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医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

開花した蓮の花を見たら幸せな気分となる

2015-06-22 07:11:37 | 雑記・断片・映像
昨日の雨は午前2時頃まで降っていたようだ。
早い新聞配達の新聞はビニール袋に収まっていて、ポストにはみ出していた部分が濡れていた。
毎日新聞は配達が遅いので、午前4時頃我が家に届くが、ビニール袋には入っていなかった。
実はポストの蓋が壊れているのだ。
新しいポストは買えるが、門のコンクリート中にポストが組み込まれているので、壊れたポストはそのままだ。
家人が午前4時30分起きてきて、目を覚ます。
「もう、散歩へ行ってきたの?」と聞かれたが、一瞬、驚く。
時間が午前6時頃になっているのかと思ったのだ。
2時まで起きていて、寝てしまったのだ。
何時もなら徹夜の生活なので、午前2時に寝たのは疲れのせいだ。
何もかもが億劫に思われて、面倒で新聞も読まず放置していた。
新聞3紙は二日読まないと読むべき新聞が6纸に増えることとなる。
以前、遊びが過ぎて読むべき新聞を1週間もためた。
通勤のバックにそれらの新聞が収まっていた。
通勤のバックは2つ。
バックが重くなると別のバックで通勤した。
さらに月刊誌も読まずにためたのだ。
捨てるに捨てられない。
ところで、今朝は取手・井野の本願寺の蓮の花が開いていた。
数日前、知人の西田さん(仮称)と見に行った時は蕾みのままであった。
開花した蓮の花を見たら幸せな気分となる。













映像のチャンスを逃す

2015-06-19 06:53:17 | 雑記・断片・映像
カメラを忘れて散歩へ行く。
そんな日に限って、映像のチャンスを逃す。
燃えるような朝焼けであった。
早朝の吉田地区方面は数台の消防車のサイレンの金属音が交差して、火事の炎だと思ったほどだ。
だが、朝焼けだった。
その日の夕方、テレビでも放映されたが、夕焼けの赤さが異常であった。
「不気味な色で、何か悪い予感がした」と家人はキャノンのビルから西の空を見たそうだ。
当然、当方もその夕焼けを見ていると思ったそうだが、当方はCSテレビで阪神の応援をしている最中であり、夕焼けを見ていない。
「携帯電話で教えてあげればよかったわね。見ていると思ったので連絡しなかった」と家人は惜しむ。
テレビで放映された夕焼けは朝の散歩で見た朝焼けそのものの異常な炎のような色で空が染められていた。
オーロラのような朝焼けも見たことがあるが、それはピンク色に緑色や、淡い水色が混ざったような色合いであった。
雲に含まれる水滴が昇り来る太陽の光をプリズムのような効果で微妙な色彩を描きだしたようだ。
今朝は、親子の猫が船田さん(仮称)の一段高い玄関のドアの前に座っているのを見た。
小猫は生まれてそれどどたっていない様子であった。
その親猫は数年前には、知人の桧木さん(家人)庭の隅に居て、小猫を3匹連れていた。
今日は二匹の小猫を抱えるようにうずくまっていた。
カメラで写せなかったのが残念だ。












花菖蒲とアヤメはどのように違うのか?

2015-06-19 06:24:07 | 雑記・断片・映像
椿と山茶花の区別がつかない、と家人がいつか言っていた。
パートで行っいる取手のキャノンには、山茶花が咲いているそうだ。
パート仲間が花の名前を教えてくれたそうだ。
また、百合とアマリリスも似ているのだ。
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御苑の花菖蒲は、明治26年(1893年)、明治天皇の思し召しにより昭憲皇太后のために植えられたものです。
 明治神宮御造営当時は、江戸系の48種があったと伝えられており、その後、堀切(葛飾区)など東京近郊から江戸系の花(※注1)が集められ、現在では約150種1500株が咲き競います。
 明治の御代(みよ)から、仙人洞(せんにょのほら)、九十九髪(つくもがみ)、都の巽(みやこのたつみ)などの菖翁花(※注2)が大事に育てられています。
 新緑で輝く雑木林に囲まれ、清正井(きよまさのいど)から湧き出た清らかな水によって潤う菖蒲田は、比類のない気品をたたえております。

