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ファッションについてのメモ―鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』を読んで

2018年09月03日 | 批評

ファッションについてのメモ
  ―鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』を読んで



 鷲田清一の『ひとはなぜ服を着るのか』を読んだ。
 鷲田清一は、哲学を専攻していたということは知っていて、朝日新聞に載っている「折々のことば」でなじみがある程度だが、吉本さんの鷲田清一の本(『モードの迷宮』)の書評 https://allreviews.jp/review/824 がきっかけでこの本を読んでみた。

 まず、哲学を研究していてファッション論というのはちょっと意外である。もっと正確には、旧来的な哲学のイメージや旧来的な知の感覚からの視線では、意外であると言うべきである。鷲田清一は、「はじめてファッションについて論じたとき」の周りの知の視線について記している。


わたし自身が―わたしは大学ではいちおう西洋哲学・倫理学の教師として講義をしている―哲学者でありながら、ファッションについて文章を書きだしたときには、相当な抵抗があった。抵抗といえばかっこいいが、要するに侮蔑され、冷笑されたのであった。わたしがはじめてファッション論を書いたとき、哀しい想い出だが、哲学の恩師のひとりに、ファッション雑誌の言語分析をしたロラン・バルトの『モードの体系』のことを言うふりをして「世も末だな」と言われた日のことはいまも忘れない。
 (『同上』「はじめてファッションについて論じたとき」 P277-P278)



 哲学が、この世界の渦中での人間的な諸活動や行動について本質的に考えるものだとすれば、ファッションについて論じてもなんら的外れではない。しかし、純文学同様に哲学も旧来的な威勢の良さを失ってきているといっても、いろんな分野において旧来的な感覚や考え方の残骸が現在でもまだまだたくさん残っていて、学問世界に拘わらず、人間社会でも誰もが日々当面している問題だと思う。哲学や純文学の凋落と大衆文学(エンターテインメント文学)の隆盛というような過程は、言葉が、凝り固まった局所性を打ち崩して総合性としての人間にさらに近づき人間的な課題に真に包括的に答えようとする過程のように見える。これは言葉の主流の振る舞いのように見える。

 本書の記述や本の紹介によれば、ファッションを服飾等の分野としてではなく、人間的な表現や思想として取り上げ論じてきているのは西欧、特にフランスだったようである。鷲田清一は、ジャン・ボードリヤール(消費社会の分析をした人とか名前しか知らない)のファッションに関する言葉も援用している。そのせいか、本書の文体は、日常の身近な気づきを織り込みつつも少しポストモダンがかった言葉になっている。

 鷲田清一の文章からいくつかひろい出してみる。まず、ファッションが万人の日々の生活に関わるものとして、さらにそれがわたしたちの世界との関わり方を示していたり、関わり方を変えたいという欲求の表現(スタイル)でもあると把握され、つぎのように描写している。


ひとはこうした感受性のモード(様相)を、センスだとかテイストと呼ぶ。今日、ファッションはそういう感受性のモードをひとびとのあいだでもっとも濃(こま)やかに確認する媒体となっている。あのひとの生き方、あのひとのふるまい方、あのひとの感覚・・・・・・そう、ファッションとは生存と感受性のスタイルのことだ。
 服の趣味、ネクタイやトランクスの好み、眉や髪のかたち、眼鏡やバッグの型といった身体の表面だけではない。心地よい音楽、壁に貼るポスター、ベッドのシーツ、お気に入りのアーチスト、買い置きのドリンク、行きつけのバー、休日に乗り回すバイク、ひとのネットワーク。それら身体環境のすべてがファッションの構成要素となりうる。じぶんが身体を浸す空間の雰囲気、その感覚的な様相がファッションなのである。その様相の感覚というのは、時とともに大きく揺らぎながらも、それじたいとしては想像以上に緻密である。
 (『ひとはなぜ服を着るのか』 P253-P254 鷲田清一 ちくま文庫)


もういちど言おう。化粧、着衣、装飾。ファッションとは身体の表面の変換作業である。そして、身体がわれわれの感覚媒体であるかぎりで、ファッションは世界との関係のモード(様相)変換そのものを意味する。その意味で、ファッションとは感受性のスタイルであり、そのたえざる変換として定義できる。じぶんの限界を超えたいという欲望が、ファッションという都市の表面に鳥肌が立つように浮き立つのである。
 (『同上』  P256)



 この鷲田清一のファッションの捉え方―そのどこまでが西欧のファッションの捉え方の影響で、どこからが鷲田清一独自の考えかを区別することはわたしにはできないが―からすれば、わたし(たち)はなんと貧しいファッションのなかに埋没していたのだろうという思いがする。わたしの場合はファッションというものに大して気を配らず無頓着であった。今もそうした状態にさして変化はない。中学校から高校までは一日の大半が制服という事情もあるが、大人になっても男は特にそんなに積極的にファッションに関心を示さないというのが一般的な社会だったように感じている。

 ところで、「ファッション」という言葉は、わたしの耳の記憶や歴史の中では日常生活から外れたものとしてイメージされる。現在ではわたしたちの日常生活の中に根を下ろしていて、その言葉に異和感や場違いだという意識はなくなっている。それだけわたしたちの生活や社会が以前より豊かになり余裕も出てきたのだろう。別の言い方では、大きく変貌して十分に西欧化されてきたと言ってもいい。

 わたしが育ってきた昔の感覚では、「ファッション」などに凝るのは「不良」のイメージが強い。二昔前には、社会的なイメージとしては、服や頭髪などの「ファッション」に凝ってエレキギターを弾いたりするのは、「不良」のイメージだった。振り返れば、あっという間に社会の様相が変貌してしまった。もちろん、いい意味であり、ずいぶん開放的で自由になったと思う。それはわたしたちのアジア的なものの中から生まれ出たのではなく、残念ながら外来の西欧的なものの滲透が促したものだと思う。そうしたことと対応するように鷲田清一が上に述べているような人間的な表現や活動としてのファッションということは、わたしたちに異和感なく受け入れられるようになった。この鷲田清一のファッション概念によれば、芸術や文学の表現もファッションの表現も人間的な表現として同一の地平で見わたせるようになっている。本書はすぐれた考察だと思う。

 従来なら、例えば文学の領域からファッションの世界を眺めたら、ちょうど文学自体の中で純文学と大衆文学とが価値序列の中にあったように、ファッションの世界を自分たちの文学的な表現と同列の人間的な表現という見方は一般になかったと思われる。ファッションは表現と見なされず文学より劣ったものと見なされていたと思う。それと対応するように、ファッションの世界の中でも自分たちの作り上げるものを表現や作品であるという意識は薄かったろうと思う。こうして現在の芸術や文学の表現もファッションの表現も人間的な表現として同一の地平という捉え方が割と人々に受け入れられやすい状況になってきた。

 昨日、9月2日(日)のテレビ番組『情熱大陸』は、ヘアメイクアーティストの活躍の番組だった。偶然途中から観てしまった。ファッション論であるこの『ひとはなぜ服を着るのか』(鷲田清一 ちくま文庫)を読み終えたばかりだから、なおさら興味深かった。しかし、顔に化粧を施したりしていくのを見ていて、女性には普通のことかもしれないが、男のわたしからはそこまでするのかという印象だった。つまり、そんなことにまで細かく心配りするなんてめんどくさいなあという感じだった。


 次に、私の関心に沿っていくつか抜き出してみる。



 そう言えば、顔というのは不思議なものです。じぶんの印というよりじぶんそのものであるのに、その当のじぶんには絶対にじかには見えません。じぶんからは無限に隔てられています。その顔に、他人は語りかけ、反応してきます。わたしの顔はまずは他人にたいしてあるのです。
 服にもそういう面があります。服というとすぐ「センス」が問題にされますが、それは〈わたし〉の自己表現であると同時に、いやそれ以上に、他人の視線をデコレートしたり、他人の存在を迎え入れたり、ときには他人の存在を拒絶したりもする、そういうそのつどの他者へのかかわり方の様相(モード)のことを言うのではないでしょうか。衣服はじぶんだけのものではないのです。他人を拒絶する場合でも、他人が唾を吐きかけそうな服をわざと身につけることによって、そういう姿勢を他人に向けてしめすのですから。(『同上』  P161-P162)



関係が顔にとって本質的であるというのは、理由がある。じぶんの顔は、じぶんでは見えない。じぶんの顔は、じぶんの顔をまなざす他人の顔のその変化を見ることで、わたしが想像するものでしかない。つまりわたしの顔じたいが、他者の顔を介してはじめて手に入れられるものであるのであり、他者の顔についても同じことがいえるのだから、本質的に顔は関係のなかにあるのであって、けっしてそれだけで自足している存在ではないわけである。(『同上』 P168-P169)



 化粧とは顔の表面の造作を演出することだと言えるが、しかし化粧を見る側からいえはそうなるが、化粧する本人からすれば造作がどう変わったかほんとうはじかに確認しようがない。じぶんの顔はじぶんでは絶対に見ることができないのだから。つまり、化粧するときひとは、ほんとうはじぶんの空想的なイメージと戯れているだけなのだ。わたしたちはいつも、じぶんが想像するものを真似ているだけなのである。(『同上』 P178)



 自分の「顔」も「服」も「化粧」もその全体を自分が見渡すことができないということ。したがって、それらは本質的に関係のなかにあるというふうに鷲田清一は捉えている。こういう自分の顔や化粧や服を自分では直接見わたせないと言うことは、たぶん誰もが気づいたり思ったりしたことがあると思うが、そういう万人に当てはまる感覚や感受を思想に取り込むことはとても大切なことだと思う。この件に触れている箇所がある。


ファッションこそ他人がじぶんにたいして抱くイメージ、じぶんがじぶんをそこへと挿入するセルフ・イメージのモデルを提示するものだからである。
 ファッションにどうしてそんな力があるのか。ファッションは、ひとがまぎれもないひとつの身体として他人たちのあいだに現れでるときの、その様式を意味するからだ。そして、ここが重要なのだが、そういう身体の存在そのものが当の個人にとっては、物ではなくイメージというレヴェルでしか確証できないものだからである。わたしは他のひとたちが見るこのじぶんの顔をじぶんではけっして直視することができないし、じぶんの髪型もからだ全体のシルエットもふるまいの型もじぶんではじかに確認することはできない。じふんで見たり触れたり聴いたりできる身体のいくつかの部分、他人の眼が教えてくれるもの、鏡や写真の映像・・・・・・それらの断片的な情報をまるでパッチワークのようにつぎはぎしながら、想像力の糸でひとつの全体像へとじぶんで縫い上げるよりほかに、じぶんの身体全体にかかわることはできないからである。そう、他人がわたしにたいして抱くイメージとどんなずれがあるかをも勘定に入れながら、ときに深く傷つきもしながら、おそるおそるみずからの身体像をかたちづくってゆくしかないのだ。
 そのようなセルフ・イメージは、わたしたちが「共同体」のなかに深くはめ込まれて生きているときには、なにか確固とした枠組みのなかで思い描くことができたし、またそうしかできなかった。が、今日、わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず、生まれてすぐに「社会」というもののあらゆる象面に接続され、そこに深く組み込まれてしまう。ひとりひとりの存在様式は、外見やふるまいの様式をそのつど選択し、わがものとしてゆくなかで、つまりは「社会」の広大な神経組織のなかで編まれるしかない。そのモデルをファッションが提供してくれる。(『同上』 P254-P255)



