降り続いた雪もおさまり、漸くになりました。
そうそう、前回、コメントがないと書いたら、犬のメメさんから早速コメントを頂きました。メメさん、有難う!
実は、もう一通あって、以前に書いた「ローム大霊」の記事に”法則の真理”というかたからメールを頂き、”わかってない”とお叱りをうけましたw。
>真理そのものを説いて伝えているのであるから宗教ではありません!
といことだそうです。
私が最後の方で”一つの宗教表現、形態であろう”と書いたのがコチン(`◇`)ノときたみたいですw。
ローム大霊が、既存の宗教と一線を画したいという気持ちは分からんでもないですが、主観的な意図と客観的な見方は違うと思うのですがねぇ~。
この話はこの程度にして、今回のお題は、イエスの父と母の話です。
(2)ヨセフとマリア
マリアはイエスを生んだ母であるが、マリアと結婚したヨセフはどうもイエスの父ではない。
新約聖書でもマリアは処女のまま妊娠したとなっているが、これは本当か?
実は、本当らしい。
当時、未婚の女性が妊娠した場合、裁判にかけられ、不貞により妊娠した女性は石打ちの刑(=死刑)だったのである。
「イエス降誕の奇跡」に関する調査報告書によると、このように記されている。
『私は、彼女(マリア)が律法に従って審査されると聞きました。この場合、メルケル(ベツレヘムの会堂の司)が語した程度の証拠しか出せなければ、律法に従って、石打ちの刑になるはずです。』( )は一刀斎が追記したもの。
マリアは石打ちの刑になりませんでした。つまり、無罪=処女懐妊だったと認められたということである。
そんなことあるかって?
不貞を働いたものが、石打ちの刑に処されることは、新約聖書の中にもでてくる。
「律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫(かんいん)をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』」。(ヨハネ 8-3~5)
この時、イエスは「身をかがめて、指で地面に何か書いて」いた。
そして、こう言う。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
聖書には書いてないが、イエスが地面に書いていたものは何か?
その女を連れてきて、イエスを試そうとした<人々一人一人の罪状>をかいていたのである。そして、その言葉である。誰が、石を投げれようか!
という訳で話はそれたが、当時のユダヤの律法としては、マリアの処女懐妊は認められたのである。
ここでエドガー・ケーシーのリーディングを参照してみる。マリアについてはかなり詳しく書かれているからである。
マリア及びヨセフは、エッセネ派の信徒であったらしい。しかも、マリアはキリストを生むべく準備された12人の少女の一人であり、マリアが12歳の時、啓示があってマリアが選ばれたとされている。
マリアが妊娠したのは16歳、ヨセフがマリアと結婚したのは、ヨセフ36歳の時であったと言われる。
ケーシーのリーディングによると、イエスが両親の元で養育されていた間、マリアとヨセフは夫婦関係持たなかったと言われる。イエスが両親の元を離れてから、ヨセフとマリアは3人の子供をもうけることになる。ヤコブ、ユダ、娘のルツの3人である。
この3人はヨセフの連れ子といわれることもあるが、それはおかしい。何故なら、イエスの後に生まれているから、連れ子説は成り立たない。
イエスがユダヤ教エッセネ派と強いつながりがあったことは、M.ドーリルも「聖書の真義」で触れている。
つまり、周到に準備されてイエスは生まれてきたのであって、闇雲にマリアが妊娠したのではないということであろう。準備していたエッセネ派集団でも、突然、マリア-強い監視下にあったと思われる-が妊娠したことは予期せぬことであったらしい。
さて、イエスが生まれてから、すぐ、ヨセフとマリアはエッセネ派の手引きでエジプトに逃れる。ヘロデ王がイエスを殺そうとしたからである。
「ローマ議会でのヘロデ・アンテパス(上記ヘロデ王の息子)の弁明」に父王がイエスを殺そうとし、2歳以下の子供を虐殺したことが書かれている。
「私は、この人物が、父が幼少期に殺そうと図った同じイエスであると、・・・かくして、非常に奇妙な状況下でベツレヘムに男の子が生まれたことを知りましたものの、・・・・人をやって、同年代の嬰児を殺させたのでありました。それから、父は、イエスの母が子を連れて荒野へ逃げたことを知りました。」
ヨセフとマリアはイエスが生まれて間もなく、逃亡を図っていることがこの文章からわかる。
では、エジプトに滞在した期間はどのくらいか?
