虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

モーセとは誰だったのか?(その4)

2008-11-04 13:59:37 | 宗教
ついに雪が降りました。銀行に行く用事があったので、ついでにネカフェに寄り、これを書いています。今日は本当に寒いです。

さて、前回は第18王朝のファラオについて説明しました。
トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の時代が"出エジプト記”の時代だと述べましたが、どうも証拠が示されていませんねw。

で、今日は証拠をずらーと並べます。

①出エジプト記の記憶はラメセスⅡ世・メルエンプタハの時代ではない!

まず、エジプトのラメセスⅡ世とメルエンプタハの統治時代に、出エジプト記に記されているような記録は全くありません。この時代の記録は様々残っていますから、エジプトから多くの人々が脱出したという記録がないのは変な話です。
そこで、この時代を支持(定説となってます)する学者は、少人数の人たちがエジプトから出て行ったと想定しています。
例えば、イスラムが少人数から短時間に拡大したことなどを例に挙げたりしていますが、全く根拠となりません。

また、聖書に書かれている”ピトムとラメセスの町”を建設したファラオですが、この町を再建し始めたのはホルエムヘブだそうです。(出エジプト記 1-11)

第三に、メルエンプタハがパレスチナへ遠征した時の碑文はこうなっています。
「カナンはあらゆる災いをもって征服され、アシュケロンは連れ去られた。ゲゼルは捕らわれの身となり、ヤノアムは無に帰した。イスラエルは子孫を断たれ、フルはエジプトのために寡婦とされた。」
つまり、メルエンプタハの時代にパレスチナにはイスラエルと呼ばれる民族集団が既にいたのです。
聖書には、エジプト脱出後、エジプト軍によって”子孫を断たれる”ほどのダメージを受けたなどという記録はありません。
結局、エジプト軍によって虐殺された恨みが記憶として語り継がれ、イスラエル人を奴隷としてこき使ったファラオという聖書のイメージに結びついたのだろうと推測することに無理はないと思います。

②トゥトアンクアメンとアイの時代に出エジプトはあった!

この時代の記録は、既に述べましたようにほとんど残っていません。消されたためです。
●まず、傍証から。紀元前280~250年に生きていたエジプトの神官マネトは、「エジプト誌」という歴史書を書いたそうです。現物は残っていません。
この時代は4人のファラオが消されていましたから、マネトは当然この4人について知りません。つまり、消された4人のファラオの時代=ホルエムヘブの時代になります=の伝承を語っているそうです。
それによると、レプラ患者・不浄の人々など8万人がナイル東岸の石切り場で働かされた(=首都アケトアテンの建設と予想される)。その人々はエルサレムのヒクソス(=羊飼い)と同盟を結びエジプトを13年間支配した(アクエンアテンが改名してから約13年間エジプトの実質的なファラオだった)。
人々を指導したのはヘリオポリスの生まれで、名をオサルシフと言ったが、後に名を変えモーセと呼ばれるようになった。彼らは最終的にエジプトから追放されたというのです。
出エジプト記の12-39にこうあります。
「彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。」
マネトが言うように、"彼ら”はエジプトから”追放”されたのです。

●トゥトアンクアメンの石碑=復興ステラによると、次のようなことが書かれているそうです。
「かれらは二つの土地(上下エジプトでしょう)のすみずみから奸計(かんけい=アテン信仰のこと)を追い払い、女神マアトを復興し(アメン信仰を復興すること)、昔のように、この国の虚偽をいまわしいもの・・・」
アテン信仰=一神教を追い払った=追放したと述べています。
また、復興ステラには、神官がいなくなったので一般の役人や有力者の子弟から、神官を募集したと記されているそうです。
つまり、一神教=アテン神の神官はアメン神に転向しなかったことを暗示しています。

●アクエンアテンの時代の後期-通称アマルナ時代ともいいます-に伝染病が大流行したそうです。アマルナ文書には、ハッティの国の死者は膨大で、それがエジプトから及んだといってます。
「畑で収穫する者も、パン用に用いる粉を挽く女も、羊飼いも死んでしまい、神に捧げるいけにえを作る者もいない」という悲惨な状態だったようです。
当然、発生源のエジプトもそうだったでしょう。これは神がもたらした10番目の災害にぴったりです。

●同じく、アマルナ文書によると、アクエンアテンはイェルサレムを神聖な町と位置づけていたとされています。
「あなた(アクエンアテン)に知らせるために! 王はイェルサレムを自分の名を永遠に位置づけられたので、そこ(イェルサレムという地方)を放棄することはできない・・・」
この文書はイェルサレムの総督アブディ=ヘバがアピルの攻撃に晒されているいることをアクエンアテンに訴えるために出した書簡です。
イェルサレムがアクエンアテン=アテン神と深く関わっていること、マネトの言い伝えとつながりがあることが分かります。

●アケトアテンが作ったという”アテン賛歌”は旧約聖書の詩篇104に極めて似ているか、ヒエログリフで書かれた詩の原典はかなりの部分でヘブライ語の詩篇104と一字一句同じだと言われています。
アテン神=聖書の神との奇妙な一致がみられるということです。

●レビ族の名前は、ほとんどがエジプト風の名前だそうです。モーセ、メラリ、ピネハス、アシル、プラィエル、フルなど。

●アクエンアテンが造った黄金と光の都市(=首都)アケトアテンの廃墟から、平民の家が発掘されましたが、主要な部屋のひとつに聖域がおかれ、その聖域には赤く塗られた柱をもつみせかけの入り口と壁がつくられいるそうです。
これは、出エジプト記 12-7~13に似ています。
「その血を取って、子羊を食べる家の入り口二本の柱と鴨居に塗る・・・あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。」
また、アケトアテンは国際都市で、ミノス人、ミケーネ人、キプロス人、バビロニア人、ユダヤ人、その他多数の世界に知られていた民族が隣り合って住んでいたと言われています。

●最も古いと言われるアラム語の聖書(ヘブライ語の聖書をアラム語に訳した聖書)では、神のことを次のように言っています。
「イスラエルの神アドネ・アイは、次のようにいわれました」
この場合、アドネ=君主なので、”イスラエルの神である君主アイは、次のようにいわれました”となります。
”アイ”とは、既に述べたトゥトアンクアメンの次にファラオになった人物です。
当時のエジプトでは、ファラオ=神でしたから、この表示は正しいのです。
メソポタミアでは、人間が神とイコールになることはありませんでした。エジプトとメソポタミアとでは、神に対する概念がかなり違います。
聖書はメソポタミア風の神概念を採用しながらも、しかも唯一エジプトで生まれた一神教の形を取っています。

●駄目押し。ツタンカーメンの墓を見つけたハワード・カーターがイギリス領事館で言った言葉。
「・・・完全な満足を得られない限り、王墓で発見した”エジプトからユダヤ人が脱出した際の記録”を世界中に公表する!」
ハワード・カーターのパトロンだったカーナヴォン卿が墓を開いた時の状況を示した手紙では・・・・。
「・・・何枚かのパピルス、ファイアンス、宝石、花束、アンク十字を形どった燭台に立てられた蝋燭があった・・・」
トゥトアンクの時代に出エジプトの事件があり、それを記録したパピルスはあったのです。ですが、イスラエルの建国という時代背景から、それは闇に葬られたようです。

証拠を探すと、まだまだ沢山でてきます。それらの証拠は、明らかにトゥトアンクアメンとアイの統治時代に出エジプトの事件があったことを指し示しているように思います。

次回、また謎解きは続きます。では、またお会いしましょう


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