 ここでは、単に現在的な状況だけが切り取られて語られているわけではない。太古の「わたしたちが『共同体』のなかに深くはめ込まれて生きている」状況もきちんと踏まえられている。過去や太古は、形を変えながらも現在に深く潜在しているはずである。したがって、あらゆる思想や論考は、単に現在のみを切り取るのではなく過去や太古における人間の振る舞いも考慮に入れる必要があると思う。いわば、現在まで歩みたどってきた人類の総合性において考えることが、その思想や論考を普遍的なものにすると思われる。

 例えば、人間は自分の顔や姿を直接的に全体を見ることができないが、鏡を用いると間接的ではあれ自分を見渡すことができる。この「鏡」というものは現在では、辞書の「人の姿や物の形を映し見る道具」という機能性で捉えられている。初めて鏡に触れた子どもなら、また別様の感じや感覚を持つのかもしれない。

 鏡には「水鏡」という言葉もある。その言葉ができたのは新しいかもしれないが、鏡が普通の人々に普及する前は、その水鏡を用いて自分の姿を見ていたのかもしれない。また、祭りの化粧などでは、互いに他人の化粧を施し合って、他人の姿から自分の姿を想像していたのかもしれない。歴史の具体のイメージを肌合いで理解するのはむずかしい。しかし、おそらく現在の同様の振る舞いの中にも太古の姿は保存されているような気がする。

 鏡は、古事記の天岩戸の場面にも登場するし、三種の神器の一つと言われる八尺鏡(やたかがみ)も古事記に登場する。また、「中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」には239年魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜した」とする記述もあるという。つまり、「鏡」に対する意識は、太古の宗教性を帯びたイメージや視線と現在の機能的な視線というように大きく違っている。しかし、鏡が広く普及してくるとそういう宗教性を帯びたイメージや視線も少しずつ薄らいできた。鏡ひとつとっても、このようなイメージと視線の変位がある。たぶんふるいイメージや視線は、わたしたちの意識の深い層にしまい込まれていると思う。このことも現在のイメージや視線に何らかの形でくり込んで考えるべきだと思われる。


「ネトウヨ」考 (3)

2018年03月31日 | 批評
「ネトウヨ」考 (3)




 現在のわたしは、社会の風俗や流行や諸現象について疎いから、この「ネトウヨ」考 (3)で今から行うような分析や考察にはほんとうはわたしは不向きかもしれない。しかし、現在の「ネトウヨ」現象が主にバーチャル世界であるとしても或る負性としての社会的な場所を占めていて、わたしたちもそれとは無縁ではあり得ないという一般性も持っているから、わたしとしても「ネトウヨ」についても触手をのばさざるを得ない。

 どんな局所にも〈現在〉は同質なものとして現象するはずだという確信をよりどころにして、主にツイッターという狭い世界での体験をもとにして考察してみる。ツイッターというSNSで観察していると、避けようもなく「ネトウヨ」にも遭遇する。わたしはやりとりしたことはないけれど、「ネトウヨ」の中にもいくつかの層があるようだ。ツイッターなどのSNS世界に入り込んでいる者は、たぶん、以下のような層分類について、それぞれいろんな具体例を思い浮かべることができると思う。なぜなら、わたしは具体例を想起しながら層として分類抽出しているからである。しかし、大ざっぱな分類ではある。(ちなみに、後で何かの「資料」になるかもと、ツイッターで遭遇した「ネトウヨ」をInternet Explorerの「お気に入り」に「ツイッター3資料」の項目で採集している。目下240件閉じ込めている。)


1.従来からの「極右」と呼ばれていたような層。古くさい復古思想を古くさく崇拝している。これは若い世代ではないだろう。

2.盲目的なオタク趣味に熱中するように「ネトウヨの大将」を崇拝する「ネトウヨ」信者。古くさい復古思想と言うよりも、少し垢抜けて現在の軽めのオタク趣味の感覚を持っている。

3.「学者」「経済人」や「文化人」などと呼ばれる層。これは亜ネトウヨとも呼ばれるべき層。つまり、知的・論理的な装いを持っている。古くさい復古思想はほとんど見かけない。ただ、どのような経済的・精神的利害関係があるのかは知らないが、この層も政権擁護が著しい。


 いずれにしても、これらの全部の層について一般的に言えることは、いわゆる日常世界の常識が通用しないこと、生活世界での普通の会話が成り立たないことである。ネトウヨの大将と同じく平気で嘘をつく。事実の改竄もねつ造も平気でやる。彼らの言葉を目にすると昔テレビでオーム真理教の信者たちを目にしたときのような、奇妙な夢幻感にわたし(たち)は包まれる。この三つの大ざっぱな層分類の中で、わたしのイメージに過ぎないが2.の層が大きな割合を占めているような気がする。また、この1.から3.の「ネトウヨ」に批判的な「保守右翼」思想にも二三出会ったことがある。これは旧来的な常識としての節度を持ったものだろう。しかし、現在のSNSの仮想世界で主流を占めている「保守右翼」は「ネトウヨ」である。

 かれらにもわたしたちと同様の生活世界があるはずだから、普通の生活の場面では憑きものが落ちた状態で生活したり、あるいは憑かれている状態をセーブしているのかもしれない。例えば、職場や近所付き合いや町内会などで、排外主義的な言葉を吐いたり、アベそうりはすばらしいです、とか言えば、場違いであるということは当人たちにもわかるはずだろうと思われるからだ。

 時代の大きな過渡期には、個としても集団としても、現在を過去の方に押し戻そうとする心性と未来の方に突き進めようとする心性との、対立的な状況が起こる。その小規模なものとして、新しい器具や道具の登場、例えばケイタイ(スマホ)の登場と利用が始まった時期のケイタイ初期の人々の反応がある。おそらく時代の流行や先端にいる若者を中心として進んでケイタイを受け入れ利用するのに対して、老年世代などはケイタイの使用に抵抗を示したのではなかろうか。ケイタイ(スマホ)がずいぶん普及して、こりゃあいいということが実感されてそれらの初期の対立は解消された状況になっているのだと思う。こうしたことは、今までに何度もくり返され、今後もくり返されていくものだと思う。こうした過程で、時代や流行に反発して退行する心性は、それらから疎外されたり取り残されていると感じるだろうから、被害性と攻撃性とを帯びやすい。

 ところで、現在の日本会議等-安倍政権-ネトウヨ応援団というような組織性は、この戦後に限っては未だかつてなかった政治の組織性である。さらに、これらは組織的に現政権や安倍晋三よいしょや誇大宣伝活動や作為的な虚偽のばらまきなどにも力を入れているように見える。またややこしいことに、現在の欧米中心のグローバリズム、新自由主義を受け入れつつ、退行的、復古的なイデオロギーにイカレている。ちょうど、戦前と同様にグローバル資本主義の現在と超復古主義のイデオロギーとが、まるで現在を享受しつつオタク趣味にふける心性のように、矛盾なく二重化している。

 国会議員や地方議員、芸能人や宗教界などあらゆる分野にはびこっている日本会議等の威力のほどは知らないけれど、それらの復古的な思想やイデオロギーの影響下に現在の安倍政権とその取り巻きの「ネトウヨ」が存在する。この集団的なイデオロギー反応は、先に述べた時代の過渡期への二つの反応のひとつである。しかも、時代の変動を過去の方に押し戻そうとする復古イデオロギーである。わかりやすい例えを使えば、全自動洗濯機や自動運転の車があるとして、洗濯板や荷車を使うように言ったり強制しようとする考え方である。しかも、自分たちだけは現在の文明のそのような恩恵をちゃっかり享受しながら、わたしたち普通の生活者には主に観念としての洗濯板や荷車を強制するものである。

 ずいぶんと欧米化が進んで、社会の隅々やひとりひとりの意識にまでその欧米化の影響は、浸透してきている。しかし、おそらくその欧米化は私たちの意識の深層にまでは十分に到達していないのではないかと思う。このような時代の内面に対する危機感から、後ろ向きに押し止めようとする心性を組織したものが、日本会議等の復古的な思想やイデオロギーである。それは、現在のグローバル資本主義には無批判でも、進行している社会的な心性(マス・イメージ)の変貌に対する、心の奥底のわけのわからなさから来る恐怖感や危機感を集団的に表出しているものである。したがって、それが現実的にもはやあり得ない空想的なものであろうとも、現在の国家・社会をかれらのふるほけたイメージで改革・改造し自らの不安や危機感をなだめようとしている。

 普通の生活者の視線や感受では、「ネトウヨ」は異様に見える。しかし、生活世界では普通の人でも宗教やイデオロギーにとり憑かれると(もちろん、本人たちは取り憑かれているなどとは微塵も思っていないわけだが)、誰でも「ネトウヨ」になれる。この宗教やイデオロギーの威力は、現在でも依然として強力であり、外部から語りかけても、あるいは生活世界の言葉を投げかけても、一般に交通は成り立たない。彼らから憑きものが落ちるのを待つほかにない。

 現在、あらゆる分野で問われているのは、わたしたち生活者としての言葉であり、口先だけや単なる枕詞ではなくわたしたち生活者を第一とする政党、政治、経済である。また、大多数の普通の生活者の感じ考え方をくり込んだ知識である。一言で言えば、局所的にしかあてはまらないとか局所的な利害を突き抜けた普遍を目指す、知識、政党、政治、経済である。現在はまだ、それらへの端緒でさえつかんでいない。したがって、局所的な経済的・精神的利害のぶつかり合いを避けられない状況にある。

 ツイッターで見ていると、「ネトウヨ」がネトウヨの大将の名前をときどき間違えるのを目にすることがある。「安倍晋三」を「安部晋三」などと書き間違う。これをフロイトの言い間違いの研究のように有意味なものとすれば、彼ら「ネトウヨ」をとらえているのは、私人公人併せ持つ、すなわち生身の安倍晋三総理ではなく、単なる記号やイメージとしての「アベシンゾウ」なのではなかろうか。「アベシンゾウ」を支持したり、崇拝的に持ち上げることに、自らの精神的な支えや生の充実感を見いだしているように見える。それは生身の「安倍晋三」ではなく、いわば少し垢抜けたオタク趣味的に変換された「アベシンゾウ」イデオロギーに憑かれているのであろう。そこでは、時代の移り行き中での自らの内なる奥深い不安が仮想的に解消されているのだろう。

 以前、この国の古い段階の国家・社会に対する感覚や意識が現在にまで残存していることを取り上げたことがある。以下の文章である。

「現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子」(2017年02月25日)
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/bf20f94e082c7255c1528b754624851d


 このようなわが列島社会の住民の社会も国家も未分離な意識については、吉本さんも敗戦そしてその後の西欧の国家と社会観に触れて衝撃的に感じたと語られていた。
 現在の「ネトウヨ」的な排外主義の紋切り型のイデオロギーの破片もその空虚な言説も、あるいは民主主義的な考えも、いずれもこの列島社会に十分に根付いたものではない。我が身を振り返っても、いずれも社会も国家も未分離な意識が裏側に張り付いているように感じる。

 この現下の「ネトウヨ」の問題は、ふたつ問題性を提起する。この列島社会の住民は、意識の表層から中層にわたってずいぶん西欧化されてきたとしても、まだまだ深層にまでは西欧化の波は十分に届いていないこと。それは深層とどういう折り合いをつけるだろうか、つけたらいいだろうか、という問題がひとつ。