※ 注1 花菖蒲には「江戸系」「肥後系」「伊勢系」などがあります。
※ 注2 江戸後期、「花菖蒲中興の祖」といわれる松平定朝(通称・菖翁)が作出した品種をいいます。

佐原の古い街並みを見に行く

2015-06-18 06:37:04 | 雑記・断片・映像
取手駅発9時13分の電車で成田へ向う。
バイクで駅まで来た家人は駐輪場へバイクを預けた。
2時間まで無料だが、8時間で200円、それを過ぎる200円の追加であろうか?
成田線は1時間に2本の電車であり、9時47分まで待合室で待つ。
当方は、佐原まで行くのに旅行気分なので、取手の田中酒造の「きみカップ」君萬代を買う。
冷えているので、250円。
「昼間から飲むの!」と家人は呆れる。
実は3日前の午前1時からお腹が痛み、昨日もろくに食べていない。
だが、今朝は痛みが収まっていた。
約30分で成田駅へ到着。
隣のホームに銚子行きが到着するのを待つ。
10時48分前後の電車で少し待つ。
成田線はローカルな風景で心が和む。
田圃の稲の穂が青々として涼しく感じる。
南側が平坦の田園風景であり、北側は小高い山林が連なっている。
景色としては山側の景観に心が惹かれる。
「こんなところに、山間に住んでみたいね」と家人も車窓の景色を見ている。
佐原駅へも約30分、佐原駅から銚子までは45分ほど。
駅前からシャトルバスに乗った。
バスガイドの人が説明してくれたが、利根川の周辺が茨城県の稲敷市で渡ると佐原市であった。
植物園まで500円、40分くらいで到着した。
雨模様であったが、晴れてきた。
日差しが熱くなり、日傘をさしている人もいた。
平日であるが、観光バスなども10数台停まっていた。
「晴れていれば、筑波山も見えます」とバスガイドが言っていた。
「ええ、意外と近いのね」と家人。
家人の友人の江戸川さん(仮名)は時々、佐原の「みちの駅」まで買い物に来ているそうだ。
それで家人は江戸川さんから佐原の情報を得て、佐原行きを思い立ったのだ。
自分はあまり気が進まなかったが、船に乗った。
エンジンの船で情緒を感じなかったからだ。
植物園内の船が無料であったが、たくさんの人が待っている。
「待ちたくない」と家人は船に関心を示さず、12橋巡りのエンジンの船に気が向いていて、写真ばかり写している当方を「早くして」と急かすのだ。
船は40分、1人1300円、5人以上集まったら船がでる。
貸しきりは6000円という。
潮来とつながっている水路へ向う。
12橋まで来ると船はエンジンを切って、櫓で漕ぎ出す。
1本の橋はコンクリートで、自動車も通るが、残りの11本のは木橋である。
各家の川へ向かって階段があった。
昔は水路で家事もしたのだ。
紫陽花の花が多かった。
船は途中、水路の店へ寄る。
草餅の団子を買って食べた。
水路までは海のような幅広い川を行く。
風が強く水しぶきで濡れる。
戻ってくると写真が用意されていた。
1100円である。
実に鮮明に撮れていた。
家人はいらないと断る。
植物園内の船の乗船写真は1300円であった。
この写真の鮮明さに驚いた。
ほとんどの人が、展示された自分たちの写真に見向きをしない。
500円なら買うであろうか?
再びシャトルバス(500円)に乗り、佐原の古い街並みを見に行く。
無料のガイドに申込もうとしたら、家人は気が変わる。
40分かかると聞いたからだ。
無料のガイドは各お店へ連れて行く。
漬物、つくだ煮、団子、芋のアイスクリームなど、さらに2軒の地酒の醸造蔵の見学などもガイドに組み込まれていたが・・・
午後2時47分ころの電車で佐原駅を出たが、銚子(45分)か鹿島神宮(30分)へ行きたかった。
「疲れたから、帰るよ」と家人は応じない。
佐原の地酒を飲んだら眠くなり、車内でぐっすりと寝てしまう。
「私が起こさなければ、東京まで行くところだよ」と嫌味を言われてしまう。
取手駅前の魚民で寿司などを食べて帰る。
生ビールのサービス(キャンペーン?)の呼び込みで、まず生ビール。
日本酒は2合にした。







































