私がいつも思うには、世界には色々な宗教があり、色々な神様がおり、様々な信者がいるわけだけど、それらを結びつける環がなにか抜けてるような気がしてる。
猿と人類を結びつける失われた環(ミッシング・リング)ではないが、何かが欠けている。
神様に祈りなさいぃ~とか、ご先祖様のお陰とか、お経を唱えるとか、まぁ、色々あるけど、何かが違うなと感じるわけですね。
旧約聖書の創世記を、今だにそのまま事実だと考えている人もいるようだけど、あれはシンボライズされた話であって、額面通りとるのはちょっと頂けないかな。
物質世界は神が創造した最終的残余の部分であり、個々の形態までは創造しなかったと私は考えている。
「上にあるがごとく下にある」であるから、神の創造と同じように、神の創造物である残余のゴミ(?)から、宇宙法則により様々な形態が生み出されていったと思われる。
従って、物質は物質が形成される法則により、生み出されていくのであろう。そこには何ら、神の英知(?)と物質法則との矛盾は存在しない。
進化論が正しいか、正しくないかは科学の部門に任せればよい。それは物質の変化の過程でしかないからである。
もし、そうでないならば、遺伝子操作は、神をも恐れぬ背信行為として断罪されることになるだろうし、人間は神に近づいたことになる。何故なら、コピーとはいえ、創造の一端を掴みつつあるからである。
神は自らを法則により創造したのであるが、生み出されたもの故、成長し、やがては消滅する運命にある。やがて、新しく神は自らを不死鳥のように創造するであろう。
で、あるから、我々が感じとる神は、普遍の絶対性ではなく、成長しつつある、有限な存在であるといえよう。
ゴータマの達観性はそこにある。全てものはあり、そしてないのである。そこでは、神といえども例外ではない。
あらら、神学論みたいになってしもた。
今日の話題は、神とのつなぎ目を考えてみたいと思ったんだが、人間の側からみると、あの世が神とのつなぎ目と言われている。
あの世とは、死んだ後の世界なんだが、信じてる人もいれば、信じない人もいる。
信じない人は、この世で終わりなんだから、楽しかろうが、悲しかろうが、意識のレベルもそこで終わり。死んだらオシマイということだな。
私は霊を感じたことがあるので、死後の世界へ、神の世界へと漂浪しているわけだ。神様はどこにいるのぉ~。
人生いろいろ、あれ? 何処かで聞いたような?
あの世にいくつなぎ目が霊と言われているから、霊の行く世界=霊界があるということになる。
だが、その霊界なるものが、どのようなものかは、既存の宗教は明らかにしてこなかったといって良いだろう。
精々、天国と地獄くらいかな?天国は何段階だとか地獄は何段階だとかくらいなもんでしょう。余りにもお粗末。
この課題を明らかにしつつあるのは、霊能者と言われる神秘主義者であろう。
人によっては色々な言い方があるようだが、人間存在は物質界・アストラル界・心界・霊界などによって構成されており、それらを開放することにより霊界と生きながらにしてつながりを持てるとしている。
その方法は技術論であるから、今日は避けるが、ある程度努力すれば、可能なようだ。
既存宗教も多分、密教的体系として持っていたのだろうが、現世的腐敗と堕落の過程の中で失われたか、隠蔽しつづけていると思われる。
人間と霊界とをつなぐミッシング・リングを開放することによって、新たな宗教の再活性化が図れるはずだし、現代社会のなかではそれが必要なのであろう。
神秘ではなく、当たり前なものとして、可能なものとして明らかにしていく必要があるだろうな。
長くなったので、続きは次回で。
「創価学会からの奪還」のあきあこと申します。度々のご来訪ありがとうございます。
検索してお伺いしました。拝殿は宗教にずいぶんお詳しいのですね。私は無宗教で宗教嫌いですが、訳あって現在は法華経の事を勉強しています。
これからもお邪魔いたしますので、どうぞ宜しくお願いいたします。
なかなかこの手のブログは少ないし、中続きしないのが多いので、今後の健闘を期待します。
難しいテーマをやっておられるんですね。
ゆっくり読んでみたいと思います。
よろしくお願いします。