宮沢賢治に「花壇工作」という小品がある。ずいぶん前に、宮沢賢治が花壇の設計や工作をしていたということをわたしが知ったとき、この小品をあわせて読んだ覚えがある。
この小品の作者である宮沢賢治自身が、花壇の設計や工作をやっており、全集にはその設計図が残されている。この小品は、宮沢賢治の体験的なものを素材にしていると言えるだろう。ちなみに、(「宮沢賢治---Kenji-Review」第413号--2007.01.20 http://why.kenji.ne.jp/review/review413.html )によれば、以下のように宮沢賢治が実際に体験したことをもとにこの小品が書かれているという説明もある。
今回掲載の「花壇工作」は1924年におこなった花巻共立病院の花壇作りのことを書いています。この年賢治は花巻農学校の教師をしていて、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版しています。
花巻共立病院は賢治の主治医だった佐藤隆房が創立した病院です。現在は総合花巻病院という名になっています。ご子息の佐藤進氏が理事長になっておられ、数年前に宮沢賢治学会のセミナーでお話をうかがいました。
以下、小品「花壇工作」の全文である。
おれは設計図なぞ持って行かなかった。
それは書くのが面倒なのと、もひとつは現場ですぐ工作をする誰かの式を気取ったのと、さう二っつがおれを仕事着のまゝ支那の将軍のやうにその病院の二つの棟にはさまれた緑いろした中庭にテープを持って立たせたのだ。草取りに来てゐた人も院長の車夫もレントゲンの助手もみな面白がって手伝ひに来た。そこでたちまち箱を割って拵えた小さな白い杭もでき ほうたいをとった残りの晒しの縁のまっ白な毬も出て来た。そこでおれは美しい正方形のつめくさの絨氈の上で夕方までいろいろ踊るといふのはどうだ (註.1)あんな単調で暑苦しい蔬菜畑の仕事にくらべていくら楽しいかしれないと考へた。それにこゝには観る人がゐた。北の二階建の方では見知りの町の人たちや富沢先生だ富沢先生だとか云って囁き合ってゐる村の人たち、南の診察室や手術室のある棟には十三才の聖女テレジアといった風の見習ひの看護婦たちが行ったり来たりしてゐたし、(註.2)それにおれはおれの創造力に充分な自信があった。けだし音楽を図形に直すことは自由であるし、おれはそこへ花で Beethoven の Fantasy を描くこともできる。さう考へた。
そこでおれはすっかり舞台に居るやうなすっきりした気持ちで四月の初めに南の建物の影が落ちて呉れ〔る〕限界を屋根を見上げて考へたり朝日や夕日で窓から花が逆光線に見えるかどうか目測したりやってから例の白いほうたいのはじで庭に二本の対角線を引かせてその方庭の中心を求めそこに一本杭を立てた。
そのとき窓に院長が立ってゐた。云った。
(どんな花を植えるのですか。)
(来春はムスカリとチュウリップです。)
(夏は)
(さうですな。まんなかをカンナとコキア、観葉種です、それから花甘藍と、あとはキャンデタフトのライラックと白で模様をとったりいろいろします。)
院長はたうたうこらえ兼ねて靴をはいて下りて来た。
(どういふ形にするのです?)
(いま考へてゐますので。)
(正方形にやりますか。)
どういふ訳か大へんにわかにその博士を三人も使ってゐる偉い医学士が興奮して早口に云った。
(A)おれはびっくりしてその顔を見た。それからまわりの窓を見た。そこの窓にはたくさんの顔がみな一様な表情を浮べてゐた。愚かな愚かな表情を、院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらうといった風の――えい糞考へても胸が悪くなる。
(えゝもう どうせまはりがかういふぐあいですから対称形より仕方ありますまい。)
おれも感応した帯電体のやうにごく早口に返事した。院長がすぐ出て行って農夫に云った。
(その中心にきれを結びつけてこゝのとこまで持って来て、さうさう それから円を描きたまへ。関口、そこへ杭をぐるっとまはすんだ。)
院長は白いきれを杭の外へまはした。
(註.3)あゝだめだ正方形のなかの退屈な円かとおれは思った。
(向ふの建物から丁度三間距離を置いて正方形をつくりたまへ。)
(註.4)だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに練瓦をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに練瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ。もう今日はだめだ。設計図を拵えて来て院長室で二人きりで相談しなければだめだと考へた。
(A)おれはこの愉快な創造の数時間をめちゃめちゃに壊した窓のたくさんの顔をできるだけ強い表情でにらみまはした。ところが誰もおれを見てゐなかった。次におれはその憐れむべき弱い精神の学士を見た。それからあんまり過鋭な感応体おれを撲ってやりたいと思った。
(「花壇工作」 宮沢賢治 青空文庫)
まず、花壇を工作する園芸家も、たんなる仕事と割り切っていたとしても、その時代の流行の感じ方や考え方、つまりマス・イメージの影響下にあるだろう。さらに、この小品の「おれ」、すなわち作者宮沢賢治のように芸術的な理念を持っている場合もあるだろう。
(註.1)によると、この小品の主人公の「おれ」は、花壇工作をしている者であるが、「単調で暑苦しい」野菜畑の仕事もしている。そして、花壇工作を楽しく晴れがましいものと見ている。
(註.2) (註.3)(註.4)によると、「おれ」は自分の創造力に十分な自信を持っていて、花壇工作に音楽性を表現したり、自然時間の推移とともに変化する花壇の表現を考えている。つまり、「退屈」でない動的な生命感の表現を目指しているように見える。
この「花壇工作」という小品は、上に引用した「宮沢賢治---Kenji-Review」第413号の引用文によると、1924年頃に書かれていることになり、宮沢賢治が花巻農学校を退職して「羅須地人協会」を設立した1926年の少し前に当たっている。「農民芸術概論綱要」は、本文末尾の「結論」によると1926年にに書かれていることになる。その本文中にも、「農民芸術の分野」の項目に「光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む」とある。つまり、1926年に「羅須地人協会」を設立して「農民芸術概論綱要」などに表現されたようなイメージや構想を実践しようとした流れの中に、この「花壇工作」という小品は位置づけられるのではないかと思う。
このころ宮沢賢治は、普通の大多数の人々(農民)が日々生きていく中での生命的な表現、すなわち芸術表現として、それらはひとつの総合性を持った実践的なものとしてイメージし構想していたことが窺える。花壇工作もそのようなものの一環として位置づけられていたはずである。
(A)に見られるのは、「あんまり過鋭な感応体」である「おれ」の対人関係における鬱屈の表現であるである。こうしたことは、作者宮沢賢治が後の短かった「羅須地人協会」での実践活動や農業肥料指導などの活動でも他者との関わり合いの中で当面したことだと思われる。詩作品にも時々そうした鬱屈が表出されていたように記憶する。これらの鬱屈や怒りやあるいは沈黙は、宮沢賢治が「農民芸術概論綱要」などに表現したイメージや構想が、現実の方から試された、試練を受けたということを意味している。そうして、こういうことは、関係的な世界を本質とするこの人間界で、わたしたちの日常において、あるいは日常を超えて思い描く観念や思想において、誰もが当面する問題でもある。
※ 最初の(A)の部分の、「院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらう」の「頭が動く」という言葉にわたしは出会ったことがなかったが、これは身体的・物理的なものではなく、頭が良く働くくらいの意味であろう。
自然界は別にしても、この人間世界では人と人との関係やそれらの総和としての社会の動きや歴史は、まだその本性が十分に解明されていないとしても人間の本性から個的、対的、共同的に表出されるものに規定されているはずである。見かけは個々人ばらばらの考えであったり、二昔前の社会とはまったく違った現在の社会のように見えて、そこには「主流」とも呼ぶべきものが流れている。それを主流の動向と呼ぶことができる。
それはまた、吉本さんが使った概念で言えば、「歴史の無意識」と言ってもよい。人間の社会の動向や歴史には、そのような主流が流れているとしても、支流もある。一時的には支流に過ぎないのに政治力(強力)によって無理にゆがめたりしてそれを主流であるかのように修正し振る舞うことはできる。
ちょうど現在の、歴史の主流に逆行する復古的なイデオロギー政権のように。その考えはわかりやすい例えで言えば、自分たちはちゃっかり便利な全自動洗濯機を使って現在の文明のもたらしたものを享受しているくせに、わたしたちには洗濯板で洗濯しろと要求しているようなものである。洗濯板は味わいがあって良いわあという個人的な好みは別にしても、もはや社会的には全自動洗濯機から洗濯板に戻ることは不可能である。それが文明の主流の必然的な動向である。
現在の社会の段階は、やっとわたしち普通の生活者が社会の主人公になれる可能性を前面の方へ押し出している。しかし、まだまだ主人公としての物語を具体的に描けるには至っていない。今までの負の遺伝子が政治でも社会組織内でもまだまだのさばっている。
この主流と支流の問題は、例えばケイタイの使用・不使用、手書きかワープロ書きかなど文明の過渡に浮上してくる様々な具体的な問題への人々の三つの反応類型(親和、反発、中性)としても表現されている。文明の主流の動向への退行的な反発は不安の表出から来るものだとしてもそれが主流に押し流されていくのは必然だ。
人と人との関係や社会や歴史の動向が「主流」を避けようもなく必然とした道行きとしているというのなら、人は何も他者や社会に働きかけることなく寝転んでいればいいではないかという考えもあり得る。しかし、先に述べたように一時的にも強力によって支流をねじ曲げて主流とすることができる。