佐原 あやめ祭り開催期間:5月下旬~6月下旬

2015-06-17 21:43:38 | 雑記・断片・映像
あやめ祭り開催期間:5月下旬~6月下旬
開園時間:8時~18時30分

あやめ祭り期間中には、東洋一の品種数を誇る園内で栽培された 400品種 150万本の花菖蒲が一斉に咲き乱れ、紫・白・ピンク・青など色とりどりの花をつけます。また、園内の水路をサッパ舟と呼ばれる小舟に乗って巡ることができます。水上からの花菖蒲もまた格別の美しさです。
佐原の町並み






水運を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄えていた佐原。人々は、江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました。その面影を残す町並みが小野川沿岸や香取街道に今でも残っています。このような歴史景観をよく残し、またそれを活かしたまちづくりに取り組んでいることが認められ、平成8年12月、関東で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に選定されました。佐原の「重伝建」は昔からの家業を引き継いで今も営業を続けている商家が多く、「生きている町並み」として評価されています。
重要伝統的建造物群保存地区重要伝統的建造物群保存地区伊能忠敬旧宅(寛政5年(1793)建築・国指定史跡)のほか県指定文化財も8件(13棟)が小野川沿いや香取街道沿いに軒をつらねています。
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国指定史跡

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■伊能忠敬旧宅

伊能忠敬が佐原で30年余りを過ごした母屋と店舗がそのまま残されている。

母屋は寛政5年(1793)忠敬自身が設計したものといわれている。

忠敬翁は17歳で伊能家の養子となり、醸酒業ならびに米穀薪炭販売に精励すると共に、村政の中心として活躍した。50歳で隠居をして、天文学や地理学を学び、大日本沿海輿地図を完成させたことで広く知られている。佐原が生んだ世界に誇る科学的地図を作成した偉人である。

<建築年代>
店舗・正門:不明
書院:寛政5年(1793年)
土蔵:文政4年(1821年)以前

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千葉県有形文化財


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■三菱館

旧三菱銀行佐原支店(香取市所有)

県内でも有数の洋風建築として知られ、イギリスより輸入したレンガを使った2階建ての洋館。内部は吹き抜けになっており、2階周囲に回廊がある。

屋根は木骨銅板拭きで、正面建物隅にドームを設けている。

川崎銀行佐原支店(開業明治13年)として、清水建設の前身である清水組により建設され、本店(日本橋)と同時開業。現在は市に寄贈されギャラリーとしても活用されている。

<建築年代>
大正3年(1914年)

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■福新呉服店

文化元年(1804年)の創業、佐原で八代目の老舗。

前面と側面は土蔵造りの堂々とした間口で当時の隆盛が偲ばれる。

店舗奥には、井戸のある中庭があり、文化財の土蔵やトイレなどを一般公開している。佐原の商家の典型的なつくりで、映画、ドラマのロケ地として使われる。

生活空間であるたたずまいそのものが生きている博物館として「佐原まちぐるみ博物館」の一号館となっている。昔の生活道具や衣装なども置かれ、自由に見学できる。

<建築年代>
店舗:明治28年(1895年)
土蔵:明治元年(1868年)

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■中村屋商店

明治7年頃より代々荒物・雑貨・畳を商ってきた。正面の交差した道路に沿った変形の敷地であるため、母屋の角の柱を五角形断面にしている。内部の架構に工夫をこらし、間取りも変形平面の部屋を設ける等、全体として一階に店舗と台所を、二階には座敷を設け、よくまとまった平面構成となっている。

「まちぐるみ博物館」の一つとして、一枚の紙から作られた「連鶴」を展示している。

<建築年代>
店舗:安政2年(1855年)
土蔵:明治25年(1892年)以降

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■正文堂

大黒柱は欅材、2階の窓は土塗の開き戸、さらに横引きの土戸に板戸と、三重に防火設備を伏した土蔵造りとなっている。登り龍、下り龍を配した看板が特に目を引く。

「正文堂」の文字は巌谷修の書(明治29年)である。

重厚などっしりとした立派な建物である。

<建築年代>
明治13年(1880年)