 もうひとつは、それとも関わるが、この国家・社会の未分離意識は、西欧社会的な視線からすればまったくの負性にしか見えないかもしれないが、逆に言えば、わたしたちこの列島民は、自らの生活世界から国家などの論理世界に遠く旅立つことが不得手で、なんでも生活世界の方に引き寄せたり、地続きで考えるという心性と理解することもできる。これにまったくの負性ではなくいくらかの積極性を持たせて考えることはできないかということがふたつ目である。

 たぶん、「ネトウヨ」ふくめて、ほとんどすべての人々が、(人は、気ままに豊かな生活をできるのが理想と思う)ということを認めるだろうと思う。このことと、わたしたちの国家・社会の未分離意識ということを合わせて言えば、わたしたちは、町内での生活や町内会での話し合いのように、町内(社会)の問題のみに限り、町内(社会)の問題に関わる限りで行政や国家に言及し、国家間の外交などの町内(社会)を超えたものについては留保する、語らない、という倫理を意識的に持つべきだと考えている。大多数の人々が、局所的考えをそれぞれに持ち互いに対立し合うという現在的な段階ではなく、いつかある普遍の考えを持つようになる段階への過渡として、無用な対立を避ける意味でも、こういう意識的なあり方はいいのではないかと思っている。それと同時に、現在までこの列島の生活社会に培われてきた、お互いに配慮し合い、お互いに助け合う(相互扶助)という今では廃れてしまったように見える気風を磨いていかなくてはと思っている。たぶん、この現在の社会のいろんな所で、そのような試みを実践している人々がいるような気がしている。

 現在は、町内(社会)の問題をはぐらかしたり、その矛盾を隠蔽するために、北朝鮮問題や韓国や中国が持ち出されているように見える。テレビが専門家なる者を招いて頻繁にそれらの話題を振りまいているが、ほんとは、わたしにとっては北朝鮮問題や韓国や中国なんてどうでもいいのである。日々の生活にほとんど無関係である。ただ、たぶん同じ出アフリカのわたしたちと同じような、それぞれの国の内に生活している人々については、興味関心を持ち、思い巡らすことはある。

 また、人がこの世界のことを思考の対象にして自由に考えるという世界では、あらゆる境界を超えて、自由に思い巡らせればいいと思う。わたしもそうしている。
 (おわり)


 ※「ネット保守」(ネトウヨ)の人口や出自については以下に古谷経衡氏の考察がある。
「都知事選で見えた『ネット保守』人口=250万人」 古谷経衡 2014/2/10
 https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20140210-00032514/



 ※「ネット保守」(ネトウヨ)に関して、以前、古谷経衡 氏の本を読んで文章を書いたことがある。
 『若者は本当に右傾化しているのか』(古谷経衡 2014年)を読む 2015年03月12日
 http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/42ecb0cb20511b4401396bd2048b63e5

 

 


「ネトウヨ」考 (2)

2018年03月25日 | 批評

「ネトウヨ」考 (2)



 もう一度、おさらいするようにたどり直してみる。まず、「ネトウヨ」を前回拡張して「ネット保守」以外にも適用してみた。この拡張版の「ネトウヨ」は、ネット社会やSNSがもたらした負性ということは確かなことである。つまり、従来なら自分の内心でぶつぶつつぶやくかあるいは知り合いに話すかしかなかったような、人の内面や社会の片隅にしか存在し得なかったようなものが、ネット社会やSNSによって仮想空間に引き出されてしまった。ということは、従来の親しい知り合いや小社会で話す場合なら何らかの抑制や倫理が発動するはずのものが、バーチャル空間の匿名性も加わったため自分の内心にある毒を含むような言葉をつぶやく歯止めの解除キーが容易に解除されるようになり、ネット社会やSNSによって連結された仮想空間に放出されてしまう可能性を持ってしまった。しかし、ネット空間でも生活世界での普通の対人関係のように、何らかの抑制や倫理を発動している人々もあれば、虚偽やねつ造や罵詈雑言を放ち、毒ある言葉に憑かれている人々もいる。しかし、可能性としては、対象に対する仮想的な近距離感と匿名性の下に、従来であれば個々の内心に閉じ込めていたようなことを、誰もがやすやすと放出できる可能性を手にしたことになる。

 こうした事態は、拡張版の「ネトウヨ」、すなわち、わたしたちすべてに関して到来している新しい事態である。ほんとうは、「ネトウヨ」=「ネット保守」に限定して、別の新たな概念を当てた方がいいと思うが、ここでは「ネトウヨ」的な状況が「ネトウヨ」に限定されるものではなく、わたしたちすべてがそのような可能性を持っているということで、ここでは拡張版「ネトウヨ」として論じることにする。

 わたしはケイタイやスマホを持たないのでその使用の内面をよく知らないのだけれど、人々がケイタイやスマホの利用に慣れ親しんで、マナー含めたその利用の仕方のある形をそれぞれが築き上げてきたように、ネット社会やSNSによって仮想空間(仮想社会)に結びつけられたわたしたちは、その仮想社会での仮想的な生活行動をしていく中でのある倫理のようなものをそれぞれが築き上げていかなくてはならないだろうと思う。つまり、わたしたちはネットという仮想空間に仮想的に参入しているわけであるが、その本体は生身の人間であるのだという自覚過程をたどらなくてはならない。今はまだ、残念ながらその過渡期、途上にある。そして、従来からの生活世界での人間関係における配慮や倫理などの持ち込みが一般的なのだろうと思う。しかし、その一般的な感覚は、それを無視する「ネトウヨ」的なものの氾濫にある戸惑いを感じているように思う。わたしたちは、従来からの一般的な配慮や倫理の感覚から「ネトウヨ」的なものの氾濫を潜り抜けて、現在という新たな事態に即応する、より新たになった形の配慮や倫理の形成を促されているのだろうと思われる。


「ネトウヨ」考 (1)

2018年03月13日 | 批評

 「ネトウヨ」考 (1)

 


 「ネトウヨ」は、「ネット右翼」の略だろうが、ネトウヨには軽蔑的な意味合いも込められている。一方、ネトウヨは、自分に反対するものは何でもかんでも左翼(「パヨク」)と呼ぶ。また、全部が全部とは言わないが、ネトウヨの大将を初めとしてよく嘘をつく、事実をねつ造する。生活世界では普通を装って暮らしているのかもしれないが、このような者たちの登場はわたしの想像外にあった。

  わたしも軽蔑を込めたものとして使っている。なぜそうなのかははっきりしている。わたしは生存感覚として、自己を放棄して何か大きなものにすがりついたり、その虎の威を借りて自分を強く見せようとすることが大嫌いだからである。これを理屈づけして言えば、現実の具体性を持った日々生活している他者(翻って自己)を虚構のイデオロギーやイメージで裁断する。憎悪をまき散らす。そのような存在を許すことはできない。

  このような存在が、清濁併せ持つ生身の具体的なひとりとひとりの人間存在を、他者を、ということは翻って自分を、大切にできるはずがない。こうした人々が学校のクラスの話し合いや町内の話し合いでそのままで話が通じる相手にはなれないのは明らかである。普通の話し合いでは仕方ないなとか思いつつもだいたい八割程度の人々が受け入れるような結論に落ち着く。しかし、「ネトウヨ」がそのままの形で話し合いに入ったら、話し合いそのものが成り立たないと思える。「ネトウヨ」というこの新しい事態について少し考えてみたい。

  まず、わたしは「左翼」も「右翼」もソ連崩壊後は死んで亡霊になっていると思うから認めない。もちろん、現実性を持たない思い込みの亡霊としては認めよう。なぜこういうことを断るかと言えば、相変わらず「左翼」や「右翼」という対立に持ち込むことによってこの社会に湧いてくる問題の本質が隠されてしまうからである。だから、わたしはいくらか問題性を含むかもしれないとしても、つまり、そういう立場が矛盾を呼び込むかもしれないとしても、徹底して生活世界の中にこだわるし、その外の他国との外交や「安全保障」などにはほとんど興味・関心はない。すなわち、外国に住むわたしたちと同様の地域住民の生活ぶりやその風俗習慣などには強い関心を持っているが、わたしたちの日々の生活に直接関わってこない、国家組織としての外国などにはほとんど関心がない。それはもう、ほんとうにそうとしか言えない。ただ自分より遠いところにあるというだけで、それに対して知的な興味や関心を持つということがわたしにはほんとうにないのである。

  他国との付き合いは、担当機関や政府ができるだけ平等に、互恵的に、うまくやろうと努力すればいいさぐらいで、わたし自身はあまり考えないことにしている。あるいは、「左翼」も「右翼」も存在として認めたとしても、わたしたちが生活世界に降り注ぐ諸問題を生活者としての視点から考える場合には、「左翼」も「右翼」も「知識人」も、さらには課長も社長も、あらゆる立場や肩書きのその上着を脱いで、ただの生活者として登場しなくてはならないと思う。これは、どれほど現実的な有効性があるかはわからないけれど、また、建前としては受け入れられやすいかもしれないけれど、無用なイデオロギーなども絡む対立や閉鎖性を避けるためのわたしなりの現在的な処方箋である。

  問題の本質とは、わたしたちが、この社会に個として、家族として、あるいは共同のつながりとして日々生活している中で、それらの生活を阻害(そがい)するように問題化してくることにある。そして、それらの諸問題は、各地域の行政や中央の政治・行政が、きちんと対応できているならわたしたち生活者住民としては文句はない。平穏な日々の生活こそが一番なのだ。したがって、イデオロギー(集団思想)を身にまとわずとも、この社会内に日々生きて問題も感じている自分の頭で考えれば良いことである。しかも、イデオロギー(集団思想)を身にまとえば、社会の具体性を超えたものを呼び込むことになる。現在のところイデオロギー(集団思想)は、誰もがそう考えるほかないというひとつの普遍思想(宮沢賢治のイメージした「ほんたうのこと」)ではなく、いずれも局所把握的であり、それぞれが対立的な形でしか存在できない。

  イデオロギーの良し悪しは別にして大まかに捉えれば、現在の社会の動向から退行しようとするか、社会の動向を前に推し進めようとするか、このふたつの傾向性がある。しかも、いずれも普遍性を装っても局所的、局所利害的(一部の層の利害追究)であるほかない。そして、イデオロギーというモビルスーツを身にまとうと、人は生活世界を抜け出してしまう。感情も硬直する。血は流れていてもいわば亡霊のような抽象的な存在になってしまう。日常の生活感覚や内省を遮断してしまう。新たに登場したネット社会を背景に、そのように振る舞う存在がいる。わたしは、このような存在を指して、「ネトウヨ」と定義する。「ネトウヨ」は「ネット右翼」の略称と見なされているが、もっと拡張された存在として捉えることができると思う。すなわち、生活の具体性を拭い去り抽象化された匿名的な存在として振る舞う、ネット社会を背景とした存在である。このような抽象的な存在は、国家とかイデオロギーともオタク趣味の延長のようにして容易に結びつく。たぶん、自己の万能感とまでは言わないが、卑小な日々の自己の拡大・拡張感を感じていることは確かであろうと思う。

  そうしてわたしは、そのような「ネトウヨ」は、「ネット右翼」だけに限らず、この新たなネット社会がわたしたちにもたらした利便性や世界の拡張の裏に張り付いた問題性として、誰もが「ネトウヨ」性を免れられないと感じている。