「エジプトでの滞在場所は当時のアレクサンドリアの中、もしくはその周辺であった。滞在期間は約四年―さよう、四年六カ月と三日である」。(「エドガー・ケーシーのキリストの秘密」より)
ということは、イエスは4歳までエジプトにいたことになる。
ここからも、イエスの誕生年が少なくともBC4年~5年でないことが伺える。
イエスの命を狙ったヘロデ王が死んだのがBC4年であることは、既に書いた。イエスは生まれて間もなく、エジプト逃避行(ヨセフとマリアとイエス)があるわけだから、下限はBC8年といいたいとこだが、ヘロデ王が死んですぐ帰ることはありえない。息子のヘロデ王も凶暴な人間だから、少なくとも様子見の期間を設けるだろう。だから、下限はやはりBC7年なのだ。イエスの誕生がBC6~7年というのは、この点からも正しいといえるだろう。
ヨセフは大工であると言われている。イエスも大工の子とされるが、大工修行などしなかったであろう。エッセネ派の一団が大切に教育したであろうからである。この点では一般の宗教学者は、イエスは大工で、あちこち仕事で出歩いて色々な知識を得たとみているなど笑止である。イエスは当時の著名な宗教学者を完膚なきまでに論破しているのだから、そんな生半可な知識であるはずがない。そんなことも判断できないから、”学者”と名がつく人々には困るのだ。
さて、ヨセフは、イエスが16歳~17歳のころ亡くなったらしい。結婚した時が36歳と言われるから、52~53歳で亡くなったのであろう。
マリアは、聖書にあるように、イエスの死に立会い、更にヨハネ(「ヨハネの福音書」のヨハネ)に引き取られて生活したといわれる。
マリアは、イエスがユダヤの王になるという期待を持っていたが、それは地上の王という観念であり、イエスがちっとも家のために働かないことをこぼしていたらしい。
この辺の母親としての感情は、リアルで面白い。
「少し気がかりのことですが、あの子は自分のことにはまるで頓着しないのです。・・・家族の生活が苦しかろうと楽だろうと、あの子にとっては同じことのように見えます。」・・・マリアは、彼が王になることに失望を感じているようでありました。(「ユダヤ議会に宛てたガマリエルの書簡-イエスの父母へのインタビュー」より)
イエスの母マリアは、多分、イエスの復活後でなければ、他の弟子と同じように、イエスが何者であるか理解できなかったのだろうと思う。
しかし、ず~とイエスの母、という感情であったのだろうか?
その辺のことは、まだ分かりません。
どこかで、信憑性がある話が見つかったら、また、追加することにするとしよう。
では、また、次回。
そうそう、前回、コメントがないと書いたら、犬のメメさんから早速コメントを頂きました。メメさん、有難う!
実は、もう一通あって、以前に書いた「ローム大霊」の記事に”法則の真理”というかたからメールを頂き、”わかってない”とお叱りをうけましたw。
>真理そのものを説いて伝えているのであるから宗教ではありません!
といことだそうです。
私が最後の方で”一つの宗教表現、形態であろう”と書いたのがコチン(`◇`)ノときたみたいですw。
ローム大霊が、既存の宗教と一線を画したいという気持ちは分からんでもないですが、主観的な意図と客観的な見方は違うと思うのですがねぇ~。
この話はこの程度にして、今回のお題は、イエスの父と母の話です。
(2)ヨセフとマリア
マリアはイエスを生んだ母であるが、マリアと結婚したヨセフはどうもイエスの父ではない。
新約聖書でもマリアは処女のまま妊娠したとなっているが、これは本当か?
実は、本当らしい。
当時、未婚の女性が妊娠した場合、裁判にかけられ、不貞により妊娠した女性は石打ちの刑(=死刑)だったのである。
「イエス降誕の奇跡」に関する調査報告書によると、このように記されている。
『私は、彼女(マリア)が律法に従って審査されると聞きました。この場合、メルケル(ベツレヘムの会堂の司)が語した程度の証拠しか出せなければ、律法に従って、石打ちの刑になるはずです。』( )は一刀斎が追記したもの。
マリアは石打ちの刑になりませんでした。つまり、無罪=処女懐妊だったと認められたということである。
そんなことあるかって?
不貞を働いたものが、石打ちの刑に処されることは、新約聖書の中にもでてくる。
「律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫(かんいん)をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』」。(ヨハネ 8-3~5)
この時、イエスは「身をかがめて、指で地面に何か書いて」いた。
そして、こう言う。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
聖書には書いてないが、イエスが地面に書いていたものは何か?
その女を連れてきて、イエスを試そうとした<人々一人一人の罪状>をかいていたのである。そして、その言葉である。誰が、石を投げれようか!