私たちの生涯は目下100年前後で、そうした場合死後にしか訪れないかもしれない「主流」に反転するのを待ってはいられないのである。わたしたちがこの現在において足掻き、行動する所以(ゆえん)である。
(ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)
[短歌味体 Ⅲ] 即興詩シリーズ・続
1828
雨乞いの呪文は言わぬ
見上げると
暗雲暗躍暗闘、無縁。
1829
降り続く願いもしない
暗雲に
黙々と土のうを積む
又吉直樹『劇場』を読む
前作『火花』の独特な自然描写が目に留まり、少し考察してみた。そのわたしの関心のモチーフの続きとしてこの『劇場』という作品ではどうなっているだろうと読んでみた。
この作品の物語性は複雑ではない。定職には就かず脚本を書いたり演出したりする演劇の活動に熱中している「僕」(永田)という若者が、ある日沙希と言う名のひとりの女性に出会い互いに好きになり、「僕」は沙希のアパートに転がり込む。そして、「僕」との関係の有り様に疲れて病んだ沙希は、故郷に帰ってしまい、それが二人の別れとなるという物語性である。この物語の主流に「僕」の学生時代からの友達や他の劇団や沙希の仕事先の者がいくらか関係してくる。物語の繰り広げられる世界は、広くはない。しかし、現実のわたしたちもこの物語世界のような小さな世界を生きている。そういう意味では、ありふれた物語世界の規模だと言える。
一度だったか、沙希が寝ている同じ布団かベッドに「僕」がもぐり込んで文字通りいっしょに寝たという描写があったくらいで、村上春樹の近作の濃厚な性描写と比べて性描写はまったくない。また、互いに心ときめき合うような描写もほとんどない。つまり、沙希と「僕」とがどの程度の関係の深さなのかがよくわからない。わたしがふと思い浮かべたのは、古代以前にこの列島社会に存在したといわれている宗教・政治を兄妹 (姉弟) で分担し合うヒメ・ヒコ制のことだった。沙希と「僕」は、血のつながりのない他人であるが、「僕」の内面には兄(または弟)として沙希に支えて欲しい、寄りかかりたいという心性があるように描写されている。ああそういう支え合いが、集落や小国家の社会統治レベルでも発動していたのだろうなということを連想させた。
ところで、この作品がそのような小さな規模の世界をありそうな登場人物たちが関わり合い、主人公の「僕」が恋をして別れてしまうというふうに見れば、たくさんのありふれた物語世界や作品に埋もれてしまうだろう。さて、この作品の特異さはどこにあるのだろうか。
まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだと思ったりもするけれど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える。
(『劇場』P5)
これは、この作品の出だしである。この続きは、一行空いて「八月の午後の太陽が街を朦朧とさせていた。半分残しておいた弁当からは嫌な臭いがしていて、こんなことなら全部食べてしまえばよかったと思った。」となっている。おそらく一般的な作品の出だしは、この続きの部分から始まるような気がする。つまり、読者からするとこの引用部分は無用のものに見える。特に子どもがある場に置かれてその場に興味関心が持てずに手持ち無沙汰であるとき手混ぜしたりよそ見したりしているような表現に当たっている。しかし、作者にとってはこの描写は欠かせないものとしてあるのかもしれない。屈折した表現だと思う。次は、前の引用の続きである。ここも屈折した表現、つまり普通は余りなされない表現になっている。
僕は新宿から三鷹の家に早く帰りたかったのだけど、人込みのなかで真っ直ぐに立っていられる自信がなく、到底電車に乗れる状態ではなかった。どこでもないような場所で、渇ききった排水溝を見ていた。誰かの笑い声がいくつも通り過ぎ、蝉の声が無秩序に重なったり遠ざかったりしていた。ついにきっかけもなく歩き出してはみたけれど、それは家を目指して歩いていたわけではなく、ただ肉体に従い引きずられているような感覚に近かった。僕の肉体は明治通りを南へ歩いて行くようだったけれど、一向に止まる気配を見せなかった。
自分の肉体よりも少し後ろを歩いているような感覚で、肉体に対して止まるよう要求することはできなかった。表参道とぶつかる原宿の交差点に近づくと、急に人が増えたように感じた。いや、少し前から人は増えていたのだと思う。人波にのまれ、あらゆる音が徐々に重なったが、自分の足音だけは鮮明に聴こえていた。暑さよりも人の匂いが鼻をついてむせた。一方で、何かに身をゆだねている心地良さもあった。
人と眼が合わないように歩く。人の後ろの後ろにも人がいて、更にその後方に焦点を投げていると誰とも眼は合わない。人の顔の輪郭はぼやけていて、明瞭な線としてまとまりかけたら自分がうつむけばよかった。眼を下に向けると、いろんな靴があるものだなと思う。靴ははっきりと見える。みんな靴をはいている。こちらを睨むように見る人も、苦悩に充ちた表情の人も、誰もが靴を買いにいった瞬間があると思うとおかしかった。空の青さと何の形にも見立てることができない雲の比率がほとんど偽物のようだった。
(『同上』P5-P6)
「暑さよりも人の匂いが鼻をついてむせた。」とあるように「僕」の心は、外界の人に対して過敏に反応している。その過敏さは「自分の足音だけは鮮明に聴こえていた。」のように表れている。ここには「僕」の外界に過敏に反応し、屈折していく心象風景がある。大多数の普通の人々の現実と見なされるものから少し落ち込んだ場所に作者は「僕」を設定している。そこからは「人と眼が合わないように歩く。人の後ろの後ろにも人がいて、更にその後方に焦点を投げていると誰とも眼は合わない。人の顔の輪郭はぼやけていて、明瞭な線としてまとまりかけたら自分がうつむけばよかった。」など「僕」の独特な生活上の技法が生まれてくる。そして「眼を下に向けると、いろんな靴があるものだなと思う。靴ははっきりと見える。みんな靴をはいている。」というふうに「僕」の存在する場所からの感覚的な表現が生まれてくる。
わたしは、この作品の出だしから読むのが疲れた。読むのに疲れるということは、主人公の「僕」がこの世界に対する異和やその世界内での自分自身に対する異和が、文体として屈折した異和の表現をなしているからである。たとえば、日常で相手が屈折した感情を示したり、ごねたりしてきたら、応対するあるいは目撃するわたしたちは、おそらくいい気分や感情を持たないだろう。ちょうどそのような文体になっている。物語が進行して、「僕」が沙希と出会い、ふたりの生活が始まってからはそういう文体は消失していったような気がする。割とスムーズに作品を読み進めることができた。気がするというのは、読者であるわたしがその屈折した文体に慣れてしまったからではないかという疑念があるからであるが、初めの屈折した文体は、「僕」と沙希との関係の屈折の描写に転化していったように見える。
前作『火花』の自然描写は、昭和初期頃の新感覚派の文体の模倣ではないかと思われる部分もあったが、この作品では「僕」や「僕」の関わり合う世界の表現として、作者の独特な屈折した文体を獲得しているように見える。
「文体」についての覚書
例えば、わたしたちが初めて誰かと出会ったとする。わたしたちは、相手の表情や仕草や言葉の選択やしゃべり方などから人柄や性格のようなものを感じ取る。つまりひとりの人が様々な表現として外に放つ固有の存在感を感じ取る。この場合、自分がこの列島社会で生きてきて経験として蓄積した人に関する抽出された共通性(普遍性)のようなものが、他者を感じ取る場合の基準になっている。そこには人に関する抽出された共通性と共にその人固有の屈折や付加もある。このようなことは、生身の他人に限らず、テレビに登場する司会者などの人物に関しても言えるだろう。表現された言葉の「文体」というものもそれと同様のものではないだろうか。
「文体」という言葉はよく使われるが、何のことを指しているのだろうと思ったことがある。学校では「である」体か「です・ます」体かくらいに形式的なものとして文体は扱われていた。たぶんその言葉は、ヨーロッパ由来の近代に始まる言葉や概念と思うが、文章のスタイルや修辞・技法などの表現の形式的なことを指しているようなイメージをわたしは持っていた。しかし、わが国で使われている「文体」の意味やイメージは、それに留まらず作者という個の存在の固有性と関わりあるような使われ方をしている印象がある。そこには、ヨーロッパ的な言葉とアジア的な言葉との対象を捉える時の捉え方の違いが出ているように思われる。(因みに、中国に「文体」という概念があるのかどうか、あるとすればどんな概念なのかについては知らない。)ここに、ひとつの「文体」の捉え方がある。
ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された 時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移をかんがえることができるかという問題である。いままで言語について考察してきたところでは、この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を自己表出としての言語から時間的にあつかうのである。
(『全著作集』6,勁草書房、163頁)
わたしたちのいままでの考察では自己表出としての言語の表現史というところまで抽出することによって、(文学史の:著者註)必然史は可能とならなければならない。なぜならば、言語の表出の歴史は、自己表出としては連続的に転化しながら、指示表出としては時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからである。
(『全著作集』6,164頁)
