4月14日夕刻、暫く前から交友のあった篤信のカトリック教徒ゲールさんから電話があって今訪ねてもよいかという。どうぞと言って来てもらうと、一緒に祈ってほしいという依頼であった。聞くと故国南アフリカで懇意にしていた友人が癌で亡くなって、その人と残された奥さんのため、祈りたいと真剣な表情である。今、遥か離れた国に住んでいて、そうするしか方法がないのでお願いしたいという。
そのとき、アパートにほかにもうひとりいたが、別室で静かにしてもらうよう頼んで、二人で祈ることになった。もちろん、ゲールさんが祈る人であり、私は続いて短く英語でつたないながら祈らせていただいた。悲しむ者と共に悲しむ時であり、それが求められていると知り、そのような信仰活動から程遠い者ながら応じさせていただいた。ゲールさんの祈りは友人夫婦に対する誠心と神に対する願いと畏敬の心を深く感じさせるもので、威厳を伴ったものであった。信仰の人である。
この婦人は後日小生との最後の夕食会(4人)の席で、食事の祝福をしてもよいかと断って食事の祝福をし、小生の健康の回復を祈ってくれた。(於中国、ハルピン)。
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まさしく、イエスは主であり神の御子です。御心を求める者は、教派も国籍も問わず祝されます。
この方は人を見抜いて信仰の言葉をかけられる人には、そのように語りかけてくる婦人です。私はなぜか嫌味を感じることなく応じることができています。