メモ2018.1.13―ささいに見えることから

2018年01月13日 | 批評

 メモ2018.1.13―ささいに見えることから




 以下の(1)は、(2)に挙げた「伊東静雄を偲ぶ 伊東静雄研究会 」の「掲示板」の記事を読んで、確か若い伊東静雄が書いた童話「美しき朋輩達」は、残されていなかったよなと思いながら「伊東静雄 美しき朋輩達」という言葉でネット検索して偶然出会った文章である。著者はもうずいぶん前に亡くなっている。


(1)
安永武人 「戦時下の文学 その八」伊東静雄の場合 (1978.10.30)

( doshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/01403.pdf )

 


 この卒業論文の提出まえに、伊東はみじかい児童もの二篇を発表
している。そのひとつは、大阪の三越が裕仁天皇の即位式典記念の
ため児童映画の脚本を『大阪毎日新聞』をつうじて募集したのに応
じた作品「美しき朋輩達」であり、一等に当選している。一九二八
(昭和三)年十月のことである。この原作は、こんにちみることが
できないが、わずかに『キネマ旬報』の「各社近作日本映画紹介」欄
で、その梗概を知ることができる。伊東はこの脚本について『大阪
の三越』に「作者より」という一文を寄稿している。

  皆さん少年の心は、それはきれいなきれいなものなのです。けれども只
  時々悲しい過を犯しやすいのです。その過を過と知り悔と涙で決心をし、
  お祈りしたならば皆さんは神様の様に美しく、世界は天国になるであり
  ませう。

と「私の大好きな子供達」に語りかけている。煙突掃除屋の少年三
吉の怪我、その静養をめぐって、稔・雄助・英一・ゆり江などの少
年少女と巡査・友成小父さんとのあたたかい交流を描いた作品であ
ったようだ。★原作者の伊東静雄を、壁静と勝手に改名した脚色者・
水島あやめの脚本をもとにした梗概であるから★、★どこまで原作の面
影をとどめているかわからない★が、「作者より」の文章からみて、
『赤い鳥』流の児童観にもとづいて、それをそのまま反映する童心
世界が創作されていたとみてまちがいはあるまい。その一カ月後、
伊東はさらに「(童話)山科の馬場」を書いた。
   (P15-P16)



(2)「伊東静雄を偲ぶ 伊東静雄研究会 (http://www.itosizuo.sakura.ne.jp/ ) 」の「掲示板」より


① 追悼
  投稿者:山本 皓造 投稿日:2018年 1月11日(木)
② 映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと(再掲)
   投稿者:Morgen 投稿日:2018年 1月11日


 (1)の★ ★で囲った二カ所を読むと、安永武人は、「原作者の伊東静雄を、壁静と勝手に改名した脚色者・水島あやめ」と判断し、そんな人の要約だから「どこまで原作の面影をとどめているかわからない」、つまりあまり信用できないと記している。また、(2)の②では、『詩人、その生涯と運命 書簡と作品から見た伊東静雄』や『詩人 伊東静雄』(新潮選書)など、伊東静雄研究で有名な小高根二郎についても「これを「ひどい改変」「大変な冒涜」と叱咤したものです。」と書き留められている。

 しかし、(2)の掲示板の記事を読むと、まだ伊東静雄の童話を映画にしたスタッフに直接つながる人の証言を紹介している。
 他所のホームページの掲示板の記事だから、本文そっくりの引用は控えるけれど、(2)の②によると、童話の「「募集規定」の中に「原稿はすべて匿名とし別に住所氏名を記して添付し云々」とあるのに、いまさらのように気づき、「美しき~」の原作に伊東氏は「壁静」という匿名を使われたのではないか、きっと、そうにちがいないと思ったことでした。」とある。また、童話の題名については、「伊東氏の原作の題名は「美しい朋輩達」でしたが、映画の題名は「美しき朋輩たち」としたものと思われます。」と推定している。


 こんなささいなことは、どうでもいじゃないかと一般には思われるかもしれないが、ここには重要な問題が潜んでいる。本人にとっては根拠のないささいなことを寄せ集めて、人は他人から批判されることがある。人と人との対人関係でも、個と集団や集団間でもよくあることだ。あるいはデマを流されることがある。

 この場合、作為的、意図的な場合もあるが、ここで取り上げたのはそれとは違う場合である。一般にAということとBということの間には、無数の事実の連鎖や切断や飛躍が横たわっているはずなのに、(1)の安永武人や小高根二郎の場合は、A→Bと直通させている。想像ではなく事実関係についての場合は、細心の注意や留保が払われるべきなのに思い込みやノー天気な判断をしているように見える。(2)の掲示板の記事が正しいとはわたしは断定しないけれど、できるだけ当時の真相に迫ろうという意志が感じられる。

 これで思い出したことがある。埴谷雄高が、吉本(隆明)さんの家の照明、シャンデリアを問題にしたり、吉本さんがモデルとしてだったかコム・デ・ギャルソンの服を着たことを問題にしたことである。どんなささいなことでも、人が独特の縫い合わせ方をしたり味付けをすれば、それらしいイメージをまとって浮上してくるものがある。現在は、もはや「恋と革命の時代」ではないとしても、個と個との対人関係でも、個と集団や、集団間でも、依然として対立や作為や陰謀などと無縁ではない。それらは、わたしたちの日常生活の中にも潜在している。

 もうひとつついでに書き留めておく。『〈民主〉と〈愛国〉』の小熊英二が、吉本(隆明)さんは「徴兵逃れ」の意識があったのではないかと書いているとか、浅田彰・柄谷行人はその対談で吉本さんの「徴兵逃れ」を匂わせる発言をしているなど、以前、ネットでだったかわたしも目にしたことがある。このことを、まだ読み始めていない『最後の吉本隆明』(「徴兵忌避という言いがかり」P48-P55 勢古浩爾)が取り上げている。

 勢古浩爾は、吉本さんと父親とのやりとりや吉本さんの言葉を細かにたどって、吉本さんがひとたびは徴兵に応じようとしたのではないかと推定している。(P52-P53)

 また、『続・最後の場所』(No5 2018年1月 菅原則生 発行) に宿沢あぐり「増補改訂『吉本政枝 拾遺歌集』その二(全二回)」が掲載されている。宿沢あぐりさんは、詳細を究めた「吉本隆明年譜」を『吉本隆明資料集』(猫々堂)に連載されているが、歌詠みだった吉本さんの姉の歌をよくがんばって収集されているなと感心しつつも、(しかしそれは吉本隆明という存在の本質とはあまり関わらないよな)と内心で思っていた。しかし、次のような姉・吉本政枝の歌が載せられている。


 一にも兵二にも兵なり吾が道は兵の外にはなしといふ汝
 さとします父に詫びつつい征かむと勢へる心遂げしめ給へ
 (引用者註.「隆明に」という詞書きがある4首より)
  ※これらは、当時の吉本の心情を、姉の政枝がどのように受けとめていたか、はじめて知るものだ。
  これらの作品が生まれた当時の情況について、吉本は後年つぎのように回想している。
 (『続・最後の場所』P51)



 として、宿沢あぐりさんは、次に『私の「戦争論」』(吉本隆明・田近伸和)から、インタビューに答える吉本さんの言葉(註.これは、先の勢古浩爾の引用したものとほぼ同じ箇所)を引用している。一九四四年(昭和一九年)米沢高等工業学校卒業時のことである。吉本さんは「『やっぱり兵隊になったほうがいいんじゃないか』と半分は思って、親父に相談をした」と語っている。二種目の歌からすると、姉も吉本さんと父親との話の場に同席していたのかもしれない。同席していないとしても、よく吉本さんの内なる悩みに通じていたことになる。姉の政枝さんの療養所生活の時期や自宅への帰省などの事情が分からないから、こう推定するほかない。ちなみに、吉本さんの『初期ノート』のはじめに「姉の死など」という文章が収められている。姉の政枝さんは、1948年(昭和23年)に亡くなられている。(註.1)

 最後に、目下、晶文社から『吉本隆明全集』が新たに出ている。その「37巻 書簡Ⅰ」は、川上春雄氏宛ての吉本さんの全書簡と、川上春雄氏のメモや川上春雄氏の吉本さんやその家族や知り合いなどへのインタビューなども含まれていて、とても興味深い一巻である。宿沢あぐりさんは、そこから川上春雄氏聞き書きの「吉本順太郞・エミ夫妻インタビュー」を引用している。これは前のインタビューの吉本さんの「親父に相談をした」という発言に対応するものである。これによると、吉本さんの父親の順太郞氏としては、戦死した吉本さんの兄・権平のことを考え、息子二人も戦死させたくないという内心の強い意思を持っていたことが語られている。そして、それといろんな事情が合わさって吉本さんが大学に行くということになったと語られている。

 以上から判断して、姉の歌や吉本さんの証言からすると一九四四年(昭和一九年)米沢高等工業学校卒業の時点で、吉本さんは徴兵に応じて戦争に兵士として加わろうと半ばは思っていたことになる。それが、父親との話で兵士はそんなに勇ましいばかりではないとか兵士や戦争の現実を聞かされたり、また「米沢の学校からも大学へやってくれって言ってきた」(父親の順太郞氏の言葉)ことも合わさって、吉本さんは大学の方に行くことになったのだと考えられる。

 上の伊東静雄の場合と同様に、その人を、そのことを、できだけありのままに近い形で捉えようとするためには、一見ささいなことも重要な手がかりとなり得るのだということをこれらの例は示しているはずである。そして、こうしたことは、知識や思想の世界に限らず、人と人とが関わり合う日常の生活世界についても大切なことだと思う。

 なぜなら、世の中には、知識や思想の世界に限らず、生活世界でも、小熊英二や浅田彰・柄谷行人などのように、軽い思いつきや歪んだ自分を鏡とする適当な判断で他人を判断することがあるからである。当人たちは、それが作為的でないとして、そのことが相手にとってどれほど大きなことになるのか想像もできないのだろう。そういう意味で、やはりこのような一見ささいに見える問題の掘り起こしは貴重なものであると、わたしは再認識をかみしめている。思い巡らせれば、この世の中には派手な表の世界にほとんど顔が出なくともたくさんの裏方たちがそれを支えていることがある。同様に、伊東静雄や吉本隆明という存在を粉飾することなくできるだけありのままの姿で浮かび上がらせることに、このような一見ささいに見えるもの(それもまたひとつの表現である)たちが、確かに貢献しているはずである。

 

(註.1)
この文章を公表後に気づいたこと。(2018.1.20)

 『吉本隆明全集1』(晶文社 2016年6月)の巻末「解題」(P557)によると、吉本政枝略年譜が載せてある。それによると、「昭和十四年十一月に胸部疾患を知る同年東京都南多摩郡多摩村厚生荘療養所に療養生活入る、爾後昭和廿三年一月十三日死去の日まで同所に休息の日々を送る」「享年廿七歳」とある。これによると亡くなるまで吉本さんの姉は療養所生活だから、吉本さん含めた家族がその療養所に姉を見舞いに訪れて、吉本さんのその話題が姉の耳に入ったものと考えられる。しかし、それがどこに書いてあるかは覚えていないが、吉本さんの姉に関する言葉によると、姉は自宅に時々帰省していたということだった。父親が他の子どもたちに病気が移るかもしれないという心配をしているようで、父は帰省する姉をあんまり歓迎していないようだと語られていたとわたしは記憶している。
 不明なことが、少し分かったけれど、事実の具体性にかかっているもやが吹き払らわれて事実が明らかになったわけではない。ただ、残された歌によれば姉の政枝さんが、吉本さんの進路に関する悩みを知っていたということだけは確かなことである。

