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短歌味体Ⅲ 3808-3811 意味は置いといてシリーズ・続

2019年12月17日 | 短歌味体Ⅲ-6
[短歌味体 Ⅲ] 意味は置いといてシリーズ・続



3808
新しい意味の促す
空気感
名前の浮かばぬ十夜二十夜



3809
新しい物は出来上がり
舞台袖に
じりじり出番を待っている



3810
かき分けてぴったり息が合う
「あったかインナー」
意味接続され人散ってゆく



3811
背後では漢字族と
アルファベット族と
いい感じ求めて攻防してる

誰かがやっている

2019年12月17日 | 批評
 誰かがやっている


 吉本さんの長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」に、次のような詩語がある。


「妹」 その「声符(せいふ)は未(び)」
まだ愛恋(あいれん)を販(う)らなかったのに
「姿(すがた)」 その「声符は次(し)」
「それは『立ちしなふ』形であろう」
「立ち歎(なげ)く女の姿は 美しいものであった」



 ずいぶん前に『記号の森の伝説歌』を読んでいて、これは辞書からの引用のようだが、白川静からではないかと『字統』と『字訓』に当たってみたことがある。載っていなかった。たぶん、別の辞書だろうがわからないなということで終わった。

  上に引用した『記号の森の伝説歌』(1986年12月)の「演歌」の部分は、ほとんど同じ形で「メッセージ」という詩(『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』所収 猫々堂)の中にある。『吉本隆明全集20』の解題によると、その「メッセージ」が『野性時代』に連作詩篇63として掲載されたのが1984年1月号。白川静の『字統』が1984年8月に刊行され、『字訓』が刊行されたのは1987年5月。以上のことを調べていたら、白川静の『字統』と『字訓』からの引用ではないなとわかるはずだったが、その論考をなそうという気持ちではなくただ読み味わうという軽い気持ちだったから、そこまで調べていなかった。『記号の森の伝説歌』の発行日から見ても、『字訓』の方は考えられないことになる。しかし、「メッセージ」という詩の掲載時期まではわからなかったかもしれない。また、上記の辞書でないとすれば、図書館にある辞書を当たるしかないけど、そこまでは考えの手を伸ばさなかった。ちなみに、今、わたしの住んでる市の市立図書館のネットによる図書検索システムで検索したら以下の辞書『漢字類編』はなかった。

 高知の松岡祥男さんが、長らく発行してきた『吉本隆明資料集』がとうとう終わった。一読者として、終わってしまったのか、とさびしい思いがした。毎月送られてくる『吉本隆明資料集』を少しずつ読みながら、あ、これは大事だなと思ったら『データベース ・吉本隆明を読む 』の項目作成にも活用させてもらった。今回、購読者に贈られた『吉本隆明さんの笑顔』(松岡祥男、吉本隆明資料集・別冊2 猫々堂)を読んでいたら、上の詩のことが書いてあった。上の詩の部分を引用した後、次のような吉本さんの言葉が紹介されている。なあんだ、そうだったのか、と不明が溶けて少しほっとした。


 誇らし気に言うと、この辞書(『漢字類編』―引用者註)から「姿」という字が、女性のしなう立ち姿からきたのだというヒントをもらって、なまめかしいイメージにショックをうけ、詩作のなかに使わせていただいたことがある。
 (吉本隆明「白川静伝説」)



 吉本さんが白川静について触れた文章は読んだ覚えがあるが、この「白川静伝説」(『白川静著作集』内容見本)は読んだ覚えがなかった。ネット検索していたら、『白川静読本』(2010年3月 平凡社)に収められていた。市の図書館にあったので借りて見たら1Pほどの文章だった。また、ネットに『隆明網(リュウメイ・ウェブ)』があり、その中の「猫々堂『吉本隆明資料集』“ファン”ページ」に、『吉本隆明資料集』の全号の書誌(目次)があるのを知っていたので、ひょっとしたらと思って、その全号の書誌を、愛用しているエディターソフトの「秀丸」にコピーして、「白川静伝説」で検索するとヒットした。『吉本隆明資料集 23』にあった。わたしはその頃はまだ『吉本隆明資料集』を購読していなかった。たぶん現在は、このような「検索」が自然なものになってきている。例えば、万葉集の中のある詩語を調べたいときは、検索ソフト付の万葉集で検索すればいいというふうになっている。ずいぶん手間は省けるようになっている。

 わたしたちは、このように「誰かがやっている」ことによって助かることがある。これは文学や思想の世界に限らず、日常の生活世界にも当てはまることだろう。誰もやっていなければ、自分でやるしかない。それが自然に他者にとって「誰かがやっている」ことにいつかつながるのかもしれない。今度は他者にとって自分が「誰かがやっている」の当事者になるわけである。こうしたことは取り立てて言うことではないにしても、このことも一種の人間社会の相互扶助(無意識的な無償の行為)ではないだろうか。ある行為や表現がたとえお金の関わる経済活動を含んでいたとしても、そのことは言えそうな気がする。