【序】
Iagoって日本名にするなら岩男ですかねw(ちょっと音が似てる)
さて予告どおり、
「夫妻の関係が演技によってどうかわるか。舞台はただ筋を追うだけではない楽しみ方がある」というテーマに
ついて書きたいと思う。
この前、
「同じ文章でも役者の演技でぜんぜん内容が違うんだよ。ストーリーの筋を追うだけではない楽しみがあるんだよ。」という話をした。でも、具体的に話すことがでいなかった。
それを具体的に今日は書く。
(自分のオセロー知識は、
この前の舞台と、舞台見る前に読んだ本と講義に限定されているので、
以下に書くものが、深い考察になる自信はないけど。)
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これから書く内容をまとめると、こういうこと。
「自分が観劇前に、戯曲を読んだ時に受けた印象では、
エミリアはなんかもうイアーゴーに愛想を尽かせてしまっている印象だった。
でもって、なんかこう、倦怠期真っ盛りな夫婦っぽい印象を受けた。
しかし、観劇すると、エミリアはイアーゴーのこと大好きだし、
しかもエミリアはかなり善人だった。」
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【本論】
自分のイメージしていたエミリアの演技。
ハンカチを持ってきてイアーゴーに渡すシーン。
戯曲で
「ご褒美に何をくれるの?」
との台詞がある。
自分の観劇前のイメージではエミリアは善人ではなかったので、
この台詞から浮かんだイメージは
ハンカチを旦那の前でちらつかせながら、
「盗んできてやったわよ。別にもう旦那のこと好きでもない。だから、旦那のいいなりになったわけじゃないわ。でもまぁ、これを手柄に、バッグでも宝石でも買ってくれないかしらね。」
というイメージだった。
自分の想像力が貧困だからかもしれないけど、観劇前に戯曲を読んだときは
そういうキャラなんだろうなと思っていたのよ。
しかし、観劇時は違った。
違ったし、この解釈のほうが絶対いい!
蜷川さん&馬渕さんありがとう!!って感じだった。
目にした演技とは、
エミリアはイアーゴーのことを愛していて、
取ってきたハンカチを使って、
ちょっと意地悪して甘えているそんな演技なんですねー。
「ねぇ。とってきたのよ。たまには私の相手してよ。」
みたいなね。そんなイメージが、
「ご褒美にナニをくれるの?」
という馬渕さんの台詞からほとばしっていましたね。
同じ台詞でも演技によって中身がぜんぜん変わる。
と言う話でした。
これでこの前の飲み会時、うまくこたえられなかった話は伝わったかな?
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予告した残りの二つについてはまた今度。
そうそう、借してくれたオセローの英語版ですが、
冒頭の日本語の解説に面白い情報を見つけた。
オセローは、シェイクスピアがどっかの話を翻案した作品なのだが、
翻案元になった作品にはロダリーゴーはいない。
オセローにおけるロダリーゴーはシェイクスピアの創作である。
ということを知った。
これが予告編の3つ目に書こうとしていたロダリーゴーの役割に関わってくる。