ここで言われている「文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげ」た表現言語空間とは、前節の最後にまとめた、「表現作用素の一般性の部分のみが作用したものとみなし」て抽出したものである。そしてみてきたように、文字で書かれたためにここでいう自己表出は、選択・転換・喩という表現の定型によって、これと指し示すことができる実在性をもって表現のなかに存在し、三浦つとむのいう「主体的表現のための言語」に注目しつつ逐語的に追跡し、比較していくことによって、自己表出性の度合い、程度、水準は考量できる、と考えてきたのだった。つまりここで考察する対象は、文学作品をその「自己表出の実在的な担い手である定型、即ち、選択・転換・喩の実相としてみたもの」ということができる。そして、作品をこのようなものとしてみた時、これを本稿では「文体」と呼ぶことにする。
吉本隆明は『言語・美』において文体とは何か、という議論を直接にあらわな形ではやっていないが、私は右のように考えて間違いないと思う。人は、「作品を選択・転換・喩の実相としてだけみたものを文体と呼ぶ」といわれたら、ひどく切り詰められたように感じるかもしれないが、そうではない。追跡行を振り返ればわかるように、言語表現における定型は、人間の存在本質である自己対象化の力が発揮された結果としての言語の自己表出性を、書くという世界で直かに担い示す、重要な意義をもつものとして定立されたのであって、文芸作法などによくある、個性的な切り口だの言い回しなどの「技法」と同列の概念ではないことに注意が必要であろう。
(『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』「文体空間の基底」P94-P95 柴田弘美 2014年)
引用の冒頭の「ここ」というのは、『言語にとって美とはなにか』Ⅳ章「表現転移論」の「1 表出史の概念」から引用された部分を指している。そして、「ここ」というのは、作品から作家の個性などの固有性を退けて、抽象化し抽出された構造を指している。この引用部分での「文体」の像をもう少しはっきりと浮かび上がらせるために柴田弘美の言葉をもっとたどってみる。引用の前の章の終わり辺りで次のように述べている。
・・・・・・即ちここで振り返ってみれば、吉本隆明が遠山啓の特別講義で出会い、獲得したと考えられる「構造」の世界では、「行為する人間」は「作用素」として、むろん高度に抽象化、形式化されてはいるが、その本質を保持し存在することができるのではないか。いいかえれば、いわゆる「構造主義」が捨ててきた「人間」あるいは「主体」という概念は、日常的で具体的な生身のそれとしてではなく、疎外-外化された「作用素」として、つまり「構造」という把握が成り立つレベルの抽象水準において、「構造」世界に生きぬくことができるのではないだろうか。
そして、本稿のそもそもの発端が、『言語・美』と、量子力学に数学的基礎を与えた位相解析学とが大変よく似ている、という直感であったことを想起してみれば、私たちはここで、表現者=作家を構造的な言語空間のうえで働く「作用素」として抽出し、把握する途についたものと考えられる。
もう少し正確にいえば、私たちは〈書く〉という行為のうち、誰が、どこで実践しようとも、必然的に実現してしまう、普遍的一般性の部分を、構造的把握の成り立つ水準において、把握したのである。その「作用」は、表出言語の一般性を、文字によって、固定的で実在的な、表現言語空間へと変成するとともに、表現言語空間のある部分をまた他の部分へと写像する。即ち「作品」を成す。そしてこの際、表現言語空間に積み重ねられた「定型」による自己表出性の実在的あり方を、程度の差はあれ、連結し、受け継ぎ、また推進する。
ところで当然のことながら、現実の作者あるいは表現者は、「書くことの一般性」のみ担う《表現機械》として存在することはありえない。必ず、固有の肉体をもち、固有の感性と資質をもち、特定の歴史的、時代的な、また社会的環界のうちにあって固有の関係を取り結び、固有の意志を形成しまた変動させつつ存在してきたし、今も存在している。その固有性が表現に全く影響を及ぼさないわけはないし、実際及ぼしてきたのである。したがって、表現者個人を表現言語空間上の作用素へと抽出する、という本稿の意志と関心からは、この個体の固有な現存性が表現に関与するところのものを、構造的把握の成り立つ水準、「書くことの一般作用」と同等の水準にまで抽出し、「普遍的一般性」と「固有な現存性」との二重の構造をもつものとして、「表現作用素」の概念を組み立てようと考えるのは必然である。
( 『 同上 』 P90-P91 )
人間のもつ類的な必然性と個体的な現存性とを、相容れないものとせず、互いに独立であるものとして同在させる、吉本の弁証法的な考え方を先に検討しておいたのだが、まずそれは、自己表出の連続的な転化と指示表出の時代的、個的現存性として現れた。今人間の〈書く〉という行為を抽出するにあたって、右のような「類的、普遍性一般性」と「個的、時代的な現存性」の、人間の避けられない本質的規定性を担う二面性を、表現作用素の二重性として表すことは、これまでの行論からは自然である。
では表現者の個的現存性はどこにどのように現れるかといえば、みてきたように、それは言語の指示性に現れるのだった。
ここで改めて『言語・美』の全体を見渡してみると、第Ⅳ章が表現転移論、第Ⅴ章が構成論となっている。これまでの追跡行を踏まえるなら、この二つの章は明白である。「表現転移論(表出史論)」とは、右にみた表現作用素の一般性の部分だけが作用するものとみなした時、表現言語空間はどのようにあらわれ、作品群はどのように史的にふるまうかを追跡したものといえる。つまり自己表出性の変容にのみ焦点をあてているのだ。そして「構成論」は、さらに表現作用素の個的現存性をも含めた全体が作用した時、どうなるか、という問題を、〈書く〉ということが出発した時代に焦点をあてて、「構成」ということの意味を明らかにしつつ考察したもの、といえよう。
( 『 同上 』 P92-P93 )
これはわたしの納得のいく捉え方であるが、柴田弘美の「文体」という捉え方は、吉本さんの「話体」と「文学体」とを基軸とした「表現転移論」に近い捉え方をしているように見える。つまり、作品を抽出された抽象性として、作者の「個的現存性」は考慮に入れていないように見える。上の引用の二つ目の「表現言語空間のある部分をまた他の部分へと写像する。即ち「作品」を成す。そしてこの際、表現言語空間に積み重ねられた「定型」による自己表出性の実在的あり方を、程度の差はあれ、連結し、受け継ぎ、また推進する。」という抽象性の水準で、作品の表現を捉えたものを「文体」と呼んでいるように見える。つまり、「選択・転換・喩」という具体的、実在的な定型によって担われた自己表出の水準や有り様として。柴田弘美が、自分はこれを「文体」と呼ぶということには文句はない。しかし、慣用的な使い方とは違うような気がする。
柴田弘美も触れているけれど、 「文体」という言葉は江藤淳の『作家は行動する』にも出てきた。しかし、文体の定義はなされていなかったように記憶している。吉本さん自身もよく使い、また一般にもよく使われているけれども、「文体」とは何だろうというという疑問から、わたしも吉本さんの『言語にとって美とはなにか』に「文体」の捉え方がないかと以前調べたことがある。言葉はあったけれども「文体」を定義したものはなかった。たぶん吉本さんの場合は、「文体」という言葉の慣用的なイメージや使い方で十分だという思いがあってのことだと思う。そこで、わたしなりに「文体」について考えてみたことがある。以前どこかに書いたことがあるが見つからないので、もう一度書き出してみる。これは、文学作品を想定して書いているが、思想でも身辺雑記でも事務的な文章でも当てはまるものとして書いている。
〈現実〉世界を呼吸する人が、〈作者〉に変身して内心の何かに促されるようにしてある〈表出〉の欲求を携えて何ものかを文学的な表現の〈言葉〉に表現しようとする過程に入ったとき、現在まで蓄積されてきた〈表現世界〉の歴史的な現在性と関わり合いながら(助けられたり親和したり反発したりしながら)、言葉を表現していく。その表現の過程での作者固有の言葉の織り成しを「文体」と呼ぶべきではないかと考えたことがある。
わたしはこんな風に「文体」を考えてみた。これに対して、柴田弘美の「文体」の捉え方は、作者の固有性を退けて「選択・転換・喩」という実在的な定型に担われた自己表出の有り様という或る抽象性を指していて、一般になんとなく使われている「文体」という捉え方とは違うように見える。しかし、ふだんわかるようでわからないというあいまいさのままで使われる「文体」というものに、遠山啓の吉本さんに与えた数学的な考え方の強い影響があるということとその論理的な駆使が『言語にとって美とはなにか』においてもなされているという場所から、『言語にとって美とはなにか』を読み解く道程につき、そこから放たれた「文体」の捉え方である。わたしはまだ本書を読み終えていないし、十分に理解できているとは言えないけれど、本書は悪しき「文系」的な印象や論理の言葉の世界にいい意味での「理系」的な風通しのいい論理の言葉を駆使して見せているように見える。本書を読む上で少しは現代数学の近辺の素養が必要と思われるが、複雑で多様な現実というものを抽象と抽出と基軸というものによって構造化する論理になじめば割とすっきりとした視野が開けてくるような気がする。吉本さんの『言語にとって美とはなにか』を読み解く上で大きな助けになると思う。
わたしの「表現の過程での作者固有の言葉の織り成しを『文体』と呼ぶ」という大雑把であいまいな捉え方に対して、柴田弘美の方は、『言語にとって美とはなにか』に沿いつつ「表現言語空間」での構造的な関わりとして「文体」を明確に定義しようとしている。私から見て通常の「文体」の意味やイメージとは違うのではないかということは、とりあえずどうでもいい。このような「文体」を論理的に概念や位相として位置付けようとすることが貴重だと思う。少し「文体」に触れるつもりが、柴田弘美の「文体」を捉えようとしたら、次第にこの著作自体を読み解かなくてはならないように感じられてきた。この辺りで止めておきたい。
