ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

シドニー行:200年を以上を歩き回って

2019年01月05日 | オーストラリア:シドニー

「父上」「息子」と呼び合ったフィリップ総督とベネロング
 


その話だけならば、植民政策の理想のような展開ながら、
そんな植民地が世界中のどこにもなかったことは史実であり、
親密な2人にも様々な思惑があったことは想像に難くありません。


先住民族たちは、「仕返し」やその他自分たちの掟をもって
入植者たちと渡り合おうとしたものの、相手には通じず、
関係はすぐに行き詰まってしまいました。


入植者たちは侵略者であり、略奪者でした。
アボリジニの掟を次々に破って土地や女子どもを奪い、
生活の場である森を焼き払う恐ろしい人々でした。


入植者と先住民の小競り合いが絶え間なく続き、
銃で武装した入植者への抵抗は命がけでした。
そして流血の惨事が繰り返されていきました。


ぺムルウェイという類まれなリーダーは各部族の戦士を率い、

(※ぺムルウェイ)


植民政府に抵抗し、ベネロングと正反対の道を選びました。

(※ボディペインティングを施したアボリジニの戦士たち)


1797年のパラマタの戦いでは自らも被弾して重体となり、
病院で手当てを受けましたが、その後病院を抜け出し、
不死身説が出たり、首に賞金がかけられたりしました。
1802年に射殺されるとその首はロンドンまで送られました。


1810年には5代目にして最後の総督ラクラン・マッコーリーが着任。
シドニーの道路網や数々の公共建築の建設に着手するだけでなく、
元流刑囚に入植者としての機会を与え、街の発展を急ぎました。


マッコーリーの下、ニューサウスウェールズ州は流刑地から
貿易都市へと変遷を遂げ、オーストラリアという国家としての
概念が芽生え、彼を「建国の父」と称するのもそれゆえです。
1822年に帰任し、1828年には入植者だけで人口1万人以上に。


マッコーリーが帰任した1822年のパラマタ



マッコーリーが建設したハイドパークバラックス

当時は男性流刑囚宿泊施設、現在は博物館


1830年の服役中のギャングたち

みんな足枷をしており、いかにも悪そう(笑)


1844年にスザンナプレイスができています。

ロックスがスラム街と呼ばれていた頃。


鉄道が次々と敷かれ



20世紀を迎えても



街やインフラの拡大が続き



1940年代でこのモータリゼーション

なんと豊かな暮らしぶり


私が生まれた1960年代にはこんな生活もあったんですねぇ



キャンプもしてるし(笑)



とまぁ、200年以上の歴史を猛烈に見て、読んで、歩き回って
くったくた(笑)
また再訪しましょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする