第43代紫組要領次第

開成高校第43代紫組要領次第係のホームページ。

未来学だってさ

2009-09-27 20:00:00 | Weblog
【授業内容についての、先ほど話題になった英語の文章についての記載がごちゃまぜになった投稿です】

件の授業ですが、
未来学という謎の分野の授業だったようです。正確にはfuturistを自任する人の授業でした。
でした、というより、これから一学期間勉強するわけですが。。。必修だし。

文章が絶望的に意味不明だったので、
きっとネイティブではないに違いないと思って授業に出たところ、
まるでTOEFLのリスニングの声のような、
典型的な発音をしてくれる
"完璧な"ネイティブenglish speakerでした。
むしろ珍しい。
(日本語の教材では異様にはっきり(自然な日本人以上に日本人的な発音で)しゃべりますよね。あんな感じ。聞いたことないならごめんなさい。)

おかげさまで授業自体の「英語」は極めてわかりやすかったです。
しかし、語られている「内容」はほとんどの学生が腑に落ちていなかったです。

というのも、
未来については予測したり、起こりうる事象に備えておく、だけでは不十分で
未来を大胆に描いて、そのビジョンに照らして、現在の政策を見つめて、構築していくべきである。
みたいな内容だったからです。

「大胆に描くってのはいいんですけど、なんにも基準がないで描いていたら、
サイエンスフィクションと何が違うんですか?」
という喧嘩を売るような質問まで飛び出してなかなかおもしろかったです。
スターウォーズ的な大胆な(笑)未来像はだめらしいです。

基準的には、desirableでありrealsiticである、定性的な基準があるだけのようです。

文章がよくわからなかったのは、ようはC.P.Snowの文章のようなものだったからだと思います。
哲学的な文章なんでしょうね。きっと。
だから、多分、いくら読んでもわかりません。

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思い出すのはフランスの法律の授業で、
一文一文丁寧に訳す授業が大学院一年目にあったことです。
その授業が無意味なものではないならば、
多分、法律系の人や、哲学系の人は、一つ一つ丁寧に練りこむのが仕事で、
理系とか、経済とか、コンサル(浜根君のコメントから勝手に推測しました)とか
(要するに世の中の大半は)においては文章の大意を汲むのが重要なんではないかなと思いました。


Sunday.
In the morning.
I heard a bell ring.
I did not know where the bell was.
It must be in some belfry of the city, anyway.

"Hmm, nine fifteen...as on the last Sunday morning," I murmured.

That was the sole utterance from my vocal cords throughout the day.

Sunday.
No one to talk with.
No one to send an email to.
Nowhere to go.
Just staying in my tiny studio.
That is the Sundays for me.

Splendid isolation.

言語考

2009-09-25 17:22:14 | Weblog
海外に来て強く思ったことであるから書く。

西洋人は英語にしろフランス語にしろ、習得が比較的容易である。
ある程度のレベルまでは、という意味であるが。

というのも、まず

-アルファベットが同じである。
-語彙が共通していることが多い。
-文法構造が似ている。
-コミュニケーションのスタイルも似ている。


特に、後者の二つは大きい。
はっきり言って、(自分からすると)わけのわからない発音で、
意味不明な内容を二、三回べらべら繰り返しているだけの
スペイン人の英語が、英国人の教師には理解できるのである。

そのくせ、自分がしっかり練り上げた(つもりの)文章を簡潔に一回話すだけでは伝わらない(ことが多い)。

これは、基本的なコミュニケーション、の仕方が似ているからであろう。
うまく詳述できないが、これは間違いない。

一つだけ言えるとしたら、西洋人は、同じことを違う言い方で2,3回繰り返す。うっとうしいぐらい。
これがうまい。だから、そもそも語彙が適切であることが多いが、仮に語彙が間違っていたとしても、言い換えているうちに、より正確に伝わる、ようである(傍から見ていてそのように見える)。


語彙に関しては、ミャンマーの学生と、西洋人は有利である。と昨日愚痴をこぼしあった。

これから課題図書を読みます。無理ですよ。本当に。13時から授業です。いま10時半です。
土日はひたすら読みます。

英語の困難

2009-09-25 16:55:28 | Weblog
授業についていけない。

聞くのはなんとかなる。
しかし、読むほうである。

言語において一番高等な技術を要求されるのは、
読み書きだと思う。
聞く・話すよりも、はるかに高い能力、語彙力、文章読解力を要求される。
日本語の国語の教科書や作文みたいなもんだ。
一番苦手である。

授業の直前、前日ぐらいに、
授業までに読まないといけないものが知らされることがある。
平気で100ページを超えている。今回は200-300ページである。
英語で。しかも難しい。

読めない。
ざっと読んでも意味がつかめない。
しっかり読んでも意味がつかめない。

はて。どうしたものか。

8月に受験したTOEFLは
107点だった。readingとlisteningは満点近かった。
かなり良いほうで、最低限の能力は満たしているはずである。
話すのと書くのが悪かったけど。。。


周りの学生もそれほど切れ者のようには見えないので、
多分同様の困難を抱えているはずである(英語を母国語としていない学生については)。
それだけが救い、というかなんかreassuringな要素だ。


とりあえず、見出しに目を通して、
一つ一つの見出しについて英語がわかる部分だけを抜き出してワードにまとめて、
なんとか凌ぐつもりである。

うーん。なんとも不毛である。
日本にいるほうが言葉の壁がない分勉強の内容に身が入る気がする。
英語についてはeconomistでもこれからはしっかり読もうと思う。
あれも難しいからよいトレーニングになるはずだ。

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日本の英語教育だが【やるんだったら】もっと気合を入れたほうがいい。
小学校から始めるなら、中学校までで話す聞くをほぼ完璧にできるようにして、
高校・大学では高級な英文の読み書きまでできるようにすべきである。