ここで、柴田弘美の「文体」を潜り抜けた上で、改めてわたしの「文体」把握を述べてみると次のようになる。
1.吉本さんは以下に引用(註.1)するように、「言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩」としているが、柴田弘美のは「選択・転換・喩」となり、なぜか「韻律」が入っていない。ただし、本書に引用されている、吉本さんが三浦つとむに触れた『初源への言葉』の文章では、「作者が、意識せずにつかっているめまぐるしい認識の〈転換〉が、詩歌の美を保証している。わたしは、これを緒口に、〈場面〉、〈撰択〉、〈転換〉、〈喩〉の順序を確定し、この四つが、現在までのところ、言葉で表現された作品の美を、成り立たせているだろうという、理論の根幹を、形成することができた。」( 『 同上 』 P77 )とある。ここでは三浦つとむに倣って、「詩歌の作品の言葉」を一字一字たどり、それ毎に「背後にある作者の認識の動き」推量してみたということから、〈場面〉、〈撰択〉、〈転換〉、〈喩〉と表現されているものと思う。
2.わが国では「文体」は通俗的な概念としての使用から見ても、文学であればその「文学作品」の全体が作者の固有性に関わっている概念である。つまり、ある人の持っている、あるいは放っている人柄や性格のようなものである。したがって、以下に吉本さんの『言語にとって美とはなにか』から引用するように、「表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できる」「韻律・撰択・転換・喩」のレベルでは「芸術としてではなく言語表出としてあつかうということ」になってしまう。つまり、吉本さんが述べているように芸術作品として対するには「構成」の問題を取り上げなければならないと思われる。
言いかえると、作品の「韻律・撰択・転換・喩」だけでなく、「構成」も意識しながら作品を読み取ったとき、その作品全体から放たれてくるものをその作者固有の「文体」と呼ぶ。この場合、作品世界で「韻律・撰択・転換・喩」を具体的・現実的に表現するのは、作者または作者に派遣された語り手であり、それらを成すことによって作者の癖や好みや性格のようなものや無意識的なものも含む固有性も文体として刻印されることになる。
(註.1)
言葉の表現を、ややつきつめてみてゆくと、表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できることにすぐに気づく。この共通性は言語表現のながい歴史が体験としてつみかさねたものだ。結果としていえば歴代の個々の表現者がそれぞれ自由に表現したものが偶然につみかさねられて、全体としてあたかも必然なあるいは不可避なものとしてつくりあげた共通性だといえる。この共通性は、いったん共通性として意識されると、こんどは個々の表現者によって自覚的に使われたりする。こういう過程は、人間が対象にたいして行なうどんなことにもいつもつきまとうもので、言語の表現にだけ特有なものではない。
この言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩に分類すれば現在までの言語の表現のすべての段階をつくすことができる。
わたしたちはいままでに、意識の表出としての言語を、言語表現にまでひろげることで、文学の表現をあつかう前提をとりあげている。書くという行為で文字に固定すると、表出の概念は表出と表現とに分裂する。ここまでひろげることで、文学の表現論はすべての文学理論とちがった道に一歩ふみこんだことになる。・・・中略・・・げんみつにいえば芸術しての言語表現の半歩くらい手前のところで、表現としてもんだいになることをとりあつかおうとしているわけだ。この半歩くらい手前というのは言語を文学の表現とみなしながら、芸術としてではなく言語表出としてあつかうということだ。なぜこんな態度がいるのかといえば、言語表現を文学芸術とみなすにはまだ構成ということを、取扱っていないからだ。構成を扱わなければ反復、高揚、低下、表現のはじめとおわりが意味するものをしることができない。
(『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』P114-P115 吉本隆明) ※ 傍点は省略した。
※ 「文体についての覚書」としたのは、まだ『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美)や『言語にとって美とはなにか』をわたしが読み込んで十分に理解しているとは言い難いから暫定性を込めた題名になっている。(前者は、まだ読み終えていない。)つまり、本格的に「文体」に触れようとするなら、少なくとも『言語にとって美とはなにか』は踏まえるべきだと思う。ここでの「自己表出」や「指示表出」という『言語にとって美とはなにか』の基軸概念も自然なものとして使っている。本格的な自分なりの捉え返しが必要だと思っているが、ここでは「理工系」的な便利な数式だから使っているという程度の意識で引用したり使ったりしている。
上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より
1
上村武男の『吉本隆明手稿』(1978年)は中身は忘れてしまったが若い頃読んだことがある。その関連で、名前はなんとなく覚えていたので、偶然目にした『ふかい森の奥の池の静謐 古代・祝詞・スサノオ』(2011年)を読んでみた。上村武男は、一方で文学の表現に関わりながら、他方で兵庫県の水堂須佐之男神社の宮司(現在は引退したとのこと)をやっていた。この本でそのことを初めて知った。
また、上村武男の新しい本が出た。『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)である。著者によると、水堂須佐之男神社は、兵庫県にある小さな神社である。その神社にまつわる主に上村家三代(祖父、父親、上村武男)にわたる宮司に関わる文章から本書は成っている。
上村武男は、「エピローグ 鎮守の森は栄えているか」で述べている。
祖父母、父母、そして子供、孫たちが自然に集うことができる、そういう場所―それが氏神の境内であり、村やしろの鎮守の森にほかならないのであった。
そうやって、少なくとも江戸期以来、氏子・地域住民は皆、地域の神社の祭礼の日につけ、初宮参りや七五三や成人式や結婚式などといった人生儀礼の日につけ、また、おついたちや十五日のお参りにつけ、誰言うこともなく鎮守に集ってきたのである。
そこには、いわば「ゆるやかなコミュニティ」が、それと意識されないままにも成り立っていたといってよい。
上村武男は、神社の神主として絶えず自らの存在理由を問うてきたという。そうして、上記のような場面に「原初的な『自然と人間との関係性』そのものが、そこに生き生きと息づいていた」とイメージしている。たぶん、神社というものが形作られ始めた遙か太古からその場を通してくり返されてきた時間を想起しているのだろうと思う。特に明治期以降結びつけられ開拓された国家神道や神道イデオロギーとの直通にではなく、著者のような地域住民と神社の関わりこそが主眼だという考えの神主さんは少数らしい。こういう考え方は、柳田国男の神社観に近いような気がする。
現在、神社は全国に八万社はあり、尼崎には六十六社ほどあるという。しかし、その三分の二は、いつもは神職がいない、さみしい境内という。著者、上村武男は、神社の現状に危機意識を持っている。宮司だったことからはこういう危機意識は自然なのかもしれない。わたしはと言えば、近くに神主のいない神社があり小さい頃は時々その境内で遊んだものだが、その後は神社というものにほとんど関わりなく生きてきた。そんなわたしの目からすれば、太古の神社というものが形成される以前の長い時代があり、神社の時代があり、これから先の神社の終わりという時代もあり得ると思う。これはお寺も同様だと思う。現在では、葬式は急速に「家族葬」の段階に入りつつあるように見える。現在の年齢層の分布や家族のあり方などから必然的に変容している葬式の変貌だろう。このような動向は、いろんな形で社会での新たな表現として今後登場してくると思われる。それは寺社との関わり合いの形も変貌させていくに違いないし、あるいは寺社が消滅に向かうのかもしれない。しかし、それと同時に人々は新たな形の「ゆるやかなコミュニティ」を生み出していくだろうと思う。
神道が神社を通して組織化されたのは古代辺りであろう。しかし、神道自体は古代国家以前の古い要素を持っていると思う。したがって、現在のような従来的な農業の死滅に近い現状ではそれと対応するようにして生き延びてきた神社が今後衰退の一途を辿るのは必然と言えるだろう。けれど、古代国家以前の古い要素を持っている神道のような宗教性、あるいは宗教的な感受性は、わたしたちの中に生き残り続けるものと思われる。
2
著者、上村武男は、父親のことに触れている。父親が学校の先生をしながら神職であった時期は、神職は公務員で「俸給」をもらっていたという。「国家神道」が生きていた時代でこれは敗戦まで続いた。
この父親は責任感のあるしっかりした人だったという印象をわたしは受けた。ということは以下の日記の記述の文体と合わせると、この列島の住民としての平均値より少し上に位置した人だったと見なしてよいと思う。そういう人が、未だかつてなかった近代的な総力戦として普通の大衆が戦争にかり出される時代である。こうした近代戦に初めて直面したこの列島の住民の感じ方や考え方の平均的な像に近いものを、この父親が残した戦争中の日記によってわたしたちは知ることができる。
昭和二十年一月九日(火)
三十四歳になった。まだ生きていた。あゝこんなに永くいきられるとは思ってゐなかった。十七、八歳の頃は、とても三十歳迄生きられるとは思はなかったではないか。
三十四歳の新春を迎へ、両親健かに堂に存し、妻あり、男児二人ともに健康にして五歳と三歳になった。何という幸福であらう。多くの若人が特攻隊として散ってゆくとき、自分はまだかうして生きて、幸福に浴してゐる。・・・中略・・・あれこれを思へば、唯ゝ(ママ)感謝の心でいっぱいである。