という訳で話はそれたが、当時のユダヤの律法としては、マリアの処女懐妊は認められたのである。
ここでエドガー・ケーシーのリーディングを参照してみる。マリアについてはかなり詳しく書かれているからである。
マリア及びヨセフは、エッセネ派の信徒であったらしい。しかも、マリアはキリストを生むべく準備された12人の少女の一人であり、マリアが12歳の時、啓示があってマリアが選ばれたとされている。
マリアが妊娠したのは16歳、ヨセフがマリアと結婚したのは、ヨセフ36歳の時であったと言われる。
ケーシーのリーディングによると、イエスが両親の元で養育されていた間、マリアとヨセフは夫婦関係持たなかったと言われる。イエスが両親の元を離れてから、ヨセフとマリアは3人の子供をもうけることになる。ヤコブ、ユダ、娘のルツの3人である。
この3人はヨセフの連れ子といわれることもあるが、それはおかしい。何故なら、イエスの後に生まれているから、連れ子説は成り立たない。
イエスがユダヤ教エッセネ派と強いつながりがあったことは、M.ドーリルも「聖書の真義」で触れている。
つまり、周到に準備されてイエスは生まれてきたのであって、闇雲にマリアが妊娠したのではないということであろう。準備していたエッセネ派集団でも、突然、マリア-強い監視下にあったと思われる-が妊娠したことは予期せぬことであったらしい。
さて、イエスが生まれてから、すぐ、ヨセフとマリアはエッセネ派の手引きでエジプトに逃れる。ヘロデ王がイエスを殺そうとしたからである。
「ローマ議会でのヘロデ・アンテパス(上記ヘロデ王の息子)の弁明」に父王がイエスを殺そうとし、2歳以下の子供を虐殺したことが書かれている。
「私は、この人物が、父が幼少期に殺そうと図った同じイエスであると、・・・かくして、非常に奇妙な状況下でベツレヘムに男の子が生まれたことを知りましたものの、・・・・人をやって、同年代の嬰児を殺させたのでありました。それから、父は、イエスの母が子を連れて荒野へ逃げたことを知りました。」
ヨセフとマリアはイエスが生まれて間もなく、逃亡を図っていることがこの文章からわかる。
では、エジプトに滞在した期間はどのくらいか?
「エジプトでの滞在場所は当時のアレクサンドリアの中、もしくはその周辺であった。滞在期間は約四年―さよう、四年六カ月と三日である」。(「エドガー・ケーシーのキリストの秘密」より)
ということは、イエスは4歳までエジプトにいたことになる。
ここからも、イエスの誕生年が少なくともBC4年~5年でないことが伺える。
イエスの命を狙ったヘロデ王が死んだのがBC4年であることは、既に書いた。イエスは生まれて間もなく、エジプト逃避行(ヨセフとマリアとイエス)があるわけだから、下限はBC8年といいたいとこだが、ヘロデ王が死んですぐ帰ることはありえない。息子のヘロデ王も凶暴な人間だから、少なくとも様子見の期間を設けるだろう。だから、下限はやはりBC7年なのだ。イエスの誕生がBC6~7年というのは、この点からも正しいといえるだろう。
ヨセフは大工であると言われている。イエスも大工の子とされるが、大工修行などしなかったであろう。エッセネ派の一団が大切に教育したであろうからである。この点では一般の宗教学者は、イエスは大工で、あちこち仕事で出歩いて色々な知識を得たとみているなど笑止である。イエスは当時の著名な宗教学者を完膚なきまでに論破しているのだから、そんな生半可な知識であるはずがない。そんなことも判断できないから、”学者”と名がつく人々には困るのだ。
さて、ヨセフは、イエスが16歳~17歳のころ亡くなったらしい。結婚した時が36歳と言われるから、52~53歳で亡くなったのであろう。
マリアは、聖書にあるように、イエスの死に立会い、更にヨハネ(「ヨハネの福音書」のヨハネ)に引き取られて生活したといわれる。
マリアは、イエスがユダヤの王になるという期待を持っていたが、それは地上の王という観念であり、イエスがちっとも家のために働かないことをこぼしていたらしい。
この辺の母親としての感情は、リアルで面白い。
「少し気がかりのことですが、あの子は自分のことにはまるで頓着しないのです。・・・家族の生活が苦しかろうと楽だろうと、あの子にとっては同じことのように見えます。」・・・マリアは、彼が王になることに失望を感じているようでありました。(「ユダヤ議会に宛てたガマリエルの書簡-イエスの父母へのインタビュー」より)
イエスの母マリアは、多分、イエスの復活後でなければ、他の弟子と同じように、イエスが何者であるか理解できなかったのだろうと思う。
しかし、ず~とイエスの母、という感情であったのだろうか?
その辺のことは、まだ分かりません。
どこかで、信憑性がある話が見つかったら、また、追加することにするとしよう。
では、また、次回。