[短歌味体 Ⅲ] イメージ論シリーズ・続
767
ああ そうか そうだよね 揺れる
バランス
絞り一気に小舟に乗る
768
小舟の乾いた板に
ぽつ ぽつ ぽ
つ滴の落ちて染み渡る
769
ひとりでに進んでゆく
小舟には
青い心の滴拍車を駆ける
子どもでもわかる世界論のための素描
―宇宙・大いなる自然・人間界論
3.世界論の言葉
わたしがこの世界論を「子どもでもわかる」と付したのは、言葉の表現として言葉そのものがそうありたいという願望の表れです。そして、「素描」としたのは、現在は対象とする表現の場に対して「願望」という距離や位置にあり、一気にそのような言葉を行使したいという気持ちはやまやまですが、中継地を経ながらそこに到達しようと試みるほかにないということです。
こうした状況にわたしがあるのは、わたし個人の側からいえば単純で、わたしの力量の不足ということです。もう一つの困難な事情は、この列島の日本語という言葉の問題です。さらに、その列島の日本語を生み出してきた列島の人々の感性や意識の伝統、すなわち論理や世界論などの未熟な伝統しかないという負性があります。もちろん、これは裏返せば自然と関わり合う繊細でゆたかな感性や意識という美点と見なすこともできます。ただ、論理を駆使した世界把握には向いてない言葉ということです。
大きな時間の尺度で見ておそらく単一な流れではなかった「旧日本語」は、文字というものをまだ持たない段階にありました。古代国家成立辺りに、中国から漢字文化が諸文化、諸思想、様々な文物とともに怒濤のように押し寄せてきます。「旧日本語」は、様々な労苦を経て和語と呼ばれる言葉を漢字を媒介にして可視化されていきます。つまり、書かれる言葉の世界に移し替えられていきます。「新日本語」を生み出していきます。そうして、現在わたしたちが恩恵を被っている漢字仮名交じりの書き言葉を生み出していきます。(註.1)
ところで、人の生まれ育った固有の性格と社会生活の中での様々な影響ということと対応させると、その人の固有の性格は様々な枝葉を伸ばしたり、幹が少し変形したりということがあるとしても、つまり外から大きく揺さぶられても固有性の芯のような部分は割と不変のような感じがします。この列島は古代以降近世までのアジア・中国と明治近代以降の欧米と二度の大きな外からの波を被ってきました。しかし、人の固有性の芯の部分の不変性と同様に、この列島の共同性としての感性や意識の核の部分はいろんな変形や歪みを被ってきていてもそれらの二度の大波によっても割と不変であるように思います。つまり、感性や意識の表面層ではなく古層の部分に固有性として在り続けているということです。そのことには、この列島の生活世界と文化・政治世界との二層性、しかもその二層が遠く分離しているという性格が影響しているように見えます。
こうして、この列島の言葉も、二度の大波を潜り抜ける中で、大きな影響や変貌を遂げてきています。固有の核のような部分(註.「ような」というあいまいな表現は、「旧日本語」と呼ばれるものが現在でも十分に明らかではないことからの言葉です)は保持しながら、論理や概念や思想性を接ぎ木したり再構成したりしてきています。固有の核のような部分とアジア・中国やヨーロッパなどの外来性との接続法が今なお問われているように思われます。人に例えれば、その人の乳胎児時期や幼少年期と大人になった現在とをしなやかに行き来したり、それらを総合的に結びつけた何らかの表現をするというような接続法の問題になります。
その接続法で言えば、例えば柳田国男の場合は、欧米の論理性の影響を潜めてこの列島の言葉に深く棹さした言葉と言えますが、わかりやすい論理性が乏しく見えます。それでも、膨大な収集と吟味を通して言葉や精神の層を段階を追って追究していく姿勢には、この列島の言葉を最大限に駆使して筋道立てようとする強い意志を持った言葉の印象を持ちます。さらに、柳田国男は子どもの世界やその言葉にも深い関心と洞察を持っていて、そのことが逆に柳田国男の言葉の深さを象徴しています。
また、中沢新一であれば、いろいろ啓蒙されることがありますが、ポストモダン的なカッコつけた文体がその言葉の在所を語っているようで、わたしはまだまともに取り上げたことはありません。しかし、こうした接続法は、専門の学者や思想家に限らず、言葉という表現の世界に参入する人々には問われていることです。いや、全ての芸術・文化・思想の表現の分野で問われていることです。
例えば、「世界内存在としての私たち」という言葉は、ドイツの哲学者ハイデッガーの言葉ですが、これと「この世界にわたしたちが生きてある有り様」とは同様の言葉の表現に見えます。しかしこの列島の言葉では今なお、前者を突き進むと知識・文化上層へ、後者を突き進むと生活世界へというように、突き詰めていけばそれぞれ分離された層に収束して行きます。わたしたちは、各局所系(分離層)に収束することなく、すべてを柔らかく包み、その二つの分離層を自由に行き来できるような普遍の言葉を獲得することを促されています。
ほんとうは、子どもでも十分にわかるようなやさしい言葉で書き表したいという欲求はわたしだけではないと思います。以上に述べたような複雑な事情が、そのことを今なお困難なものにしています。それでも、それは日々目指されるべき柔らかな未知だという思いがわたしにはあります。
(註.1)
旧日本語と新日本語のことに関しては、吉本さんの苦労されただろう考察があります。
(A081 「古い日本語のむずかしさ」(講演テキスト)、フリーアーカイブ『吉本隆明の183講演』「ほぼ日刊イトイ新聞 」)