 


表現の現在―ささいに見える問題から 27

2018年01月07日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から 27
    ―『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』(吉本ばなな 2017年10月)


 物語作品は、いくつもの小さな場面が関わり合いながらひとつの大きな流れを構成していると見なすこともできる。次のような場面がある。



 そして、これほどに頭の中が文系で、船が浮いていたり飛行機が飛ぶことさえも恐ろしいと思っているような平凡な私に、異世界の話なんてお願いだからしないでほしいと思った。
 私にとってはそれは自分に関係あるはずのものではなく、地元に伝わる民話にすぎなかったから。
 こだちが生きているということは心の底でわかってはいた。でもその体が分解されたなどと聞くと、おそろしくてたまらない。あの有名な映画
(註.1)みたいに、戻るときにうっかりハエと混じったりしたらどうしよう、ついそんなことばかり考えてしまう。
 二卵性の双子ではあるけれど、私の体のどこかが彼女とつながっているしテレパシーのようなもので通じている部分がある(今考えると、それこそが私たちがハーフである証なのかもしれない)から、もしもこだちが死んでいたら必ずわかるはずだった。
 それでもこだちが生きているということを他の人の口から(たとえそれがあんな不気味な人たちであったとしても)聞くのはやはり嬉しかった。
 占い師の彼女たちと過ごした時間の、シャープで頭のすみずみまでを使うような感覚と、そのとてつもなく冷たい、情のない感触がまだ心に残っていた。
 それは私がこだちと普通に日常を過ごし幸せだった、何か甘い綿菓子のようなものにふんわりと包まれて安心であった、なにも考えないように努めていたぼやけた時間とは全く違っていた。
 あのひんやりした感触がもし圧倒的な真実の力というものだとしたら、私は自分の人生の中ではそれを否定してきたのかもしれない。
 極端すぎ、純粋すぎて、息苦しかった。
 しかしいつかは自分も真実を生きる世界に近づいていくだろうことが、さっきのセッションのおかげではっきりと予感できた。
 顔を上げて冷静に見ると、彼女たちの言う通り確かに街は変化していたからだ。
 (『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』 P66-P67 吉本ばなな 2017年10月)

 (註.1)
『ザ・フライ』 (The Fly) は、1986年のアメリカ映画。1958年に公開された同名の映画(邦題は『ハエ男の恐怖』)のリメイク作品。(ウィキペディア「ザ・フライ」)その「ストーリー」もここに紹介されている。



 これは、双子の妹の「こだち」が姿を消した後、姉の「ミミ」(語り手)は一風変わった占い師を訪ね、その占い師の家を出た後の場面である。その占い師から、交通事故で亡くなった父親は地球人で目下眠り続けている母親は異世界人であり、その子のこだちやミミは地球人と異世界人とのハーフであることを教えられる。そして、ハーフゆえにこだちやミミは異能を持つことになる。また、ミミの将来や失踪した妹こだちがこの一話の終わり辺りで発見されるが、その発見の場面も予言される。

 ここでまず触れてみたいのは、この場面の(註.1)に記したような映画の場面が登場することである。『ザ・フライ』 はわたしは観ている。後にもいくつか同様のものが登場する。これらをもし知らないなら、それぞれの箇所がよくわからないもやに包まれることになる。こういうことは日常での会話でも起こりうることである。触れられたり引用されたりしたことがまったく不明なら何を相手が言っているのかわからないという場合もありうるだろう。しかし、この物語作品を味わう上ではほとんど差し障りになることはないような気がする。ただ知っていたらその表現のイメージがより鮮明になるのは確かである。

 次に、『ザ・フライ』からの引用などを作者の固有の体験から来る固有の出来事やイメージの喩とみなすと、今度はよりもやに包まれたような不明のイメージや意味を放ってくるかもしれない。しかし、現在を生きるわたしたちは、現在という共通のイメージ(「マス・イメージ」)の土台の上に、あるいは現在という共通のイメージの精神的な大気を呼吸しながら、ひとりひとりが固有の色合いを放っている。そのひとりひとりの固有性は、時代のマス・イメージと接続(親和であれ異和であれねじれであれ)されているから、いくらかの作者にまつわる不明を抱くことがあっても、作品世界に入り込んで行けるのである。

 ところで、「あとがき」で作者が触れているが、この作品は今までの作品世界と違って、異世界や異世界人や異能などが登場している。初めはそのことにずいぶん異和感を持ちながら読んでいった。しかし、この作品の終わり辺りに来るとずいぶんその作品世界の風景に読者としてなじんできたと思う。それはちょうど、『スタートレック』の場合に似ている。 アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズ ―わたしにとって特に印象深いのは、ピカード艦長率いるエンタープライズ号の『新スタートレック』 ―で、様々な異星人が登場して、初めのうちは面食らったけれども、ああこれは外国人と見なせばいいのだろうと思って割と自然なものと感じるようになったことがある。

 この作品は、まだ始まったばかりで次に続いていくようである。この一巻での感じでは、それらの道具立ては、母と子は言葉によらないでも胎内生活から引き継がれた「内コミュニケーション」によって気持ちや意思を交わし合うことができると言われているが、作者と読者とがその「内コミュニケーション」が相互に取れるようなものとして、そのファンタジー世界のような道具立てが貢献しているように見える。そこでの重要な要素は〈察知〉ということだと思う。

 また、「あとがき」にも以下と同様のことを作者は記しているが、よりまとまっているこの本の帯の方の作者の言葉によると、



 この物語は、五十年かけて会得した、
読んだ人の心に命の水のように染み込んで、
魔法をもたらすような秘密の書き方をしています。
もしよかったら、このくせのある、
不器用な人たちを心の友にしてあげてください。
この人たちは私が創った人たちではなく、
あの街で今日も生きているのです。




 たぶん、物語の推移する起伏よりも、このような言葉の流れ放ちこそが、この作品の生命の主流だと思われる。木材で器を作る職人さんでも「五十年」もやっているとどうやれば思うように削れるかなどがよくわかっているだろう。言葉の表現でもそういうことができるのである。いずれに対しても、そういう地平に立って同様のことをするには同じような修練を積むほかない。ただ、それらの地平から見えたり感じたりするものを「感じ取る」ということは、自分の生きてきている時間を研ぎ澄ませば可能であると思われる。実際、その「魔法をもたらすような秘密の書き方」をしている部分をわたしはチェックしてきた。

 この物語世界の登場人物である「この人たちは私が創った人たちではなく」というのは、事実に反してはいる。たしかに作者があるモチーフの下に、登場人物たちを物語り世界に呼び寄せ、登場人物の性格含めて造形してきたのである。しかし、作者がここで語っているのはそういう当然のことではない。たぶんそれは作者によって理想化されて抽出されているはずであるが、この世界で優れてすばらしい魂を持って日々生きている人々の存在が、作者の言葉を突き動かすように訪れてきたのだということを語っているように思う。したがって、作品の言葉は、この現実の小社会に生きて在る魂に触れているのだと思う。



 間違えたターゲットを狙い続ける自動人形、それらはあの占い姉妹と同じくらい切ない存在に思えた。
 じゃあお前の存在は切なくないのか?と私は私に問う。
 私は切なくない、と私の心の奥底は答えた。
 私は愛されて育ってきたし、いつもこだちがいたし、今もここに生きていて、どんどん軽くなっていっている。まるでこの墓場に吹く風のように自由だから。
 彼らは永遠に捕らえられているからこそ、どこかしら切ないのだ。勇も切ないし、住職も切ない。彼らがまだやってきた世界の姿をとどめているから、あんなでかい図体でもいまだに自由に物事を見聞きできないなんて。
(『同上』 P172-P173 )




 ここには、「この墓場に吹く風のように自由」な言葉と、もう終わってしまった過去、旧世界に「永遠に捕らえられている」言葉とが、対比的に表現されている。しかし、それらは対立的ではなく、「この墓場に吹く風のように自由」な言葉からは、「切ない」と捉えられている。たぶん、この視線は、この作品に自らのモチーフを込めた作者の視線と同一だろうと思う。この作品の対比と同じような構図を持つ、このわたしたちの現在に、作者のモチーフは「この墓場に吹く風のように自由」な言葉の流れを生み出し、それら相互の「内コミュニケーション」を、作品世界で実現しようとしているように見える。

 最後に、この作品を読みながら、昔の少女漫画のような、どこかぎこちない、素人のような表現の流れを感じたことがある。これはたぶん、この作品が、日々のこまごまとして具体を生きる人間の基層的な心や言葉の場所や流れを対象とし、すくい上げようとしているからではないか。そのような視線や言葉は、決して饒舌でも流ちょうでもスマートでもないからだ。


イメージ(像)を獲得する方法の変位

2018年01月03日 | 批評

 イメージ(像)を獲得する方法の変位




 「民の竈(かまど)は賑わいにけり」というエピソードがある。現在の社会について政府の経済・統計資料を調べていて、ふと「民のかまどは・・・」という言葉がよぎった。
 ところで、読み終えた『小沢一郎の権力論』にもこの話が載っている。


 長い演説をする時、僕は仁徳天皇の「民の竈」の話をする。あれが僕の政治活動の原点なんだ。
 どんな話かというと、民の竈から煙が立たなくなったのを見て、国民が貧しい生活をしていることに気づいた仁徳天皇が、宮中や行政の経費を削り、年貢を免除した。それで国民は息を吹き返し、再び、竈のあちらこちらから炊事の煙が立つようになったと。そういう逸話だ。
(『小沢一郎の権力論』(インタビュー構成集) P130-P131)


 関連して、新古今和歌集に次のような歌か載せられている。

高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)

 これは、所収本によっては作者不明とか仁徳天皇とかあるらしいが、このエピソードに添う歌であることは確かである。


 仁徳天皇(4世紀末~5世紀)が実在の天皇だったとして、どれくらいの規模の王朝・行政区などかは知らない。平安期のように東国への足がかりはまだない時代だったろうから、まだまだ全国的なものではなく、割と小規模だったのかもしれない。

 当時の人々の家計の状況は、高いところに上がって「煙」という直接的なもので測ることができた。あるいは、直接的なもので測らざるを得なかった。国見は権力の儀礼的な面があるのだろうが、これも高いところからその地の形勢を直接的に望み、測るということではなかったろうか。これを一次的なイメージ(像)の獲得方法とする。

 仁徳天皇の頃の税がどのような基準で課せられたのかはわからない。もっと後の大化の改新以後になるとより整序されたものになったようだ。先進中国からの律令制や文物がわが国に入ってきた時、土地や民衆の貢納などを測る技術やそれに基づく施策も入ってきたのだろう。こうして、一次的なイメージ(像)の獲得と併せて、土地や人数などの計測・計量などによっても、社会のイメージ(像)や入ってくる貢納の量などのイメージ(像)を獲得していたはずである。

 太閤検地以後、年々の天候などの自然条件による豊作や不作があるとしても、社会のイメージ(像)や入ってくる貢納の量などのイメージ(像)の獲得がより緻密になってきたと思われる。しかし、土地を実際に測ることによるイメージ(像)の獲得という点では、古代辺りからの連続した線上にある。

