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覚書2020.3.29 ―「病院化社会」についての素人の考察

2020年03月29日 | 覚書
 覚書2020.3.29 ―「病院化社会」についての素人の考察
 
 
 現在では病院に行くのは普通の自然なことになっている。そのことによって、苦痛が軽減されたり、また、助かる命が増加し平均寿命の押し上げにも貢献しているのかもしれない。しかし、表面化することが滅多になくても、医者は命を巡ってわたしたち(患者)とは非対称な権力性の中に置かれている。言いかえると、病院ではわたしたち(患者)は受動的な存在を強いられている。もしその権力性が犯罪として発動されれば、近年病院や老人ホームで起こったような看護師による殺人事件ともなり得る。
 
 病院と言えば、わたしは若い頃から何十年もの間に二、三度病院にかかったことしかない程度だったが、最近大病して助かり、今では毎月通院している。大雑把に言って、薬は別にして、二、三ヵ月通院しなくても大丈夫な感じはしている。たぶん通院者の大半はそんな人々ではないかと思う。これが、「病院化社会」の現在の普通の光景なのかもしれない。
 
 ところで、増大する新型コロナウィルス感染問題の中、現在なお「検査」(主にPCR検査)が問題になっている。「検査」は、一般に医者にとっても患者にとっても、医療(治癒へ)の過程の一場面に過ぎないはずである。しかも、それ以降の医療(治癒へ)の過程へ向かう両者にとって何気ないあるいは切実な一場面である。今回のいろんな医者の発言に、学校では患者との関係の問題を習ったことがあるんだろうけど、わたしたち(患者)の内面を繰り込んだ発言が稀薄な印象がした。それは、具体的に言えば症状の苦しさや新型コロナウィルスに罹ったのではないかとかの不安やたらい回しにされることの苦痛などへの配慮のことである。
 
 例えばある医者は、「結局、どういう時に検査をすればいいのかは2つだけです。1つめは、医者が患者の治療のために必要だと思ったとき。もう1つは、行政が感染者の把握のために必要だと思ったとき。それしかありません。」とツイッターで力こぶを入れたように語っている。患者は医療の主体の一方としてではなく、主体は医者や看護師で、わたしたちは単に医療の対象としか見なされていないように思える。これは「病院化社会」の現在の乾いた精神風景ではないのか。
 
 今回のような未知の感染症の場合、ふだんおそらく自然に行われている一つの医療過程の「検査」が、別の問題に遭遇している。新型コロナウィルスは、正式の治療薬もできていない未知の感染症をもたらすゆえに、普通の医者や看護師とひとりの患者の関係を超えた場面をわたしたちやその社会に強いている。未知の感染症が、〈感染〉ということで社会性を引き寄せ、個別性を超えた社会性(医療チームや行政や国の対応)をも強いるから、ふだんの医療と政治的な医療との二重の医療になっている、ならざるを得ない。
 
 政治や医療は、こんな感染症の場合には、専門的に医療システムを構築し、状況に合わせて流動的にそのシステムを再構築していくのだろう。しかし、オリンピック問題もあり、政府や行政主導のそのシステム構築がきちんと準備され、なされてきたのか大いに疑問である。ささいな例を挙げれば、官房長官がマスクは調達するとひと月前に公式に語っていたのに、ひと月以上経った現在でも依然としてマスクが手に入らない状態が続いている。これ一つを取っても社会的な不安への負の貢献にしかなっていない。第一、この間の様々な問題を巡る政権や官僚の悪行の数々がわたしたちに根深い不信感を与えている。
 
 ネトウヨ含めて専門家(医者など)のツイートなどを見ると現状の医療システムや人員配置を固定的に見過ぎて、そこからの医療崩壊への不安ばかりが叫ばれているように見える。緊急性の高いこんな場合にも、政治家ももちろんだが、医者や看護師にも個(患者)の内面への想像力は必須だと思う。
 
 また、原発大事故の問題の時とは違って今回は世界レベルで新型コロナウィルス問題に直面しているから、情けないことに、海外の対応や政治責任者たちの言動がわが国の貧弱なそれらを相対化し照らし出してもいる。
 
 わたし(たち)は、新型コロナウィルス問題に目や耳を傾けてその実体や対策を知ろうともするが、あくまで医療の素人である生活人なのだから、それに罹らないよう、人にうつさないように、日常的なふるまいに力こぶを入れるしかないと思っている。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 307-310

2020年03月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



307
何気ない大気や風に
揺れる
揺れる揺れるよお おっとっと



308
白線幅のみちをゆく
気軽に
Aとか非Aとか言い出せない



309
「ぼくなんかが根本的に大事におもっていることは、
人間は個人として自由に生きられ自由にかんがえられ、そして不自由がなければいちばんいい
にもかかわらず、社会的にも集団的にも生きなくてはならないということになってしまったということです。」
 
註.309は、吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』より。



310
たくさんの花々みたいに
人の考えが咲いている
人の細道を今日もゆく