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■正上

江戸時代より醤油の醸造をしていた老舗。創業は寛政12年(1800年)5月。現在は10代目。戦後は佃煮の製造販売が主となった。土蔵は明治初期の建築。江戸時代の店構が残る数少ない建築物であり、当時の戸締りの方法である「よろい戸」方式が残っている。店の奥には千本格子の障子戸が残り趣がある。

「まちぐるみ博物館」の一つとして、映画・ドラマの映像写真やデータが掲載されている。

<建築年代>
店舗:天保3年(1832年)
土蔵:明治元年(1868年)

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■小堀屋本店

創業は天明2年(1782年)切妻平入瓦葺きの建物で、奥の土蔵には蕎麦作りの秘伝書や道具類が残っていた。

建物は木造2階建で、店舗、調理場、土蔵が一体となった明治時代の形式をそのまま残している。

表のガラス戸は明治35年に旧佐原市で初めて使われたものであり、貴重な文化財である。

<建築年代>
店舗:明治25年(1892)
土蔵:明治23年

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■中村屋乾物店

店舗は、明治25年(1892年)に佐原を襲った大火直後に建築されたもので、当時最高の技術を駆使した防火構造で、壁の厚さが1尺5寸(約45cm)にもなる建物。間口は3間で、1階は畳敷と通り抜け土間のある店構え、2階は屋根裏を表した倉庫になっている。1階の正面は揚戸と土間の建て込み、2階は観音開きの土戸としている。小屋組み6段、出し桁化粧造りとなっている。

文庫蔵(総檜)は、店舗から1間程離れて建つ3階建ての建物で、1階と2階は明治18年(1885年)の建築、3階は店舗とともに明治25年(1892年)の大火の前の形で再建されたもので、2室(8畳間と6畳間)続きの座敷となっている。

限られた敷地の中に蔵造りの建物が建つため、居室に文庫蔵の3階をあてるなど居住空間の配慮に工夫が見られる。建築当初の様子がそのまま残っており、堂々としたたたずまいである。

<建築年代>
明治25年(1892年)

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■旧油惣商店

創業は寛政6年(1794年)で、奈良漬けづくりを始めた。明治から昭和戦前までアメリカへ輸出。

旧店舗は、木造・寄棟妻入二階建・瓦葺で、間口三間半、奥行五間の大規模な総二階建である。

土蔵は切妻平入二階建・瓦葺で屋根裏を含めると三階建、棟札に「寛政十戌午歳九月 立之大工 佐吉立之」とあり、佐原最古の土蔵の可能性がある。大正5~6年に増築。

酒造業銘柄『菊華』。佐原で初めてキリンビールを販売する(大正年間)。

江戸、明治、大正、昭和30年までの建物、家財がそのまま維持されている。

<建築年代>
店舗:明治33年(1900年)
土蔵:寛政10年(1798年)










































佐原へ来て、突然、20代のころが思い出された

2015-06-17 21:24:35 | 雑記・断片・映像
知人が千葉の佐原へ行ってきた。
その話を聞いて、急に佐原へ行くことにした。
佐原は27歳か28歳の時の日本薬業新聞社の1泊の社員旅行へ行って以来だ。
当時、労働組合活動で、会社側と我々社員は対立していて、旅行ではとんだハプニングもあった。
営業の矢頭さん(仮名)が酔いにまかせて、支社長の部屋へ殴り込みに行ったのだ。
部屋の電灯は消され、乱入した矢頭さんと同じ営業の近野さん(仮名)が、支社長に対して寝ていた蒲団を帯で縛って蒲団蒸し状態にしたのだ。
支社長のお父さんで顧問の先代支社長が駆け付け、社員たちの狼藉行為を制圧した。
「そもそも、お前が悪いんだ。社員たちを責められるのか!」と息子を一喝!
蒲団蒸しから開放された支社長は親父さんの頭が上がらないので、うなだれていた。
佐原へ来て、突然、20代のころが思い出された。