一月二十一日(水)
去る十四日、米機は遂に神宮(外宮)爆撃の暴虐を敢てするに到った。あゝ、何たる事ぞ。われに対する最大の挑戦なり、許し難き侮辱なり。
君辱かしめらるれば臣死す……といふ。日本は今や、最高最貴のものを辱かしめられたではないか。
これでも憤激せざるは日本人に非ざるなり。
朝五時の必勝祈願、けさは六人だった。こんなことは始めてだ。厳寒の候となって、何人に減るかといふことは、自分のすくなからぬ興味を誘ったのであるが、今や真剣無雑なる人のみが残ったのである。
九時から防空訓練。神宮を爆撃せられた口惜しさを思へば、もっと訓練に精が出さうなものだ。一昨日、明石はさんざん爆撃された。これでも口惜しくないのか。
二月十六日(金)
マニラ既に焦土と化す。戦局は正に危急である。心眼をひらいて事態を正視しなければならぬ。日本といふうまし国が、今や生きるか死ぬかのどたん場に追ひつめられてゐるのだ。楽観は禁物である。周囲を見渡すに、誰も彼も、生活の逼迫に気を奪はれ、食糧の獲得に、みんなうつつを抜かしてゐる。闇、闇、闇の世相である。何も彼も闇でなければ手に入らないのである。国民をして狡智へ狡智へと趨(おもむ)かしめるものは誰ぞ。
あゝ、今こそわれら日本人の至誠を天に問ふ秋なり。
心慰まざるときは、ひとり黙して境内を掃き、拝殿を拭き、書に対す。
忠男と武男は、だんだんやんちゃになり、だんだん可愛くなるばかりである。
三月三十一日(土)
陽春といひたき暖かさである。杜には椿が咲き、鶯その他の小鳥が鳴いてゐる。この平和な氏神様の境内に暮らすことの出来る自分は何といふ幸福であらう。
戦局は、春とは反対に、いよいよきびしさと物凄さを加へつゝある。沖縄県慶良間列島には敵が上陸を開始したのである。この苛烈なる実相を見よ。
若し万一、帝国この戦さに敗れることありとせんか、あゝ、何を以てわれら生くるや。生きてその辱かしめを受けんよりはむしろ、死をねがふは日本人誰しも持つ心持であらう。今だ、今大いに働き抜き、戦ひ抜いて、どんなことがあっても、この戦さには勝たねばならぬ。自分は小さな神社に奉仕する名もなき神職なれど大いに修養、勉励して、真に神に仕ふるの道を全ふせねばならぬ。神に仕へる白衣の身であることを常に忘れてはならない。自分は、この職場で討死するのだ。
(第11章 「父のこと〈6〉」P175-P178 上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』)
本土にまで米軍機の爆撃が行われるようになり、敗戦の予感が脳裏をかすめるような状況での一人の神主(著者、上村武男の父)の内面の描写になっている。しかし、このような内面は、現在のわたしたちにもなじみのものではないかという気がする。たぶん、出征した島尾敏雄隊長もこのような生真面目な人物だったのではないかと想像する。そして、青年の吉本さんもまた。
ここには、いいかげんさを退ける生真面目さと同時に少し上の方から「周囲を見渡す」視線が加わっている。この父は、学校の先生の経験もあるから先生の子供に対する一般的な視線と同様のものが混じっているように感じる。この年の七月四日に「いよいよ来たぞ。待ちに待った招集令状だ」という「臨時招集令状」が来て、著者の父親は出征していくことになる。
このような現在にも残存しているようなこの列島人の心性が経験したのは、一般の大衆が初めて戦争に巻きこまれるという未だかつてなかった経験であり、その危機的な状況の中で、明治近代以降の欧米化・近代化という表層の影響は吹っ飛んで、まるで臨死体験のように未開の心性のようなものが人々の心の深層から、そして文明の深層から、発動して湧き上がって来たのだと思う。
わたしたちは、戦時中のこの列島の人々の意識・感性を戦争というものを潜り抜けてきた現在からの視線で―ということは、敗戦後の戦争に関する様々な批評などを考慮して―見ているわけであるが、何か既視感のようなものを持ってしまう。つまり、現在にもなおそのような意識・感性が生き延びているように見える。つまり、その意識・感性は、相当根深い時間の中を生き延びてきている。それを一般性として抽出してみると、
1.敵に打ち負かされたら、観念する。そしてそれは死を免れないという意識が見られる。これは、潔さのように見えて実は恐怖心に基づいている。
2.1.を逆に言えば、戦争中のように敵に対しては残虐の限りを尽くすことがあり得ること。
3.1.と2.と穏やかな日常を味わう意識が同在していること。つまり、1.や2.は穏やかな日常の意識とけっして別々のものではなく、太古からの感性として日常の意識の深層に秘められてきたということ。
4.敗戦以後も含めると、外来のもの(アメリカ)に対するマレビト意識と屈従が、随所に見られたはずである。そしてそれは、依然として現在も政権・官僚層・取り巻き学者を中心とするアメリカ屈従路線として続いている。たちが悪いことに、当人たちは卑屈な屈従なのに自主的に振る舞っているという思い込み勘違いの中に居るように見える。
最後に、以上のことを支える論拠として戦争期を潜り抜けてきた吉本さんの言葉を引用する。
『ド・カモ』の著者はさらに興味ぶかい概念と習慣の例をあげている。死んだと噂されていた人が村に帰ってきてもとの村人の生活にもどったとき、その者が家の近くに姿をあらわすと、樹皮でできた布を巻きつける習慣がある。それは死んだかも知れないその者に生命の繊維である布を被せて生命を蘇えらせ、はじめて村に住めるようにするという習慣があり、制度化されているからだ。メラネシアの人たちが、「身近にいる存在の真正性に関して、概して確信をもっていないということを最も如実に示している。この不確実さのために、メラネシアでは人(外来者-注)に対して非常に控え目な態度をとる習慣があり、それが航海者たちをしばしば驚かせ、また呆れさせもしたのである。」と述べている。著者の解釈では、未知の地平線の向うから来た人間たちの信じ難い突然の訪問をうけて慎重に出方を待とうとする態度で、ほんとうの「生きた人間」なのか「神」なのかわからないという驚きと当惑と認識とを語っている。それに関連したことでいえば、ニューカレドニアのメラネシア人が町の雑貨店に入っていくとき、何を買いに行くのかと現地語でたずねると、「カラ・バオ」(神の皮)を買いにいくと答えるとする。そのばあい(神の皮)というのは西洋式の衣服のことをさしている、と著者は述べている。
わたしたちの日本でもおなじ習慣と態度に出会う。日本人の気質であるかのようにみえる「ひと見知り」、そして外来者にたいする内気で卑屈ともみえる怖れの気分、またそうでなければ「まれびと」を外来神のように説話化する習俗などは『ド・カモ』に記されたメラネシア人の態度や思い込みとまったくそっくりだといっていい。
たとえば、太平洋戦争の敗戦直後、大量のアメリカ人(西欧系、黒人系、日本人二世系)を占領軍として見たとき、わたしたち大部分の日本民衆の態度は、そうだった。ヒトか神かとはおもわないまでも何をするか何をされるかまったくわからないという恐怖心がつくりだす虚像を修正し、じぶんたちよりもずっと率直で、あけすけに振舞う解り易く、のびやかな者たちだと結論するまで、ある日数や月数を必要としたほどだ。
(『心的現象論本論』「原了解以前(14)」P484-P485 吉本隆明)
※読みやすいように段落間を一行空けた。
知識の第一義的な課題 付、わたしの註
―「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明)より
10 知識とは何か
しかし、しかしですよ、もし人間に知識という富というものが、もし備わっているとするならば、それが大事なもの、知識という富が大切なものだとするならば、労働者だってこんだけのことしか感じられないところで、これだけの全部のことを感ずるっていうふうになることができるわけなんです。また、インテリっていうようなものは、知識についてはいわば無際限に拡大する能力と、それから想像力っていうようなものを行使する。たとえば、部分的でありますけれど、行使する自由っていうのは、一時的でありますけれど、自由っていうのをもっているわけです。だから、その自由っていうようなものは、やっぱり問われなければならない。どういうふうに問われなければならないかっていうと、その自由っていうのは無限大にまで拡大しなければならないっていう、そういうことを絶えず問われているんですよ、インテリっていうのは。つまり、インテリゲンツィアあるいは知識っていうものが問われるっていうことは、これだけしか感じない人が世の中にはいるんだぞっていうことを、そういうことを知らなくちゃいけないっていうことはどうでもいいんです。つまり、悪いことじゃないんですけれど、それは第二義的なものなんです。知識にとっては第2番目のことなんですよ。知識にとって最大限に重要なことは、無限大に、知識っていうのは無限大に感じ、それから、無限大に想像力を働かせ、無限大に考えるっていう、そういう知識っていうのはいわば、議論をもってるぞっていう、それが知識にとっての課題なんですよ。知識のためにいろいろな、たとえば経済的な制約のために、労働者、大衆っていうようなものは、これだけしか感じられないんだよ、かわいそうなんだよっていうようなことを、なにも同情はするなんてことはどうでもいいわけなんですよ。つまり、どうでもいいっていうのは第2番目のことなんですよ。しかし、そうじゃなくて知識っていうのは、本当は無限大に感じなければならない。あるいは無限大に考えなければならないのに、たったこれだけのことしか考えることをしていないとすれば、それは知識が問われるわけなんです。知識の怠慢っていうようなものは、そこで問われるわけなんです。だから、知識っていうのは、その時代の人間が感じている自由っていうものを、自由の範囲っていうようなものを感じているとすれば、その範囲を同じ時代の人が感じているよりもはるかに多くの自由っていうようなものの範囲を感じ、考えなければならないっていうものが、知識にとって第一義的なことなわけなんです。
11 工場体験の意味
