のはじまり辺りを想像すると、そこから遙か現在までつながる人間の本質というものが抽出できます。人間は、まず猛威と恵みとを併せ持つ大いなる自然に生かされてきたということ、またひとりひとりの人間はこの世界に誕生して独り立ちするまで母や家族などの世話にならないでは生きていけないということがあります。人間は、成長して独り立ちするようになる頃には自分の持っている力を発揮して生きていくのが当たり前というように社会的に考えられていて、「自力」や「自己責任」が社会的には流通している考え方になってきます。しかし、ひとりの人間のはじまりも人類のはじまりも、ともに絶対的な他力(母の世話や人間に先立つ宇宙の存在や大いなる自然の恵み)によって支えられ生かされています。つまり、本質的には人間は受け身の存在です。例えば、人類が遠い未来に本格的に宇宙に上陸してもこの太陽系を抜け出すことができなければ、太陽系の終末とともに人類は終わります。あるいは、太陽系を抜け出し銀河系を旅してもこの銀河系が終末を迎えたら人類は終わります。これはわたしたち人間が、二重の根源的な「他力」によって生かされている受動的な存在だということを示しています。

 しかし、現実的なわたしたちのこの世界での有り様は、この人間界の社会の中、家族や学校や職場などに関わり合いながらその世界がすべての中心であるかのように見なして日々あくせくと生きています。つまり、わたしたちのこの世界におけるあり方の自然さや無意識的なものから考えると、人は誰でもそれらの小さな生活圏での日々の生活に重力の中心があるように生きているように見えます。だから逆に見ると、人がそういう生活圏で弾かれたりイジメを受けたり大きな失敗をしたりすると、もう生きてはいられないというような心性になるのは避けがたいことなのでしょう。

 それでも、その人間界の日々の小さな生活に重力の中心があるとしても、それがわたしたち人間の生存の全てではないということは大切なことです。わたしたち人間が、二重の根源的な「他力」によって生かされている受動的な存在だということは、人間界の日々の小さな生活に直接的に関わってくる問題ではありませんが、日々の生活を内省させるものであったり、あるいは日々の生活の息苦しさにいくらかの風穴を開けるものとなり得るかもしれません。いずれにしても、この根源的な「他力」によって人は生かされている人間存在の有り様は、わたしたちの心の深いところに潜在していて、時に発動されることがあるように思います。

 初期には洞窟やあるいはちっぽけな小屋のような住居で、人間界はまだまだ自然の猛威に対するガードとしては貧弱でした。そこから長い文明の停滞のような時期をたどり、明治近代以降、文明は急激な上昇曲線を描いてきました。工業を中心にした近代の産業の高度化を経て、人間の力が自然を急激に大規模に改変し、現在では地球環境への影響力が云々されるような人間界の力が増強した段階になってきました。

 それと対応するように人間というものが横着になってきているように見えます。ということは、人間の太古の洞窟生活時代の自然に対する感覚や考え方と現在のそれらとは大きな違いがあり得るということになります。

 人間が一般に無意識的であれ横着になってきているということは、これは力を得た者としての自然な感覚かもしれませんが、人間という存在はまた、じぶん自身を振り返り内省することができる存在でもあります。そこで、その横着さを内省し解消することにつながる二重の根源的な他力によってわたしたち人間は生かされている、あるいは生きているというある謙虚さのような自覚は大切なものと思います。この自然に対する人間力を身に付け増強し現代の横着さに到る段階は、文明的な段階としてはギリシアに始まるヨーロッパという文明の起こりと衰退に対応しています。

 現在は、先の第二次大戦以降のいわば内省された世界に当たります。しかし、大戦こそありませんが、世界には依然として地域的な戦争や「テロ」というものが存在しています。つまり「力」で問題の解決を図ろうという考え方が存在します。また、核兵器などの軍事力によって国と国との外交をうまく進めようという考え方も依然として存在します。これらの現状は、人間がまだちいさな集落レベルの社会にあって隣の集落とけんかや交渉をしていた段階から、現在においてもなお人類がそれをうまく解決できていないということを意味しています。さらに現在では、けんかの道具が銃火器や爆発物や戦闘機など文明力と悪意が総動員されていますから、人間社会にいっそう悲惨な状況を引き起こすことになります。

 実践的な思想としてこの世界と人間の有り様について未だかつてないほど根本から深く考察した吉本(隆明)さんは、人間が理想を考え思い描く力を「人間力」と捉えられました。その「人間力」を発揮して矛盾と問題を抱えた現在の有り様をそのまま受け入れることなく人間や人間社会の理想のあり方を思い描くことは、いつの時代になっても大切なことだと思います。さまざまな行き詰まりの問題を抱えている現在は、おそらく今までとは違った新たな段階の社会に入り込んでいるように感じますが、それは依然としてはっきりと描くことのできない未知の段階の渦中にあります。


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