体験談こそ、会合の大きな命題

2015-06-15 23:37:23 | 雑記・断片・映像
昨日は、地元の会合に大先輩の大田和さん(仮称)を招いた。
「八重洲地区へ入るのは初めてです」と言っていた。
以前は、吉田地区に住んでいたので、大田和さんには地元の人としての親しみはあった。
やはり、体験談を聴くことが参考になるし、とても感動した。
参加者は幼児も含めて7人で寂しかったが、次回は友人たちの参加も期待したい。
体験談こそ、会合の大きな命題。
74歳の方の「人生の軌跡」を拝聴できるのである。
ぜひ、8月の会合では再び戦争などの体験談を多くの人から聞きたいものだ。
最近は、午前1時~4時まで起きていて散歩へ行く昼夜逆転の生活。
このため午後1時から3時くらいの会合は眠くなるが、昨日は眠くはならなかった。
次回は誰を招き体験談を聴こうかと思っている。
ともあれ、地元取手も人材は豊富である。
ところで、今日は友人から株などの話を聞けた。
1株171円で買った株が最高2620円に、原発関連企業の株だった。
原発事故で570円台くらいまで落ちたが、彼は1800円台の時に売っていた。
つまり10倍に資産が増えたのだ。
奥さんが3000万円も浪費してから、彼が預金、貯金などの管理をしているそうだ。
「食費しか、与えてない」と言っていた。
「豪快な奥さんですね」
「豪快というか、バカなんだな」と戸村さん(仮称)は余裕の笑顔であった。
年末に仕事を引退し、日本1周の旅へ。
「念願の計画なんで、キャンピングカーも買った。3日に1回はホテルか旅館に泊まる。温泉が大好きなんでね」
今でも月に2、3回は温泉旅行へ行っているのだ。
「運転が好きなので、疲れないんだ」とも言っていた。
彼は73歳。「先日は、下請けの職人と宴会をしたけど、日本酒を7合も飲むと3日はおかしいね」とも言っていた。
彼は料理が趣味で時々自宅にお客を招き、自ら工夫の料理をして宴会を開いている。
あるいは老人会の人たちと1泊旅行へ。
「自動車は7人乗れるので、道具として重宝しているよ」と快活に笑う。


午後5時頃に取手駅前のベンチで知人と話す。
実は彼の苗字は聞いていない。
「俺の顔いいだろう、実は歌手を目指していたのだけれど、難聴になってね。歌手は諦めた」
彼が何度も聞き返すので納得した。
当方は歯切れが悪いので、何度も聞き返され、同じことを言っていたが、彼は難聴だったのだ。
「どうだ、船木一夫の歌、聴かせようか?」と歌いだす。
確かに歌がうまい。
そこへ家人から携帯電話で「日高屋の餃子の持ち帰り3人前、お願いね」と言ってきたので、彼と別れた。
ところが途中、「寄って行きなさいよ」と庭に招かれ、知人のご婦人たちと縁側で懇談となる。
2人が80代、お一人が60代、共通なのは猫である。
3匹の猫をそれぞれが抱っこしている。
そこへ2匹の野良猫もエサをもらいに来た。
ご主人を亡くしてから、猫好きになったと河野さん(仮名)は笑っていた。
河野さんの旦那さんは40代の頃、麻雀仲間であったが、60代で亡くなったいる。
皆さんに花や猫のデジカメの映像を見せた。
「あなたは、カメラ趣味なのね。入院している息子のカメラがあるけど、重くてね。そのカメラ軽そうでいいわね」と画面を覗き込む河野さんは画家でもある。
「奥さん、相変わらず追っかけやっているの?」
「はい、日曜日はホリデージャパンの歌謡フェスタで、渋谷公会堂へ行っていましたね。加門亮、中条きよし、ニック・ニューサ、宮路オサムなどが出ていたそうです」
「奥さん元気ね」と皆さん感心していた。
その日は、元格闘技家の須藤元気さんのおふくろさんと家人は親友で、共に渋谷公会堂で落ち合っていた。
「歌謡フェスタに来るのも、もう最後かもしれない」
そんな弱気なこと言わずに、須藤さんのお母さん元気出して下さいね!
沼田利根