つまり、その観点から言いますと、僕はヴェイユっていうのは、そこがダメなような気がするの。僕の考えでダメだっていうんですよ。ダメなような気がするんで、つまり僕とは違うなって思うの。考え方が違っているなって思うの。なぜかっていうと、ヴェイユはそこで、無際限の知識っていう富を自分が持っている。しかも、ヴェイユっていうのはソルボンヌの秀才ですから、当代の第一級の知識人ですから、なおさら罪を感ずるわけですよ。罪なんです。知識を持たない人に対して、あるいは、制約された場所でもって働いているそういう人たちに対して、無限大の罪を感じていたわけなんです。だから、そこに無限大に自分を同化していくことによって、なにかを獲得していこうっていうふうに考えていくわけなんです。
で、この考え方、決して僕は馬鹿だとかなんとか言いませんけれど、しかし、僕はそれは違うと思います。ヴェイユの考え方の中で、違うところがあるんです。違うと僕が思うところがあるんです。それは、ヴェイユだけじゃなくて、宮沢賢治なんかでもあるんですよ。似てるところがありまして、つまり、知識っていうものは罪悪だって、つまり、知識っていうものに罪を感じるっていう観点があるのですよ。宮沢賢治にもあるんですよ。自分を無限に超人的なところに追い込んでいくわけです。この追い込み方っていうのは、非常に宮沢賢治とよく似ているんです。
しかし、その考え方は違うと僕は考えます。こういうことを宮沢賢治でも言います。宮沢賢治の詩の中にも童話の中にもしきりに出てきますけれども。自分も農学校の先生をしてましたから、宮沢賢治は生徒たちに与える詩みたいのがありますけど、君たちがのっぱらに出て、畑や田んぼに出て、それで、ひとつひとつ耕しながら、そして、身につけていく、そういう学問の方が、学校行ってテニスをしながら教わるような、そういうものに比べたら、本当の学問っていうのはそういうのだっていうような言い方を、宮沢賢治もします。
しかし、僕はそうじゃないと思ってる。それは間違いだと思っています。つまり、知識っていうものは、いったん拡大した、獲得した、人類が獲得した、人類の誰でもいいんです。最大限に獲得した知識、あるいは感受性、そういうものは、それが一見退廃的であろうとなんだろうと、いったん獲得した精神の範囲っていうものは、逆に戻るっていうことはありえないのです。つまり、これを逆に戻すことはありえないのです。そういうことはないのです。知識っていうのは技術よりも、科学技術よりも、もっと確かなんです。科学技術っていうものは、やっぱり人間が統御すれば、わざとシンプルな機械を使ったりすることはできる。そういう社会を作ることもできるんです。しかし、知識だけは、いったん獲得された、人類の時代が長い間あれして獲得した知識の範囲っていうものは、これをせばめることはできないのです。だから、これを乗り越えるためには、それよりもより大きな自由っていうもの、より大きな感受性、想像力、それから思考力でもって、これを包括する以外に知識がそれを乗り越える道っていうのはないのですよ。ここのところが非常に重要なんです。
つまり、ここのところで、僕たちは、いつでも大衆っていうようなことを考えたり、あるいは貧困っていうことを考えたり、あるいは虐げられし人っていうものはどうなってるかとか、あるいは圧制されているものっていうようなものを考える場合に、いつでも突っかかってくることは、そこなんです。そこの問題です。そこでいつでも突っかかります。そこで、いつでも岐路に立たされます。知識っていうのはいつでもそこで岐路に立たされます。おまえはこういう人たちがいるっていうことを理解するところに、おまえは理解力を行使したり、また、その中に飛び込んでいかなければならないっていうような言い方が一方でなされます。しかし、一方でそのなされ方、言われ方の中に、一種のいつでも欺瞞が含まれます。いつでも一種の、どう言ったらいいんでしょうか、この息苦しさっていうのは名付けようがないけれど。しかし、それは間違いであろう。感覚が告げるところでは、それは間違いであろうっていうものが、いつでも付きまといます。それで、いつでも当面するものは、いつでもおんなじです。だからその気張っている中で、気張っているところで、ヴェイユがヴェイユなりに、知識の課題を無限の罪のところにもっていくわけです。
しかし、僕の考えではそうではありません。宮沢賢治もそういうふうにもってきます。だから、自らも超人的に自分も超人的なところに追い込んでいくわけです。しかし、それで潰れるわけです。潰れてしまうわけです。それは壮絶な潰れ方ですけども。しかし、僕はそうじゃないと思います。僕は、それは違うんだと思います。それはどこが違うんだって言うと、今言いましたように、知識っていうのは、いったん人類が獲得された知識、あるいは感覚とか思考力っていうようなものは、絶対にそれは逆戻りはしないっていうことなんです。だから、これに対して対立する知識を持ってきたってダメだっていうこと。これを克服するには、あるいはこれを総括してしまうには、これを無視して否定してしまうには、これ以上に知識を、あるいは感受性、想像力、思考力の範囲を拡大する以外に方法がないっていうことなんです。
だから、そこのところでたぶん、ヴェイユの考え方っていうのは、一種の凄まじい倫理観に追い込まれるっていいますか、そういう最初の兆しっていうようなものが、そこで現れてきます。これがたぶんヴェイユが当面した工場体験って言いますか、工場生活で体験したいちばん大きな問題なわけなんです。それでたぶんこういうところで、ヴェイユは何をしたかっていいますと。ひとつひとつたとえば、労働者っていうものに、知識や判断力や、それから教養とかゆとりとかっていうのを与えるには、どういうやり方をしたらいいんだろうかっていうのは、どうやったら日々の息苦しさっていうところから自分を一時的にであれ、自分を開放するみたいな、そういうことをどうやったら実現できるだろうかっていうことをしきりに考えていきます。
「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明の183講演 FreeArchive A050 講演のテキストより) ※これは『言葉という思想』に手を入れて整序された文章として収められているけど、生の語りの方を引用した。
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わたしの註
この引用部分では、二つのことが語られている。まず、人間的な活動の自然(必然)性から次々に増大していったり深まったりする「知識」というものの第一義の課題は、「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ということだと言われている。二つ目は、「知識」の世界に入った者が知識を罪悪なものだと見なすことがあるということが語られ、その例としてシモーヌ・ヴェイユと宮沢賢治が挙げられている。
「知識」の第一義の課題は、人間というものの本性(それは未だ十分に明らかにされているわけではないが)に根差した捉え方だと思う。共通性として分離・抽出してみれば人間には、人を思いやるような性向(結(ゆい)などの様々な相互扶助組織の存在)もあれば、邪悪な性向(国家による経済・政治・文化の独占の歴史)もある。これらの人間の二つの性向が共同性として組織化された様々の形態をわたしたちは現在までの歴史の中に見出すことができる。
しかし、柳田国男の貴重な「おくりもの」によって過去の人間の生活世界の推移や動向を捉えてみたら人間のその前者の性向が束ねられて歴史の無意識的な本流を駆動してきたのは間違いないと思われる。そして、吉本さんの「知識」の第一義の課題ということも、その歴史の無意識的な本流に添って「無際限の知識っていう富」として捉え返されたものである。その歴史の無意識的な本流に潜在する、大多数の普通の人々の、より良い生活、より良い人と人との関わり合い、より拡大された自由などの潜在的な欲求に、「知識」というものの第一義の課題は「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ことによって答えることではないか。そのことは同時に「知識」を無限大に追究するその人自身のそれらに答えることでもある。
ところで、語られている二つ目の「知識を罪悪なものだと見なす」ことはどこからやって来るのだろうか。思うにこのことには、「知識」の起源ということとそこからの歴史的な展開の事情ということ、そして人間的本質の性向などが関わってくる問題である。
シモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も抱いてしまったという「知識っていうものは罪悪だ」ということは、知識というものが荘厳な台座の周辺のものとして長らく支配上層や文化上層によって独占されてきたという歴史的な自覚とそのことに対する自己倫理が促してきたのかもしれない。また、その自己倫理(罪悪感)を逆に組織化すれば、政治や社会を転倒しようとする革命によって、共同的に組織された負の出来事として中国の文化大革命など歴史は無数の血なまぐさい過ちを持っている。
知識(宗教性)は起源においては科学であり宗教性であり世界観であったはずである。つまり、その当時の人々の感じ考え方の総体としてあったはずである。そしてそれは世界(自然や神々)と交通する力を持つなにかすばらしいものと人間には見なされていたと思う。しかし、大多数の普通の人々よりも世界とうまく深く通じることができる知識(宗教性)を持った人々が巫女やシャーマンとして登場し、次第に専門化していった。ここに、「知識(宗教性)」は分離の徴候を持ったことになる。さらに国家が成立し、政治や文化上層が高度化するにつれて、そのことによって「知識」の活動も格段に促進されと同時に専門家独占化されていった。つまり、大多数の普通の生活者と政治・経済・文化上層との二層分離である。
