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短歌味体 Ⅲ 721-723 言葉の深層からシリーズ・続

2016年04月03日 | 短歌味体Ⅲ

[短歌味体 Ⅲ] 言葉の深層からシリーズ・続
 
 
721
落ちて来て触れた感じに
湿り気の
膨らみつつ寄せ来る数波
 
 
722
井戸の底乾いていても
音もなく
後ろの気配で寄せ来るばかり
 
註.井戸といえば、私の小さい頃は井戸を利用していた。ひんやり湿って冷蔵庫の役目も持っていた。村上春樹の作品に井戸の描写があったけど、彼は通りすがりではない井戸体験を持っているのだろうか。作品の描写は喩のようだったから井戸体験は不要かもしれないけど。
 
 
723
降って来るみどりの匂い
ほの明かり
背の方から自然と身よじる


日々いろいろ ―「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題から

2016年04月03日 | 日々いろいろ

 羽鳥慎一モーニングショー(2016/03/30)を観ていたら、「食べ放題のイチゴ農園で、イチゴの先だけを食べてポイ捨てするマナー違反が増えているそうです。」とあり、俳優の藤岡弘が大事に育てられたものだから大切に食べなくてはというようなよく耳にするようなコメントをしていた。http://www.tv-asahi.co.jp/m-show/topics/showup/20160330/7255
 
 こんなことは社会がまだ余裕がなくて貧しい時代にはあり得なかったことだろうと思う。わたしもそのことにどこかいい気持ちはしないけど、社会内の格差問題は別にしても、二昔前と比べ余裕のある社会になった現在の自然な行動としての現れではあるだろう。このことは、いろんなことと連動している。
 
 コンビニが、まだ充分食べられる弁当を廃棄したり、イチゴなどの生産者が形良くないものや甘そうでないものを選り分けたりなどなどは、現在では割と自然なことと見なされている。問題は、個の倫理というよりも、例えばイチゴの場合であれば現在における果樹や野菜などの農産物の価値評価の水準と複雑に絡み合っているように思う。
 
 先に挙げたコンビニ弁当であれば、食品の価値評価の現在的水準ということになる。これらのことと「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題とは別問題で、一見関係なさそうに見える。しかし、例えば現在のキュウリの一般的な市場基準では「曲がったきゅうり」は出回らない、劣った価値のものと見なされている。とするならば、生産者も消費者も「曲がったきゅうり」には一般的には興味を示さず、劣った産物と見なしがちだろう。イチゴであれば、青いところがあって甘みが少なければ「食べ放題」ということもあって、すこしかじってポイ捨てしやすいかもしれない。
 
 わたしは家族でバイキング料理店に数回出かけたことがある。ついついあれもこれもになったり、好きな物はたくさん食べたりする。たぶん、わたしに限らず普通の人々もそうではないかと想像する。それに加えて、自分によって食が少し粗末に扱われているようにも感じられて、少し不健康だなと思った。それからは出かけていない。この不健康だなという思いには、わたしから引き出される不健康さとバイキング料理という形式をとる店がわたしたちを誘い出す不健康さという二重性としてあると思う。
 
 したがって、この「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題には、そのバイキング料理みたいな二重性があり、「食べ放題」という運営側の問題もあると思う。だから、簡単に個の倫理として「イチゴを少しかじってポイ捨て」を悪いこととして裁断することはできないと思われる。
 
 わたしたちの自然な行動は、個々として見ずに一般性として見るならば、この列島の住民が築き上げてきた歴史の現在的な姿から来ているはずである。遙か太古から近世辺りまでは人々は大規模な飢餓にたびたび襲われ続けてきた。サツマイモも飢饉対策の救荒作物であり、ヒガンバナの球根も救荒植物であった。現在に到って、先進諸国はほぼ飢餓を脱したと言える。わたしの小さい頃と比べて、イチゴやメロンやスイカなどなど欲するならばいつでも手に入るような物質的な段階に到っている。こういう今までにない未踏の段階で、今までの「食べ物を粗末にしてはいけない」などの飢餓段階での感受や考えや倫理で現在の人々の自然な行動を批判したり否定するのは無効ではないだろうか。(吉本さんもこのようなことを述べていた)つまり、この新たな段階に到った状態の渦中から新たな倫理のようなものを新しく生み出していくほかないと思われる。
 
 ところで、この「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題に対してわたしは、まずは、個々の問題としてなら他人を身体的に傷つけたりするわけでもないしどうでもいいやと思う。イチゴ農園の人々がそのことに精神的な傷を感じたとするなら、これはさきほどの「食べ放題」という運営側の問題とも関わってくる問題でことはそんなに単純ではない。それらの先に、自分ならそうはしないかもしれないというわたしの感じる異和のようなものがあるように感じる。ここから今までの飢餓段階での感受や考えや倫理の残滓を取り除いても残るものがありそうに思う。これは何だろうか。
 
 例えば、自然(十分甘くないイチゴ)を粗末に扱うことは、先に述べた食品や農産物の価値評価の現在的な水準と無縁ではないけれど、一応独立した問題として考えることができそうに見える。自然(十分甘くないイチゴ)を無意識的な価値序列の視線で眺め、粗末に扱うことは、そのようなことをくり返していくならば、その反作用として人間(自分)を粗末に扱うことにつながる。例えば、企業の経営者が、個々の労働者ゆえに会社の経営があるとは見えずに、個々の労働者を粗末な待遇・処遇しかしないならば、その経営者の精神は、元々を含めてさらに粗末な人間認識を強化していくことになるだろう。わたしの微かな異和のようなものは、そのような未知の場を追い求めているように思う。
 
 たしかに、小さいリンゴより大きめのおいしいリンゴは値段もより高い。また、わたしの行き付けのスーパーで180から200円台するような大きさのリンゴを時々98円で安売りしている。しかし、よく見ると形が少し歪んでいたりなどしている。ああ、なるほどと納得する。現在のところ、こうしたことにわたしたちの自然な感覚や感受は異論を持たない。しかし、このようなわたしたちの現在の感覚や意識の自然性を含めて、このささいな「イチゴの先だけを食べてポイ捨て」問題は、未だおぼろげにも形成すことはできないとしても、現在から未来へ向かう人や社会の有り様として、じっくり考えなくてはいけないような大きな問題を含んでいるように思う。

   (2016/03/30のツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)