「みんなの花図鑑」に以前は投稿していた

2015-06-03 07:59:18 | 雑記・断片・映像
「おはようございます」
朝の散歩で庭に立っていた植田さん(仮名)に背後から声をかけた。
「咲いたよ。写真撮る?」と振り返る。
木戸を開けて庭へ迎え入れてくれた。
サツキはすでに散っていて、その脇にユリが花開いていた。
さらに右の庭石の脇のサボテンの花も華麗に咲いていた。
アジサイは色を増していた。
改めて気付いたがアジサイはどこにも咲いている。
バラも終わったと思っていたら遅咲きのバラが咲く。
四季バラなのだろうか?
毎日、30~40カットくらいは花の写真を写しており、5000カットは超えただろうか?
「みんなの花図鑑」に以前は投稿していた。
投稿すると花の名前を誰かが必ず付けてくれる。
1週間くらいの投稿数でトップになったこともあるが、パソコンの具合が悪「おはようございます」
朝の散歩で庭に立っていた植田さん(仮名)に背後から声をかけた。
「咲いたよ。写真撮る?」と振り返る。
木戸を開けて庭へ迎え入れてくれた。
サツキはすでに散っていて、その脇にユリが花開いていた。
さらに右の庭石の脇のサボテンの花も華麗に咲いていた。
アジサイは色を増していた。
改めて気付いたがアジサイはどこにも咲いている。
バラも終わったと思っていたら遅咲きのバラが咲く。
四季バラなのだろうか?
毎日、30~40カット暗い花の写真を写しており、5000カットは超えただろうか?
「みんなの花図鑑」に以前は投稿していた。
投稿すると花の名前を誰かが必ず付けてくれる。
1週間くらいの投稿数でトップになったこともあるが、パソコンの具合が悪いので時間がかかるので投稿はやめた。
フリーズする回数が増えるのだ。
一度に30枚くらい投稿できればいいのだが・・・
アマリリスの花やクレマチスの花、クリスマスローズの花なども「みんなの花図鑑」の投稿で知った。
一度、うかつにも造花とは知らずに投稿し、恥ぢをかいたこともある。










レジストリーエラー268

2015-05-29 14:40:46 | 雑記・断片・映像
システム関連エラー78(このコンピュータを使うユーザーに影響するエラー)
ユーザー関連エラー169(Windowsアカウント固有のエラー)
サードダーティ関連エラー(PCにインストールされているプログラムに影響するエラー)
PCの起動時に実行するアプリケーションの数が多いほど、コンピュータを使用できるようになるまでの時間が長くなります。
PCの起動時に実行するアプリケーションを管理し、必要な時に手動で起動するようにしてください。
ジャンクファイル2921ファイル(5.34GB)
PCの各種アプリケーションで作成された不要なファイル2655
インターネットの閲覧時に作成された不要なファイル159



マムシもいた取手東6丁目辺り

2015-05-25 06:53:13 | 雑記・断片・映像
朝の散歩で家の前の道のコンクリートの隙間から出てきた雑草を抜く、近野さん(仮名)に挨拶する。
「ウッス!」と屈んだまま、顔を上げないで草むしりに余念がない。
近野さんの店は以前は居酒屋で、その後は美容室にもなったが今、店舗は閉じたままだ。
地元の店は植田さん(仮名)の洗濯屋や自転車屋、電気屋もシャッターが下りている。
大島さん(仮名)のデイリーストアも閉店を余儀なくされた。
東6丁目の閉店した床屋も昨年、姪御さんの経営と変わったが、1000円カット、1500円カットの店に圧されて経営は苦戦のようだ。
植田さんと昭和30年代の東6丁目の話となる。
「ここから、常磐線が見えたのですが、利根川の堤防は見えたのですか?」と聞いてみた。
「商店があったので、見えなかったな。小森印刷もまだなくて、小川では子どもたちが釣りをしていた。フナやドジョウがとれたんだ」
「そうですか。今、グリーンベルトとなっている用水路の桜はどうでしたか?」
「桜は後から植えたのでまだ咲いていなかったね。そこの岩田酒店(仮名)の脇からへび坂までは、雑草が生えていて、夏はマムシがいたので怖くて歩けなかったよ」
「マムシがいたのですね」
「ともかく、田甫地帯で長閑だったな。土地の人ばかりしか住んでいなかったからね」
「当時の写真など残っていませんか?」
「写真か、ないな。カメラの趣味がなかったからね。あの頃の写真が残っていればな」