こうしたことを背景として、大多数の無名の人々に眼差しを向けたシモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も、自らがその「知識」の世界にいることから負の自己倫理(罪悪感)を喚起されたのだろうと思う。言い換えると、その落差の歴史性を歴史性そのものと捉えることなく、重圧として自らに促す自己倫理として受けとめたからであろう。こういうことは、日常世界でもよくあることである。もし自分が多く持っていてそれが精神的な負担なら他人に分かち合えばいいことである。シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治の場合なら、「知識」の第一義の課題に黙々と邁進することがその分かち合いに当たっている。
詩人伊東静雄の若い頃、親友に宛てた書簡集がある。これを読むと、当時の流行の思想や文学に触れている様子が伝わってくる。阿部次郎の『三太郎の日記』や西田幾太郎などの哲学本や島崎藤村らの「文学界」グループの作品などに触れて、自由主義的で理想主義的な影響を受けている若き伊東静雄のふんい気が伝わってくる。
この中で、気になっていた言葉があった。「個人の親たる社会」という言葉に見られる伊東静雄の社会や国家観である。次の社会主義などへの関心を述べた箇所で出て来る。
その後どうしてゐるか。
私は必死の勉強に没頭してゐる。私の前に突如ひらけた個人の親たる社会に関する思想は私を熱情的にしてしまつた。この転換は私の思想をるい弱から救ふたのみならず、身体さへも健康にしてゐる。私がこの次君の前にあらはれる時、かなり変わつた姿であるに相違ないと、それをひそかな期侍〔待〕で喜んでゐる。この私の転換は、もつとも自然的にやつて来た。自然主ギ的個人主ギ的な人生とう検はしらしらとした諦視か、救はれ難きニヒリズムかのどちらかだ。私が落ち入らうとしてゐたのも全く前者であつた。そして、その弱々しい諦観を私は人間の到達する最高の境地と思つてゐた。なるほどそれは一つの最高峰ではある。然し、私達は、少なくとも今の私達今一つの世界を、今一つの方向を持つてゐる。それこそ、社会主ギ的世界観の方向だ。そして、その理想だ。私は今私の思想に転機をあたへたあの恋愛の失敗を感謝してゐる。いつか、面接の上で語ることもあらう。
(『伊東静雄青春書簡』P171 大塚梓・田中俊廣編 1997年)
これは伊東静雄の大村中学(長崎県大村市)時代からの親友、大塚格宛ての書簡である。ちょっと読みずらい曖昧な表現の部分もあるが文意は伝わるだろう。昭和4年6月25日消印の手紙とある。伊東静雄は、昭和4年(1929)3月に大学を卒業して、同年4月、大阪府立住吉中学(現住吉高校)に先生として就職したばかりの時期に当たっている。大正末から当時にかけては、ロシア革命の思想的な影響がこの列島にも押し寄せていた。そのように沸き立つ文学や思想から伊東静雄の内的なモチーフが「熱情的」に引き寄せたものだったろう。しかし、半年後の同年の12月書簡ではその「熱情」もずいぶん醒めたものになっている。今はそのことの詳細には触れないが、これは、「人一倍熱しやすい私の性質」(P175 同上)と自ら内省する伊東静雄の性格的なものから来るものというよりも、自己内省や自己格闘から来たものだと思う。
この書簡の中の「個人の親たる社会に関する思想」は社会主義的な思想を指している。しかし、ヨーロッパ近代思想や社会主義思想には、個人と社会との関係を「個人の親たる社会」というような親子という家族関係のようなものとして捉える考え方はないはずである。そして、それは若い伊東静雄の独自の考え方と言うよりも当時の欧米の波を被った自由主義や理想主義の文学や哲学などの流行思想に底流していたこの列島の思想の古い部分というような気がする。つまり、そこからの影響のように思う。個人と社会との関係を家族関係のように捉える考え方は、アジア的な専制の政治社会制度の下の考え方なのか、もっとそれ以前の段階の名残もあるのか、わたしには確定的なことは言えないが、その辺りから来ている考え方だと思われる。
ところで、首相の所信表明演説やら天皇の所感などが新聞に載っても、ほとんど目を通すことのないわたしが、偶然「皇太子さまの誕生日会見」(毎日新聞 2017.2.23掲載)を流し読みしてしまった。そこにわたしの目をひく言葉があった。
陛下は、おことばの中で「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。・・・中略・・・このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。・・・中略・・・戦国時代の16世紀中ごろのことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経(しんかんはんにゃしんぎょう)のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。・・・中略・・・そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。・・・中略・・・私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います。
この戦国時代の後奈良天皇が写経の奥書に書き記したとされる言葉「私は民の父母として、徳を行き渡らせること」という考え方は、中国の儒教思想の仁や徳という考え方の影響もあるのかもしれないが、天皇、国、社会、民というものが、伊東静雄が書き記した「個人の親たる社会」という考え方と同一の家族関係に擬せられたものとして捉えられていることは間違いない。そして、現在の天皇や皇太子の考え方は、一方で「国民の安寧と幸せを祈ること」としての親と子の縦の関係を保持しつつ、他方でその縦の親と子の関係を現在の割と平等な家族内の関係と対応するように、縦の関係から水平の関係へ変貌させている。このことは建前としては戦後の個を中心とする民主的な考え方や関係に基づく社会というものに対応した天皇の有り様だと思われる。そして、「象徴天皇」というあいまいな位置にあっても灰汁の強い政治家などとは違ってその無償性と純粋さのイメージから天皇がこの列島の多数の人々から敬愛されるのももっともだろうなという気がする。もちろん、わたしはこの社会が真の平等と自由へ突き進む重要なきっかけとして特異点である天皇や皇族は普通の住民になるのが理想だと思う。だから、わたしたちの大多数が天皇や皇族のことを余り気がけないように自然になっていく、つまり天皇や皇族が普通の住民になっていくのを待つほかないと思う。
現在にまで亡霊のように生き延びている極端な「ウヨク」思想は、北朝鮮同様に個の好みや自由を圧殺するイデオロギー性を持っている。だから、そんな環境では人は本心と建前という二重化を強いられる。この極端な「ウヨク」思想は、一度先の敗戦で決定的な〈死〉を体験したはずだが、無反省であり、性懲りもなく亡霊として死に体であるのに今なお生きている。その異形の紋切り型の外皮をはぎ取ってみれば、縦の関係としての「個人の親たる社会」という考え方、今風に言えば公を優先する考え方がある。たぶん、彼らのイデオロギーは、大きな屋台骨を中国から来た、あるいは中国と共通するアジア的な専制制度やそこから下ってくるものに借りているはずだ。そして、それは近代以降の現在までの歴史の積み重なりからの退行に当たっている。もちろん、彼らも一方で現在の社会のもたらすものは十分に享受しているはずだ。
そして、縦の関係としての「個人の親たる社会」という考え方であっても、縦の関係を水平の関係に変容させるような情愛や親和が存在すれば現在の天皇の位置に近づくことになる。こういう情愛や親和をまとった「個人の親たる社会」という考え方やイメージは、わたしの漠然とした印象に過ぎないが、アジア的な専制制度以前にまで、つまり古代以前にまでさかのぼれるような、正とも負ともなり得るような、根深い遺伝子かもしれない。わたしたちは近代以降欧米の波を十分に被って、情愛や親和をまとっていたとしても「個人の親たる社会」という考え方やイメージにはもはや帰れない。一方、十分に成熟した個という存在ということもあやしい。この両者がどのように折り合いを付けていくのかということは、大切な現在の渦中のことであり、かつ、今後のことに属している。
〈言葉という次元〉について
吉本
ぼくは言葉というのは、表現しかないと思ってるわけです。表現されなければ言葉はないと思うわけね。だから、ぼくが言葉って言うときの言葉は、表現された言葉になるんですよ。
ぼくの論理で、言葉っていう場合には、表現された言葉っていうふうになるんです。表現された言葉っていうのは、何が違うかっていいますと、表現する途端に内部ができる(註.1)ということだと思うんです。つまり、内部がここにあって、言葉が何か言われるっていうことは、ほんとは全く嘘だと思うんですけど、しかし、表現された言葉っていうのができたときに、同時に内部ができるっていう、そういう対応の仕方になると思うんです。
表現された言葉だけが問題なんで、表現された言葉というのがあると、言葉を表現した途端に、反作用で、自分は言葉から疎外され、疎外された分だけ内部がそこに生じる。なぜ内部が持続的に生ずるように見えるかっていうと、そういうことを人間は繰り返しているから、何となくいつでも同じ内部が子供のときからずーっと連続しているみたいな気にさせられるわけです。それは全く幻想なんだけども、どうしてその幻想が生ずるかっていったら、やっぱり表現する途端に内部ができるから。表現しなければ内部なんかないんだけど、途端に内部ができるみたいな、そういう対応関係があるところで、内部と言葉っていうものとの関係が出てくるというところで扱いたいわけなんですよね。
ぼくは、内部っていうのが持続的、実体的に人間にあるっていうふうにちっとも考えてないんですけれども、言葉を表現した途端に内部は生ずるものだ、同じ言葉を何回も発してると、内部がいかにも形あるように見えちゃうもんだよっていう意味合いで、内部というのを問題にするわけなんです。
(「内なる風景、外なる風景」(後編) 鼎談 吉本隆明・村上龍・坂本龍一
月刊講談社文庫『IN★POCKET』1984年4月号)
(註.1) 「表現する途端に内部ができる」ということについて