 ところで、昔読んだことがある柳田国男「火の昔」には、次のような箇所がある。


私は大正の始(ママ)め頃に、愛知県のある海岸の丘の上に登って、東海道の村々の夕方の燈火が、ちらちらとつくのを眺望していたことがあります。いつになったらこの辺の農家の屋根が、全部瓦葺きになり、そうして電気がついてその下で働くことになるだろうかと、よほど遠い未来のように想像してみました。ところがたいていの世の中の改良というものが待遠(まちどお)であるのに反して、これだけは予想よりはるかに早く、実現したのであります。その時からわずか一七八年の後、再び同じ場所の高みから里を見ると、見える限りの屋根屋根がすべて瓦葺きで、どの窓にも電気の燈があかあかと映っていたのにはびっくりしました。国には数千年を経ても少しも変らぬものが確かにありますが、一方にはまたこれほどにも激しくえらい速力で、しかも何人も気がつかずに、変って行く燈火のようなものもあるのであります。
 (「火の昔」P243 『柳田國男全集23』ちくま文庫)


 これも高台から村々を直接見渡すことによって得られた村々のイメージ(像)やそのイメージの変貌である。わたしが「一次的なイメージ(像)の獲得方法」と呼んだ古来から続いているもの、すなわち、わたしたちが直接に見渡すことによってイメージ(像)を獲得するという方法が、今後ともなくなることはないだろう。しかし、社会の主流になっている、イメージ(像)を獲得する方法は、近代以降の積み重ねによって二次的なイメージ(像)の獲得方法とでも呼ぶべきものに変位を遂げている。それは例えば次のようなものである。


例1.
その具体的な詳細は知らないけれど、人の遺伝子などの探査によって、人類の移動の足跡をある程度把握できるようになってきたこと。これは派生的なものとして、日本語の成立の足跡にも寄与するものがあるかもしれない。

例2.
以下の、安保徹の視線は、人の身体の起源からの視線によって現在の人の身体を見るという視線で、そういう視線を行使するかどうかにかかわらず、これは現在では一般的となってきた視線の向け方だろうと思われる。ここには、現在の人の身体というものが、人になる遙か以前の太古から現在までに上陸(水棲から陸棲へ)などいくつかの大きな変位を遂げてきていること、と同時に積み重なりとして現在があるという認識がある。人の身体の内部を大きな時間を内包した微細な構造として捉えるということで、これはもはや直接性の一次的なイメージ(像)の獲得方法ではなく、間接性の二次的なイメージ(像)の獲得方法と呼ぶべきものだと思う。


 免疫細胞の進化、多様化は、生物そのものの進化と関わっています。生物が水棲から陸棲になると、T細胞やB細胞といった進化したリンパ球を育てる胸腺や骨髄という器官ができました。この胸腺ができてはじめて、生物の身体に外来抗原を集中して認識するシステムができたのではないか、と私は考えています。陸に上がったことにより、生物が出会う抗原の種類が格段に増えました。というのも、水中よりも空気中のほうが抗原になる物質があきらかに多いからです。さらに、空気中を動きまわることにより、身体を傷つける機会も、水中にいたときより、格段に多くなりました。となると、外来抗原向けのシステムを大きく発展させる必要があったのです。それで、胸腺が発達してきました。
 それから、陸棲になったことに伴う代謝エネルギーの増大も、免疫系の進化を大きく促しました。水から酸素をとる世界から、空気から酸素をとる世界に変わったことによって、とり入れる酸素の量が一気に増えました。酸素が増えたから、使えるエネルギーも増え、前よりも活発に動きまわるようになり、重力対応もできるようになり、と、ありとあらゆる生体活動のスケールが大きくなりました。
 空気中の酸素を使うようになって、動脈血の酸素濃度はだいたい五倍にはねあがりました。水には一%の酸素が溶けています。ところが、空気中は二〇%です。身の回りをとりかこむ酸素の量が二十倍になったのです。でも、血液の中までは二十倍にならず、五倍になりました。それでも、とりこむエネルギーが五倍になったことで、代謝が亢進して、その結果、運動量も飛躍的に増加しました。その結果、抗原にさらされる機会もますます増えたわけです。そこで生物は、外来抗原向けの免疫システムをうわのせして生き延びたのです。
 胸腺というのはそもそもエラから進化したものです。エラは生物が上陸して肺呼吸をしはじめると退化しましたが、全部は消えませんでした。我々の身体の中にまだエラの残骸が残っている。それが胸腺なのです。肺呼吸をするために、肺が進化して胸郭いっぱいに広がりましたが、そのとき、もともとエラだった成分が胸腺になりました。エラというのは、魚類にとっては、大量の抗原がぶつかってくる場所でしたから、そこにはリンパ球がたくさん存在していました。それが上陸したときに、肺の拡大に押される形で胸郭におちていって胸腺になりました。そして、その胸腺は、エラだったときにももっていた、外来抗原向けのシステムを引き受けています。
 これは、生物の進化の上では、ひじょうに大きな変化です。
 (『免疫革命 』P272-P274 安保 徹 2011年、単行本は、2003年に刊行)



 旧来の一次的な直接性のイメージ(像)を獲得するという方法や視線では、例えば人類の発生や生命の起源などについてもうこれ以上先へ行けないのではないかと思われたことが、科学技術の高度化(遺伝子工学や衛星からの視線やバーチャルリアリティ等々)の助けにも支えられ、二次的な間接性のイメージ(像)を獲得するという方法への変位を遂げてきた。二つの例を挙げたけれど、このような例は全社会的なものとして浸透してきているように見える。以前テレビで観たことがあるが、農業の田植え機などを衛星からの視線(電波)によって操作できるそうだ。このように現状ではまだまだ大げさに見えるものもあるだろうが、衛星からの視線は自動運転車などにも応用されていくのではないだろうか。衛星からの電波のやりとりによる制御も、間接性の二次的なイメージ(像)の獲得方法と呼べるだろう。
 近代以降、特に近年は、科学技術や社会の変貌が加速度的になってきている。イメージ(像)の獲得方法も、その加速度的な流れに合わせてこの現在の次元を上り詰め高度化していくだろう。しかし、この二次的なイメージ(像)の獲得方法を上り詰めた先の、その次の次元については現在ところはわからないと言うほかない。


表現の現在―ささいに見える問題から 26 (町田康『スピンクの笑顔』より)

2017年12月08日 | 批評

表現の現在―ささいに見える問題から 26 (町田康『スピンクの笑顔』より)




 町田康は、猫を飼っていて猫に関する本を出していた。あるときから犬も自宅に飼うようになり、犬が登場する本も書き始めた。本書はその犬のスピンクシリーズの4冊目で最終巻だという。次のような箇所がある。



 1.

 (引用者註.自宅にポチと呼ばれている人間の主人とその妻の美徴さん、そして犬たちがいる。自宅の天窓からの朝の光が差していて、しだいに暑くなってきてまずいのではないかと語り手でもある犬のスピンクが考えて) 
 そうなると面倒なので、私はポチに念波を送りました。ポチが、「おっ、なんか暑いのお。日除けのテントを張り出そう」とまるで自分が思ったように思わせるためです。こういうことをポチは雑誌の談話取材などで、「犬とは心が通じるからおもしろい」などと言っています。
 ところがどうしたことでしょう。ポチはまったくそれに気がつかず、まるでフグのような顔をして夢中で本を読み耽っています。
 そんなにおもしろい本なのか。ならば仕方がない。言葉で言うしかない。と、立ち上がって太い声で、「湾」と言いました。それでもポチは本を読むのをよしません。そこで、もう一度、「椀」と言ってやると、ようやっと、「なんやねん、スピンク、うるさいのお」と言って本を置き、私のところにやってくると、私の頭と背を撫でるので、さらにもう一度、「王」と言うと、ようやっと、美徴さんに向かって、「これなにを言ってるかわかんないんだけど、なんかさあ、暑くない」と言い、日除けのテントを張り出しに行きました。
 ( 『スピンクの笑顔』P30-P31 町田康 講談社 2017.10月)


 2.

 ポチは見るからに頼りない足取りで遠ざかっていき、やがて石浜の先の、岩の連なりに取り付くと、ますます危なっかしい足取りで突端に向かい、やがて見えなくなりました。
 ポチはなかなか戻ってきませんでした。私はポチが足を滑らせて海中に没してしまったのではないか。そして、岩場に取り付くことができず、海中でアップアップしているのではないか。そんなことを思って心配になり、座り直して、美徴さんの目を凝(じっ)と見て、ワン、と太い声で吠えました。
 ちょっと様子を見にいってやったらどうだ。と言ったのです。
 しかし、美徴さんは、その意味するところを了知せず、スマートホンを弄(いじ)くっています。そこで、もう一度、ワン、と言い、少し間を置いて、立ち上がり、後ろ足をジタジタしながら、ワン、ワン、ワン、ワン、と立て続けに吠えました。
 そうしてようやっと美徴さんは目を離し、そして言いました。
「う-るさい」
 ショボボボホン。尻尾が一気に下がって、口がアクアクしました。
 そのときキューティーが海の方に向かって吠えました。
 振り返ると、ポチが石浜をよろよろ歩いていました。私はうれしくなって、また、ワン、と吠えました。キューティーもポチを呼ぶように、ワンワン、と吠えました。それを見た美徴さんは、今度は怒らずに、「よかったねぇ、スピンク。ポチ、帰ってきたねぇ」と言いました。
 私は美徴さんを見あげ、「よかったね、帰ってきたね」と言いました。キューティーの尻尾が左右にパタパタ揺れていました。
 ( 『同上』P118-P119)




 この作品は、作者を彷彿とさせるポチと呼ばれている作家の主人とその妻の美徴さん、そこに飼われている三匹の犬、スピンク、キューティー、シード(作品の終わり辺りでもう一匹やってくる)や猫たちの物語である。ここでは猫たちはほとんど登場しない。そして、夏目漱石の『吾輩は猫である』と同様に動物が語り手になっている。犬のスピンクが語り手の作品である。

 この作品も夏目漱石の『吾輩は猫である』という作品を無意識的な前提や参照として作られているのかもしれない。そして近代からさかのぼってそれ以上のつながりはよく見えないけれども、たとえばアイヌの神話には動物が語り手になる一人称の物語がある。(知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』には、「梟の神の自ら歌った謡」がある)また、柳田国男の『雪国の春』の「語り部の零落」の章には遙か昔の神話やその語りを常民の視点から捉えた文章もある。現代や近代からはそのような遙か昔の世界は一般にもやがかかった不明の世界に見えるはずであるが、そのような世界につながりをつけることは可能だと思うし、つながりはつけられるべきだと思う。メモ程度に記しておくだけにしてここでは触れない。

 ところで、この作品では、作者を彷彿とさせるポチと呼ばれている作家の主人は少し犬のような性格を持っているとされ、語り手の犬のスピンクと主人のポチは気持ちや意思や考えていることを念のような形で交わし合うことができるとされている。そして、この作品自体が語り手のスピンクが語ることを主人のポチに「念波を送り」、主人のポチが書いているとされている。また、犬同士は、気持ちや意思や考えていることを交わし合うことができるとされている。

 しかし、人間と犬の関係の有り様は、普通は引用部「2.」にポチと美徴さんとのやりとりとして描写されているようなものが、わたしたちには自然なものと見えるだろうと思う。したがって、上に記したような作品の設定は、夏目漱石の『吾輩は猫である』の語り手である猫の設定と同様に、設定とその展開する作品世界に読者が面白みを感じることはあっても、設定自体をあり得る現実性と見ることはないはずだ。