深大寺の湧水

2015-05-25 01:00:41 | 雑記・断片・映像
深大寺の湧水
調布周辺には農家も散在する。
深大寺の裏山一帯は関東ローム層の黒ぼく土で「そば」の栽培に適していました。野川周辺でも湧き水の多いこの地は、そばをさらす良質な水が豊富だったことから、日本にそばが伝わった8世紀以降からそばづくりが盛んになりました。
深大寺そばが有名になったのは、江戸時代後期からです。この地に止宿した太田蜀山人が深大寺そばを宣伝し、これが当時の文化人に受け入れられたのです。


国産そば粉8割の限定メニュー
湧水そばをお楽しみください。
深大寺の北に隣接してあるのが神代植物公園。一日では回りきれないほど広大な敷地で、熱帯植物もあります。
特にバラは一見の価値あり。月曜は休園なのでご確認の上ご来園ください。

「外食は、お芝居の観劇の様なものであり」とはかの有名な美食家の名言ですが、美しいバラを観賞して、美味しいそばを楽しむ。調布ならではの行楽です。
そばに含まれる栄養成分のうち、特徴的なものはビタミン類とたんばく質の組成です。
このうち、ビタミン類から見てみると、そばにはB1、B2が多く含まれ、その量は米や小麦の約二倍です。B1については、そばがきなど100%そば粉の状態で食べた場合、わずか100gで成人一日当たりの必要量の40%近くをまかなえるとされるほどです。
さらに、毛細血管を強くして脳出血や出血性の諸病に対して予防効果があるとされて話題にもなったルチンが、豊富に含まれています。これらのビタミンB類やルチンは水溶性のため、茹でている間にどんどん茹で湯の中に溶け出してしまいます。そば湯はその茹で湯であるから、これらビタミン類の貴重な補給源なのです。
「そばならではの甘味を」ということで<そばようかん>は出来ました。
そば湯、さな粉(黒っぽい殻(果皮)がついたままのそばの実。 主に甘皮部分の繊維層なので、風味はある)であずきを挟んだデザートです。






































取手東6丁目から筑波山が見えた

2015-05-16 06:58:54 | 雑記・断片・映像
先月、84歳で亡くなって友人の武田さん(仮名)の叔父さんの生田さん(仮名)が「家の2階の窓から常磐線の電車が通るのが見えた」と言っていた。
「本当だろうか?」と疑った。
取手利根川の常磐線の鉄橋までは約2㌔。
取手小学校や取手二高の丘もあるので、視野は遮られてはず。
だが、昨日の朝、元洗濯屋さんの上野さん(仮名)が、「家の前は全部田圃で、見渡す限り全部が田甫で今の井野団地も無くてどこまでも見渡せたんだ。筑波山も見えたな。無論、常磐線の電車が通過するのも見えた」と言っていた。
当方は、西の利根川の方角までを想定していたが、北側の常磐線の方角約1㌔余は念頭になかった。
「家はそこの床屋と2軒しかなくて、そのうちこの浦の建て売り住宅が2軒できた」と語っていた。
「筑波山が見えたのですね」
「そうなんだ」
現在、筑波山が見えるのは台宿の丘の上。
さらにキリンビールの工場の先の田園地帯まで行かなければ視界は開かれない。
昭和30年代に東京の豊島区から上野さんは越してきたそうだ。
創作のために、その時代を知っている人に話を聞いたこともあったが・・・
改めて取手は田舎だったのだと思い返した。
「取手の美しさは、空間の美しさである」と詩人・高村光太郎は称讃した。
また、正岡子規は「取手は東京出てからは一番繁華な町で西洋風の家を見受けられる」と「墨汁一滴」や「ホトトギス」に記している。

カラオケは1年ぶりくらいであろうか?