「表現する途端に内部ができる」ということは、わたしたちの現在的な状況としても、あるいは言葉のようなものを表現し始めた初源の人間の起源的な状況としても、二重に捉えることができる。後者から見ると次のようになる。
人間が途方もない時間の中で内部になにか「しこり」のようなものを形成してしまって、ある時そこから促されるように「あ」とか「う」などの言葉のようなものを表現してしまったとすれば、その表現自体が反作用のように人間にその言葉に対する印象や感じのようなものを与えてしまう、つまり、「内部」が浮上する。
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(わたしの註)
吉本さんが、言葉について本質的なことを語っている。
わたしは、解剖に立ち合ったことはないし映像で見たくらいだが、人を解剖しても内面的な内部と呼ばれる実体的な部位が見つかるわけはない。このことはおそらく誰もがなんとなく認めそうな気がする。しかし、人間の記憶ということになると、学者の中には「記憶細胞」というものが実体として存在すると考える者もいる。記憶には植物レベル、動物レベル、人間レベルというものがあると思う。人類は未だその記憶というものの機構がよくわかっていないが、少なくとも人間的な記憶は植物レベルや動物レベルの記憶と何らかの関わり(連続性と位相差)を持っているはずだ。そして、わたしの手持ちのものからは漠然とした推測程度でしか言えないのだが、人間的な記憶は上の吉本さんの言葉という次元の捉え方と同様のものではないかという気がする。もちろん、実体としての脳の各部位やその間の神経網の活動や化学物質などが記憶というものを支えているのは間違いないはずだが、それとは違った位相に言葉やイメージとして表現されるように見える。
人間的な諸活動は、その機構がわたしたちにはっきりとわかっていなくても、わたしたちのその機構の捉え方がたとえ誤っていたとしても、人間的な諸活動自体は心臓が動いている不随意運動のように日々持続している。50歳代辺りから記憶を引き出すのが少し困難になる物忘れなどのわたしたちの日々の経験や、あるいは人が以前より長生きするようになったから問題化していると思われる「認知症」などの新たな経験が、わたしたちの記憶の機構の捉え方に以前にも増して深い洞察を促すかもしれない。それらのことは、わたしの素人の推測によれば、支えられる実体とは別次元の記憶や認知などのシステムが、支える実体的な次元の消耗や老化などによって、クリアーに機能しない事態のことを指しているのかもしれない。
言葉は、実体的な次元(音や文字や身体など)を必ず伴うけれども、吉本さんが述べているようなそこから飛躍した幻想的な次元の時空に表現される。一方、読者や観客は実体的な次元(音や文字や身体など)を介して幻想的な次元に表現された言葉や映像などを味わうのである。しかも、言葉は幻想に過ぎないのに人の心を深く傷つけたり、あるいは深く感動させたりもする。言葉の表現に限らず、職人さんの技能でも、ともに先ほどの記憶ということも関与しているはずだが、体の中に実体として技能が存在するわけではない。未だその微細な機構はよくわからなくても、言葉の表現でも或る技能でも日々くり返していくと幻想的な次元に蓄積するように、幻想のつながりとして強化されていくのではなかろうか。そして、その表現の場に座ると、蓄積、強化された幻想的な言葉や技能の次元に接続されるのではないだろうか。
ただし、技能の場合は、言葉と比べて身体性との関わりが強いように思われる。わたしの経験を持ってくると、福岡で高校の教員になりたての頃飛騨高山にスキー修学旅行に行ったことがある。スキー修学旅行はその高校では初めてだったので下見もあり、わたしも下見に行った。このとき初めて飛行機に乗った。スキーなんて一生縁がないと思っていたが、三日間のスキー教室は、十数人に一人コーチがついて生徒も教員も三日間でまずまずの滑りができるようになった。とても楽しかった記憶がある。ところで、それから二十数年後阿蘇の人工スキー場で偶然二度目のスキーをすることになった。滑ってみて二十数年前とは比べものにはならない滑りではあったが、自分の身体が、スキーで滑る感覚をうっすらと記憶しているように感じられたのは驚きであった。たぶん、自転車乗りも同様のことが言えるのではないかという気がする。技能の場合も言葉と同様のイメージや幻想性があると思われるが、それ以上に言葉を離れた身体感覚的なイメージや記憶が大きな部分を占めているように感じる。それは動物性の記憶に近いと言えるだろうか。
現在の実体的なものを重視する自然科学の科学者は、言葉を考察したり言葉を考慮に入れたりということをほとんどしないだろうが、したとしてもこうした言葉の捉え方はしないのではないかと思う。しかし、例えば自閉症の理解やAI(人工知能)の研究では人間にとっての言葉とは何かということが大きく関わってくるはずである。実証や実体的なものを重視する(自然)科学は、次々に細分化され狭苦しい世界に迷い込んでいるように見える。
ヨーロッパのルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、音楽・地理学から解剖学・物理学まで、あらゆる学問に通じていたと言われている。おそらくヨーロッパの中世期以降に本格的に学問が文系と理系というように分離し、細分化してきたのかもしれない。わが国では明治期にそれを輸入して現在に到っている。進学校の高校生ならほとんどその区分けを自然なものとして受け入れているような気がする。大学では、必要に迫られて理系内での科と科にまたがったり文系と理系の境界を横断する学問も学部新設などで試みられてきた。わたしは学問という世界とは無縁だが、学問というか知の世界というか、この未来的なイメージを描くとすれば、細分化の状況は今後も続くだろうが、総合性としての人間という観点からあらゆる人間的なものを対象とする〈科学〉というものが必然として生み出されていくのではないかというイメージをわたしは持っている。人類の歴史は、細分化されてきた近代に対して近代以前の総合性をまた新たな形で反復するというようなことをこれまでにやって来ているからである。
ところで、この鼎談以前には、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)と吉本さんの主要な著作がある。つまり、ここでの吉本さんの〈言葉という次元〉という考えの背景には、それらの大きな諸考察を経てきたという経験がある。また、長い詩作や思索を持続してきたその経験の実感が込められている。単なる思いつきではないのである。『言語にとって美とはなにか』や『心的幻想論序説』には、この〈言葉という次元〉という考えと同じような考え方が述べられてもいた。
一般的には、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、まだなじみがないような気がする。しかし、わたしには妥当な捉え方だと思われる。そして、それは今後大きな基本的な視座になっていくと思う。現在的な主流の捉え方にもなぜそう捉えるのかという人間的な自然慣性からの必然的な理由がありそうに思うが、このわたしたちの文明史が更なる自然を掘り起こしていく中から、その妥当性も徐々に普遍的なものとなっていくような気がする。なぜならば、人類史の本流は、支流にずれ込んでも必ず人間というものの本来性に従うように修正されていくと思うからだ。吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、その人間的な本質や人類史の本流に深く届いているとわたしは思っている。
言葉には、同じ対象を指し示しているのに、言い換える別の言葉というものがあります。例えば人名で言えば、賢治という名の人は、けんちゃんと呼ばれるかも知れません。この場合、「けんちゃん」と言う言葉は親しみを込めていうニックネーム(愛称)と呼ばれています。しかし、同一の対象を指すからといって、この「けんちゃん」と言う言葉が、「宮沢けんちゃんいらっしゃいますか」などと一般に公的な場で使われることはありませんし、逆に家族の中では「賢治」という言葉はほとんど使われないかもしれません。つまり、同じ対象を指す言葉であってもわたしたちの生きているこの世界が家族や友人関係や職場や行政に出向いた場合など位相(註.)の異なる関係的な世界として成り立っていることと対応するように、指し示す言葉も使い分けられています。これは別の言い方をすれば、「わたし」の内部から見たら、内部の心から精神に渡る層がそれぞれ位相化していると見ることができます。
次に引用する作品は、上に述べたような違った場面の場合ではなく、「わたし」という個の同一位相の場面です。ただし、「わたし」の内面自体が位相化しています。
アクセルを踏む俺ブレーキをかける僕
(「万能川柳」2017年1月16日)
「わたし」という個の位相(場面)で、気持が二つの層に位相化しています。二つに位相化した「わたし」が、「俺」と「僕」というように区別された言葉の表現になっています。この作品は、車の運転だけでなく、比喩表現として人の一般的な振る舞いの比喩と受け取ることもできそうです。
わたしは若い頃高速道路で中型二輪のバイクに乗って時速100キロ以上出したことがあります。車もありますが、フルフェイスヘルメットを被っていてもバイクの場合はちょっと恐いです。この作品の場合、社会規範や規則にとらわれない「わたし」は「俺」、それらを遵守しようとする「わたし」は「僕」です。あるいは、少しの危険はものともせず気ままに快感に添ってアクセルを踏むなどの行動をするのが「俺」、危険などに気配りして慎重にブレーキ踏むなどの行動をするのが「僕」です。
この作品では、「わたし」という個の車の運転というひとつながりの行動において、わたしの二面性、あるいは二つの位相が表現されています。「俺」と「僕」の語感と語の放つイメージの違いを効果的に表現した作品です。
(註.) 「位相」
位相という言葉は、数学や物理の概念ですが、ここでは相互に何らかの関わり合いは持つとしても連続性や還元性を絶たれた異なる次元の世界と言うほどの意味で使っています。