 しかし、この作品は、たぶん作者にとっては、この作品の設定自体が現実味を十分に持つと感じられるような、犬たちとの交流の日々の物語であり、また普通の作品ではやりにくい、語り手の犬のスピンクを通した視線による作者の批評、つまり作者の自己批評の物語にもなっている。犬や猫を飼い、いっしょに日々を過ごしている人々とそうじゃない人々との間には、感じたり見えたりする世界の違いがあるように思われる。犬や猫などの動物と無縁に日々生活している読者なら、この作品の設定に対して、そんな馬鹿なことはないよなと思いながら、作者町田康の独特の語りの世界に入り込んで行き、いつしかその設定にも慣れていくという風になるのだろうと思われる。

 引用部「2.」のポチと美徴さんとのやりとりは、「ちょっと様子を見にいってやったらどうだ。と言ったのです。」という部分があるとしても、だいたい普通のレベルの人と犬との関わり合いの描写になっている。犬を飼っている人なら、この引用部「2.」の場面のように犬の発する「ワン」にはいろんな犬の気持ちや考えが込められているとわかるはずである。

 ところで、引用部「1.」の描写は、引用部「2.」の描写とは少し違っている。
 語り手のスピンクが、主人のポチに「念波を送」るのは気持ちや考えを交わし合うことができると見ているからだ。そのような描写がなされるのは当然のこととして、この作品に対して現実的に言えば、作者も作者の分身である主人のポチ同様「犬とは心が通じるからおもしろい」と思っており、人間は犬や猫と気持ちや考えを交わし合うことができると考えているからだ。しかし、「これなにを言ってるかわかんないんだけど」とあるように、人と犬との気持ちや考えを交わし合うのもいつもうまくいくとは限らない。

 ここで、興味深いのはスピンクが、「ワン」とは言わずに、「湾」、「椀」、「王」と言っていることである。これを作者が作中で時折見せる言葉遊びのようなものと見なさないとすれば、どう理解できるだろうか。

 犬の同じ「ワン」でも込められた気持ちや指し示す意味において、異なることがあるということはなんとなくわかる。しかし、その違いを読み取ることは難しいと思う。我が家には野良猫出身の雌の猫が二匹いる。一方の猫はほとんど鳴かない猫だけどもう一方の年上の白猫の方はよく「みゃあ」と鳴く。この猫とは七年くらいつきあっているけど、そのいろんな区別がありそうな「みゃあ」を読み解くことはできない。つまり猫の気持ちや指示しているものがよくわからない。

 猫や犬同士は、「みゃあ」とか「ワン」とかしか鳴かないのに、どうやって気持ちや考えを伝え合っているのだろうかとわたしはふしぎに思うことがある。ここでの「湾」、「椀」、「王」という区別は、語り手のスピンクが、主人のポチに「日除けのテントを張り出し」てほしいということを訴えている表現の言葉になっており、その過程での言葉の強弱を示しているように見える。だから、「ワンワンワン」と「ワンワン」と「ワン」の区別の表現と同じものと見なすことができると思う。

 ところで、「ワン」とは言わずに、「湾」、「椀」、「王」と言っていることで思い出したことがある。これを人間世界の人間的な表現と見なせば同様のことがある。たとえばおなじ「馬鹿」という言葉でも、親愛の情がこもった場合もあれば、相手を軽く責める場合、あるいは相手をきつく批判する場合もある。そして、そのいずれの表現であるかは、その場の状況や前後の話の流れ(書き言葉であれば文脈)によって判断することができる。書き言葉では、「馬鹿」は「バカ」や「ばか」というちがう表記はあっても、上の「ワン」のようにかき分けることはしない。話し言葉の場合には、語調の強弱などで区別がなされている。

 また、以下の文章によれば、現在では「母」や「叔母」などと区別されているけれど、遙か昔、あるいは近代に残存していた未開的な社会では、それらを同じ「母」という言葉で表現していたということがあったらしい。この作品で同じ「ワン」でも、「湾」、「椀」、「王」と区別した表現をしたように、同じ「母」でも、たとえば「ハハ」「ハーハ」「ハハー」のように区別していたのだろう。おそらく、言葉ははじまりの単純さから、しだいに分化して複雑化してきたのであろうということは一般に想像できることである。その過程には、死語と流行語など、いわば言葉の死や誕生や再生の物語も含まれていたはずである。



では子どもにとって実の「母」や実の「父」と親族組織がひろがっていったために 「母」とは(引用者註.ママ 「とか」か)「父」とか呼ばれることになる母方の兄弟(伯叔父)や姉妹(伯叔母)はおなじ呼称なのにどう区別されるのだろうか。マリノウスキーによれば、おなじ「父」 や「母」と呼ばれても、実の「父」「母」と氏族の「父」たちや「母」たちとでは感情的な抑揚や前後の関係の言いまわしによって呼び方のニュアンスがちがい、原住民はそれが実の「父」や「母」を呼んでいるのか、氏族の「父」たちや「母」たちのことか手易く知り分けることができると述べている。またこの地域の原住民の言葉(マラヨ・ポリネシアン系)には同音異義語がおおいのだが、それは民族語として語彙が貧弱なためでも、未発達で粗雑なためでもない。おおくの同音異義語は比喩の関係にあって、直喩とか暗喩とかはつまりは言語の呪術的な機能を語るものだと述べている。 わたしたちがマリノウスキーの考察に卓抜さを感じるのはこういう個所だ。たとえば「母」という言葉は、はじめはほんとの「母」にだけ使われる言葉だった。それがやがて「母」の姉妹にまで使われることになった。これは子どもの「母」の姉妹にたいする社会的な関係がほんとの「母」にたいする関係と同一になりうることを暗喩することにもなっている。そこでこのふたつの「母」を区別するために「母」という呼び方の感情的な抑揚を微妙に変えることにする。これによってほんとの「母」と、「母」の姉妹との社会的同一性とじっさいの差異を微妙にあらわし区別することになる。子どもの世代がこの同一性と差異に耐えられないほどの社会的な関係の変化やずれを体験したとき別称がはじめて実際の場面で登場しなくてはならない。
 (「ハイ・イメージ論9」の「贈与論」P7-P8 『吉本隆明資料集115』 猫々堂 2012年5月)



 この最後の部分の「別称」の登場については、たぶん関連すると思われる個人的な体験がある。わたしたちは、今はもう忘れてしまっているとしてもとても小さい頃の母親の呼び方を持っていたはずである。そして、その呼び方が生涯続いていくとは考えられない。どこかで「別称」を誰もが体験するのではないだろうか。私の場合は、思春期と言われる時期に「別称」に変更した覚えがある。家族の外の世界に出たこともあり、思春期という時期でもあり、気恥ずかしくなって今までの母の呼び方を変えたのだったと思う。


過去の資料をどう読むか―江戸期の農書「郷鏡」より

2017年10月14日 | 批評

 過去の資料をどう読むか―江戸期の農書「郷鏡」より


 この「郷鏡」にはもうずいぶん前に出会っていた。十年以上前にはなると思う。ただ、それをどのように理解すべきかよくわからなかった。この農書「郷鏡」の著者は誰であるかわかっていないらしいが、文面からすれば農業の経験もあって農業の技術指導ができる佐賀鍋島藩の役人であろうと推測される。詩人の伊東静雄の故郷でもあり、近くは有明海の干拓事業で知られている長崎県諫早市が舞台となっている。江戸期には、諫早は佐賀鍋島藩の支配の下「佐賀藩諫早領」として存在したらしい。「郷鏡」から現代語訳された方を引用してみる。


1.
 また、わらで縄をなうには、すぼ(みご)を抜いてなえばよろしいが、すぼの抜き方も知らないのか、わらの上に搗き臼 (つきうす)を置いて、穂頭をもって抜いているという。すぼを抜くには、慣れた者は、わら一把を地上に置いて足で踏まえ、穂先を手にとって拍子をつけて抜けば、だいたい七、八割は抜けるのである。あとに残ったものは再び前の方法で抜けば、すぼは残らず抜き取れるのである。

 このようなことを教えても、慣れていないためか聞き入れず、やってみようともしない。すべて諫早の風習として、世間の動きに敏感でなく、物にこだわり、保守的な気風が強いため、農業においても工夫や研究を重ねて便利よくするということは決してしないものである。

 たといよい方法をいい聞かせて「なるほどよいやり方だ」と思っても、帰ってからそれを実行してみることはしない。一般に田畑の仕事をおろそかにして手入れをまめにしないので、それだけ作物の収量も少なくなっているのに、なぜ田畑の作物の出来がよくないかということに気づかない者ばかりである。そのうち、まれに農業に精出す者があって、多くの収量をあげるのをみても、これをうらやむということもない。

 稲を刈っても田の中に積み重ねて、水はけをよくするための溝を作ることもせず、雨が降って稲が水に浸って腐りかけてもいっこうに気にしない。また、低いところに刈り置いたものなどが雨水に浸って浮いていたりしても、三又の稲架など立てて掛けるということもしない。長く水に浸ったままだと発芽してしまうのに放っておいて、精米して米にした後で気づいて「雨のために発芽して品質が悪くなってしまった」などとぼやくのが関の山である。愚かなものとはいいながらもまことに情けないことではないか。前もって充分な手だてを講じておかないで後で嘆いてもはじまらない。これは稲作りについてばかりではない。なにごとにも当てはまることである。
 (「郷鏡」(肥前)現代語訳 P98-P99 『日本農書全集 11』 農山漁村文化協会)


2.
 諫早は米が少なく、収穫した米は、畑の年貢まで米で納めるから不足しがちなので、百姓の一年間の主食の大部分は甘藷(引用者註.「かんしょ」は、サツマイモのこと)で済ませている。そのため、これが不作であればみんなが大いに困ることになる。およそ、一年のうち八月ころから翌年四、五月ころまでは甘藷を主食にし、五月から七、八月までは麦を主食としている。そのうち、粟、そばなどを利用することもあるが、麦、甘藷が主な食糧である。
 (「同上」現代語訳 P111)


3.
 一、夏大豆および小豆は、八十八夜(引用者註.立春から数えて88日目の、5月2日頃)に播種する。一反当たりの播種量は、大豆四升、小豆は一升くらいである。畦畔の大豆は、五月中ごろまでに播種し、秋大豆は夏の土用の二十日ばかり前に播種する。また、そら豆(諫早ではこれを夏豆という)は、八月の彼岸すぎてから播きつける。

 これらの作物のなかでは夏大豆を主として作付けしているが、これは年貢の不足する分を大豆で補い、また、いろいろな出費をまかなうものなので、栽培しないと困るものである。しかし、どの豆を作った場合でも、播種したままで除草も施肥も行なわないので、収量は少ない。

 これは諫早の古くからの悪い習慣であって、草を取り、畦間をけずって手入れをするようにいい聞かせても、そのとおりにしようとする者はいない。このため、長い期間降雨がなくて日照りになれば、豆の葉は豆の葉はしおれていたみ、はなはだしいときは枯れることもある。このようなとき、他領では水かけ用の桶などを使ってときどき水をかけているが、このあたりでは、このようなことを思いつく者もいない。・・・中略・・・