もちろん、日本にいる限りは英語を使わないという人生も選択できるから、
高校以降は選択制でいいと思う。

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学生のほとんどが留学生である。
観察して気づいたことであるが、

アメリカ人のほとんどは英語しか話せない。

ということである。

理由は、
海外がその国に与える影響が小さいから。
だと思う。

また、翻って日本人のほとんどは、
10年以上の英語教育にもかかわらずろくに英語が使えない。
これも同様の理由だと思う。

海外が日本に与える影響が、他の国に比べてはるかに小さいのではなかろうか。

これが日米の共通点である。
強い国だからこそ、自己完結できる。

一方、他のアジアの国の学生は英語がうまい。
なぜならば、彼らは英語を使えないと困るからであろう。

あと、アジア人女子はかわいい人が多い。

学生の年齢層であるが、25-30歳が一番多い。気がする。

復活

2009-09-20 19:39:59 | Weblog
復活しました。

心配してくれてありがとうございました。

お米がうまく炊けないけど
あと一回実験すればうまくいくと思います。

毎食納豆でもいいので、
毎晩、
納豆、米、トマト、インゲン、アスパラガス、りんご
で一年間生き延びようと思います。

本当は美しく料理したいんですが、キッチンがひどくて、野菜をゆでるぐらいしかできませんね。

初日はハンバーグとか作ったんだけど、一人だと反応がないしね。
ま、料理は大きなキッチンのある家に住めるようになったらってことで!

ずっと先の将来でもいいからお金稼げるようになりたいですね。

ハングリー精神

2009-09-19 04:57:43 | Weblog
昔からハングリー精神という言葉が嫌いである。
まるで金持ちには努力する意思がないかのような言い方を伴って、
語られることが多いからだ。

ハングリー精神は貧しい人間が自らの豊かさのためにがんばるという文脈で使われる。
それよりももっと大切なのは、自らの豊かさのなかに、他者の幸せをいかに内部化するかということではなかろうか?
もしくは、
豊かであるがために、その天の恵みを周りに適切に還元するための努力、つまりnobless obligeの精神が大切だと思う。

やばい、文章の構成がひどい。いつも以上にひどい。頭の回転が明らかに低下している。食糧難である。目がかすむ。

とまあ、しかしながら、今の自分を見てみると。
劣悪な環境である。少なくとも今までの人生の中で最悪な環境である。
もちろん、他の人と比べれば相当恵まれている環境なんだけど、
自分的にはin hunger。

ハングリー精神とは言わないまでも、
小さな汚いアパートで住む、ということがどれだけ惨めなことかがひしひしとわかってきてるわけでして、
ハングリー精神なんてのもこういう場所で蓄えられるんだなぁ
なんかよくわかるわ。
こんな環境にいたら、他人がどうなろうとも、お金稼いでいい家に住みたいと思うようになるなあ、などと考え始めてみた。

いままでの自分では絶対に思いつかないことでして、
ちょっと意外だった。

でもそんな自分がいやである。
ハングリー精神よりも、
nobless oblige
それから儒教的な自己の内面をひたする見つめる姿勢。
その辺が自分のコアである。

だめだ。この文章は。

巴里の音と声 第一回

2009-09-14 01:49:42 | Weblog
巴里の声と音 第一回

巴里に着いて始めの頃だったがひどい熱に襲われたことがあった。回復した後は、環境の変化だから仕方がないと慰める人もいれば、空気の乾燥の対策をうって今後同じことにならないようにしようとアドバイスをしてくれる人もいた。

しかし病魔に苦しんでいる最中は一人だった。大家はお金だけもらったらあとは全くかまってこない人だったし、学校は始まって間もなく、知り合いもおらずだれも尋ねてくる人はいない。おそらくは昔の使用人の部屋だったであろう小さな寒い屋根裏部屋で、極東の人間が苦しんでいたとしても、誰も気づかない。気づくことを期待することが非現実的であろう。

ただひたすらに床に伏せって、嵐がやむのを待つかのように、自己の回復力を信じながら待ち続ける。祈るとかそういうのは不適切である。ひたすら待つ。こんなときでも、人は外界の情報を得ようとする。目は閉じられている。もとより食事は取れない状態である。においもあまり入ってこない。しかし、音。音だけは自然と入ってくる。これだけが巴里という国際大都会と、極東から来たやせこけた学生をつなぐ紐のようなものであった。

毎日夕方6時になると階下からピアノの音が聞こえてくる。ピアノの楽曲というにはあまりにも稚拙な、ピアノの音である。一応、なんらかの曲を構成するべく懸命に演奏していることだけは伝わってくるが、それ以上のものではない。しかしながら、病に斃れているとき、こうした音が聞こえてくると大変に心強く感じた。理由はわからなかった。

今になって考えてみると、一人ぼっちだと思っているときに、「階下に人がいる。」そう気づくだけで、人は少し安心するのではないか。知り合いじゃなくても、知り合うことが一生ないとしても、安心するのではないか。こうした安心感が実際に身体に好影響を与えるのかどうか走らないが、なんにせよ、ありがたかった。

私の巴里生活は同時に私にとっての初めての一人住まいでもあった。いろいろなことを感じ学んだ一年間であったが、ここでは、音、声、という切り口からあの一年間を振り返っていきたい。

アパートから第一報

2009-09-13 03:10:25 | Weblog
強烈な発熱で死にかけている

これ、急性喉頭蓋炎で死んだとしても誰も気づかないね。

孤独死だね。

恐ろしいね。

とにかく回復するようにします。

ではまた。パリは寒いです。空気は乾燥しています。なのに、パリ人は、暑いとか言っています。
むかつきます。