2015-05-14 21:30:09 | 雑記・断片・映像
今日は家人と家人の元の職場の同僚で友人の海老原さん(仮名)と3人で午前11時30分から午後5時までカラオケをする。
取手駅近くの居酒屋の庄屋系列の「歌うんだ村」
フリータイムで、一人550円の格安。
ドリンクは飲み放題無料。
日本酒は2合で500円。
他に浦霞は650円、八海山700円であっか?
家人らは焼きソバやラーメンなどを食べるが、当方はタコ焼きカリカリポテトなどをつまみに。
持ち込みのつまみも食べる。
カラオケは1年ぶりくらいであろうか?
一人10曲以上は歌った。
懐メロも多かった。
当方はデータによると15曲も歌っていた。
歌った全曲が確認できるのだ。
6時までフリータイムであったが、それぞれ夕飯の支度もあるので、5時に店を出た。
3人で5000円ほどで楽しめて安かった。

バイク、2台とも盗まれた

2015-05-13 08:13:13 | 雑記・断片・映像

台風と熱帯低気圧の影響で、大風と大雨となる。
どのような朝となるのかと、午前1時ころから心配していたが、起きたら午前4時50分、外へ出ると青空が見えていた。
木の枝、サツキの花、ジャスミ、クレマチス(テッセン)、バラ、梅の実などが道路に散乱していた。
自転車も倒れている。
プラスチック製の植木鉢も落下していた。
ドブ川の水は増水していると思っていたが、いつもの流れであった。
家の前の道を掃除している人が多かった。
「すごい風と雨でしたね」と知人たちに声をかけた。
ところで、昨日会った新川さん(仮名)が「まいったよ」と顔を曇らせて言う。
「どうかしましたか?」と聞く。
「バイク、2台とも盗まれた」
「2台とも?何時ですか?」
「29日、朝、3時30分に起きたらバイクがなかったんだ。
鍵も車輪にかけていたので、動かせないから、2、3人で持ち上げてトラックにでも乗せて行ったんだろうね。プロの窃盗団のやりかただね。知り合いの新聞配達の人は、読売新聞販売店でも1台盗まれたんだ」
「そうですか」と同情した。
「仕事はどうしているんですか」
「辞めた。バス代片道700円かかるんだ。会社まではバス停から10分も歩くからね」
「辞めたんですか」と呆れた。
しかし、2台もバイクが盗まれるとは。
「最近歩いているけど、歩くのもいいね。花をみたり、色々注意して歩けので気づくこともある」と笑顔となる。
弟さんのオートバイは盗まれずに残されていた。








働きたいのだが・・・

2015-05-07 10:39:15 | 雑記・断片・映像
相変わらず、パソコンはフリーズする。
最悪!
これほどイライラすることはない。
新聞を読んだり、テレビを見たり、時間を過ごす。
昨日、午前5時47分ころ知人の奥さんの久保さん(仮名)に会う3年ぶりであろうか?
ミスターマックスで6時から働いているのだ。
「旦那さんは、元気ですか?」
「元気よ」
「まだ、働いているのですか」
「働いているわ」
彼は元イベント会社の営業本部長で海外を飛び回っていた。
定年後は、自宅の近くの商業施設のヤオコウで働いているのだ。
「旦那さんによろしくお伝えください」
「はい、伝えておくわね」
以前は同じ組織で活動していたが、あれから7年経過したであろうか?
学校群制度で組織が変更になったが、その学校も合併となった。
ミスターマックスへ向う奥さんを見送る。
散歩の途次に久保さん家の裏を通っているが、雨戸が閉まっていたので連休は旅行にでも行っていると思っていた。
また、元NECの課長であった隣人の秋田さん(仮名)は今、介護施設で働いている。
自分も何とかこれまでにない分野で働きたいと思っているのだが、惰弱にもパソコンで囲碁・将棋、麻雀などのゲームで時間を潰しているのだ。
「口先だけで、仕事を探しもしない」と家人に冷笑されている。
「食器ぐらい洗ったら、お風呂も掃除してよ」と言われる。
「おふくろが死んだらどうするんだ。何もしないで」と長男が指摘。
「冗談じゃないよ!私が先に死ぬはずないよ!」家人は声を尖らせた。
「末期がんのあんたより、先に死ぬわけないからね」
家人は当方の皮膚を見て、「皮膚がんの末期だ」と決め付けているのだ。
当方の皮膚には黒い大きなホクロが8つもできたのだ。
おでこの黒い大きなホクロ3年前に自然にとれた。
息子たちは「医者に行けよ」と言っていたのだ。ホクロの位置はネックスの首の周辺と胸で金属アレルギーと思っている。
ネックレスは15年付けていたが、3年前に外した。