 総じて、このあたりでは豆の葉をとり、これを乾燥して家畜の飼料にするため、豆の実が入って葉が黄色になりかかったころ葉を刈り取っている。葉をとったものは、葉をとらずにそのままおいた豆と比較すれば、実入りが悪いという。しかし、馬を飼うために飼料が不足するので、仕方なく葉をとって貯蔵するのである。また、ところによっては、豆の葉が繁茂することをきらい、上部を鎌で刈って摘心すれば枝が出て収量が多くなる、といって刈ることがある。しかし、葉を刈るころになれば、子実になる花はすでに内側にできているので、刈ったとしても特に花が増加するわけではない。自然の生長に応じて、よく管理して収穫するほうがよいだろう。
 (「同上」現代語訳 P113-P115)



 この「郷鏡」の著者は農民に対して農業の指導やアドバイスをしていたようだが、一方の農民の言葉はここには全く出てこない。ただし、引用文3.の「豆の葉をとり、これを乾燥して家畜の飼料にするため」というところに、なぜ農民たちがそうするのかということが触れられているのみである。

 わたしは、この文章から連想したことがある。この著者と農民の関係は、現在に置き換えてみると、学校の先生と生徒、知識人や国の官僚とわたしたち普通の生活者や中小企業の経営者、など現在に置き換えて見ることができそうだ。そういう関係の中では、生徒や普通の生活者の内心のほんとうの言葉がそういう公的なよそ行きの場ではほとんど発せられることはないから、先生や官僚などの言葉がのさばることになる。そうすると、その「郷鏡」という表現の位置もはっきりしてくるように見える。

 そういう視点でこの農書「郷鏡」を読むと、なるほど農民たちはそんな農の工夫もせずに怠惰な生活を送っているのかという視線とは別のものが浮上してくるかもしれない。ただ、当時の農民たちはここでは何も語っていないから、現在のわたしたちは現在の関係の実感から想像力を働かせるほかない。しかし、この「郷鏡」をそのまま読んでいくと、割と最新の農の技術に通じている著者に対して、この地の農民たちはなんと遅れているのだ、非効率的で怠惰な生活をしているのだという感想が大勢を占めそうな気がする。わたしも説得されそうになった。そのことは現在の知識人や官僚たちの言葉についても同様であろう。

 まず、引用文の2.が諫早のある地域の多数の普通の人々である「百姓」の食生活に触れている。この著者は、武士であろうから農民から年貢として収奪した米をほとんど毎日食べていたのだろうか。武士でなくても、江戸の庶民の食事にはごはんが出ていたそうである。したがって、その食事内容にも地域差があったようだ。しかし、この地では祭りの時は別だろうが米はほとんど食べていないように見える。

 わたしたちは現在の生活(食生活)を無意識にでも携えて江戸期のこの地域の場面に下りて行こうとする。そして、たいへんな食生活だなと思ったりするかもしれない。また、米の食事が出来る武士階層でも現在の生活(食生活)の視線からすればずいぶん質素な食事であることがわかっている。しかし、武士階層に年貢として収奪されるということの内側の、その当時の生活世界の内部では、飢饉の時とかは別としても、現在のわたしたちの食生活と似て、それなりの食事の工夫や満足感を持っていたろうと思われる。かれらには遠い未来のわたしたちの現在は不明であるからである。どうしてこういうことに触れるかといえば、できるだけ当時のこの地域の実相に迫りたいからである。と同時に、わたしたちの現在の世界に対しても、同様な視線で迫ってみたいと思うからである。

 わたしの家はわたしが小さい頃兼業農家であり、また高度経済成長以前で現在のような消費社会ではなかったから、まだ自給自足的な要素が残っていて、例えば、農作業に活用する縄は稲を収穫したワラを材料にして編んでいた。わたしも小さい頃、遊び程度だったか手伝いだったかは忘れてしまったけれど、「わらで縄をなう」ということを何度かした覚えがある。わらをそのままなうのではなく、1.にあるようになんらかの下処理をしたワラを使って縄をなっていたと思う。この著者が刈り取った稲の乾かし方で述べるように、確かに水に濡れたような粗悪なワラは縄の良い材料にもならない。この著者の言うことは、確かにわかる。

 しかし、引用部の1.3.からは、この著者の視線の特色が現れている。この地域の農民は、元来頑迷なまでに保守的で、他の地域の農民と比べても農においての工夫をして生活を良くしようとする姿勢が感じられない、という「遅れた啓蒙すべき農民」というイメージである。この「郷鏡」全体から著者の姿は浮かび上がってくる。たしかにこの著者は農民たちの「幸」を願っているが、そのことは同時に良い品質の米や作物を作り、もっと収量を上げるように工夫し勤勉に働くべしという治者の視線と二重化している。

 ちなみに、当時の絶えず飢饉の恐怖がある時代と現在をそのまま比較はできないとしても、この「郷鏡」の作者が当時の農民に向けた眼差しは、例えばわたしが趣味のようなものとして農作物を少しばかり育てているのに向けられるであろう眼差しと同一のように思う。著者によると当時の農民は「農の感動」など無縁なような、工夫しない怠惰な存在として描写されている。当時の農民たちも農に出て、あるいは秋の収穫で、しみじみと「農の感動」を味わったに違いない。ちょうど、現在の子どもたちが知識を詰め込んで成績向上のためだけに存在しているわけではなく、また、わたしたち生活者がたんに仕事のためだけに存在しているのではないのと同様に。農政学者でもあった柳田国男は「農の感動」にどこかで触れていた。わたしはその言葉に出会ってびっくりした。あまりにもそういうことに触れ得ない知の世界ばかりだからである。こういう言葉を内に秘めていない、農業学や経済学や思想などの学問や学者は信じるに足りないとわたしは思っている。

 上にこの「郷鏡」の著者と農民という関係を、学校での先生と生徒、市民社会での知識人や官僚と普通の生活者という関係の構造と類比して考えてみたが、そこにおいて現在でも「遅れた啓蒙すべき」というイメージは、主流に底流しているように見える。学校の先生なら、自分が他所の学校にいた時のその進学校の生徒の積極的で勤勉な姿勢と比べてこの学校の生徒は何なんだと言う場合がありそうに思う。官僚が地域の説明会などで一見ていねいな役人言葉で語り、内心人々の無知を批判しているかもしれない。

 まず、この「郷鏡」が書かれた江戸期の、佐賀藩から諫早に渡る当時の著者(武家層、役人)と農民たちの関係の風景があり、そしてそれに眼差しを向ける現在のわたしたちがいる。当時の風景を具体性のイメージとともに思い浮かべることはとても困難である。しかし、ここで述べてきたように、現在にもそのような関係の構造は連続しているから、現在の関係の構造から逆に当時の「郷鏡」を現在的に読むことが可能だと思う。

 現在の主流に居座っているように見える欧米的なグローバリスト・新自由主義者たちの知識層や官僚は、効率・工夫・収量などにおいてこの著者と類比的に同一であり、かれらの視線から見て効率・工夫・収量などへの意識で劣っていて啓蒙されるべき生徒や普通の生活者は当時の農民に類比的に同一であると言える。このように理解するならば、「郷鏡」を現在的に読んだと言えるのではないかと思う。


表現の現在―ささいに見える問題から 25 (言葉の理解ということ)

2017年09月28日 | 批評

 同時代に表現された言葉を聴いて理解したり、読み進め理解していくということは、たやすい場合もあれば難しい場合もあります。話し言葉でも書き言葉でも、例えば展覧会の案内(文)などの事務的な場合は、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の概念を借りれば「指示表出」中心だから、日時、場所、期間などが中心で理解が困難ということはありません。もちろん事務的と言っても、お役所への提出書類などでは記入例が書いてあっても一般に煩雑で、何のためにこんな面倒なことをさせるのだろうかと記入を求める書類に理解しがたい思いを抱くことはあります。また、数学や生物学や経済学など専門性を要求する学問の各領域の文章では、「指示表出」中心と言ってもその専門性に通じていない素人には理解が難しいということがあります。

 それ以外で、一般に理解が難しい場合は、「自己表出」中心の個や作者の固有の考え方が込められた表現を理解する場合です。次に挙げる作品は、作者の固有のものの感じ方や考え方といっても、今を生きる人々の大多数がそう感じ考えるようなこと(「マス・イメージ」)が基になっています。もちろん、それらのマス・イメージを意識的にか無意識的にか借りてきているとしても、作品の言葉として選択し構成するのは、固有の作者です。


1.輝いてますねと言ってムッとされ (2017.9.24)

2.読まぬまま同意に慣れて怖いなあ (2017.9.25)

3.レジの娘(こ)が知り合いなので買えぬ本 (2017.9.25)
         (万能川柳 毎日新聞)



 1.は、相手がスポーツか何かの仕事かはわからないけれど、活躍したのをあなたは「輝いてますね」と「私」がほめたけれど、相手は自分の頭がハゲていることにも触れられたような気がしてムッとしたということだろう。ちょっととってつけたようで笑いをねらったようなところがある作品です。
 背景に、ハゲていることを気にしない人もいるだろうが、頭がハゲているのを気にしている人々には、それを思い起こさせるような言葉をかけた時の反応というマス・イメージがあります。

 2.は、各種保険などの契約時に示される文書やネットでの同意を求める文書のことで、それは読む気も失せるほど長ったらしく固い言葉だから、めんどくさくて「読まぬまま同意」することがほとんどでしょう。私の場合もそうです。この作者は、そんなおそらく多数がそのようにしている行動をマス・イメージとして想像しています。そして、その行動を「怖いなあ」と感じています。わたしの場合は、同意を求める相手が信用を損なうはずがないだろうという思いからそんな「怖い」を抱いたことはありません。しかし、本当にそうだろうかと考えを詰めていけば、そういう「怖い」可能性も完全には否定できません。世の中には「オレオレ詐欺」などというものもありますから、思ってもみないようなことが起こることがあり得ます。だから、わたしたちの日常での他の似たような何気ない承認行動をはっと内省させるようなものを持っています。

 3.は、「わたし」は若い男でしょうか、知り合いの若い女性がコンビニで働いていて、しかもレジにいるから、恥ずかしくて「本」が買えないなという作品です。この「本」は当然エロ本のことを指しているでしょう。

 これらの作品を表現した作者もそうですが、わたしたち読者が作品の指し示すもの(「指示表出」)を理解するのは、同時代に生きてきてそれらのマス・イメージやその具体的な体験に何度か出会っているからです。そういう「指示表出」の下で、マス・イメージと分離しにくいですが作者固有の感じや考え、言いかえると「自己表出」が言葉の選択や構成によって作品に織り込まれています。

 したがって、逆に言えば、ちがったマス・イメージの世界である外国に長らく生活していて帰って来たばかりの青年は、書き言葉の日本語がわかったとしても、それらの作品の背景にあるマス・イメージを知らないから作品の意味をつかむのは難しいでしょう。また、この日本で生まれ育ったとしても、2.の作品ような経験の無い少年ならその作品は何を言っているかわからないでしょう。

 このように、わたしたちは、自分の考えとか自分の個性とか自分独自のファッションとか言ったりしますが、どこかにそれらの出処がマス・イメージとしてあることがほとんどでしょう。それらをそのまま借りてきても月並みで感動に乏しいですから、マス・イメージを自分(作者)でよくよく咀嚼し自分なりの感じや判断を自分独自の色合いのように塗り上げていくのでしょう。