
山口県周南市に生れた浅田栄次生誕150周年を迎えて、周南市で10月17日記念祭(講演会)が開かれた。私はそこに1980年から20年住んで、その間に浅田栄次について、友人の河口昭氏から聞いていたので、この催しに参加した。
浅田栄次はシカゴ大学で1893年同大博言科博士号第一号を取得し(論文、「旧約聖書ゼカリヤ書(第1章-第8章)の原典比較研究」)、帰国後東京外国語学校(現:東京外国語大学)などにおいて英語教育に尽力した人物である。
講演会で浅田の孫娘に当たる槌本紀子さんが、浅田の妻ミカ(槌本さんの祖母)の目を通して浅田について、また妻ミカについて興味深い懐古談を語った。浅田と妻は両人とも敬虔で信仰を積極的に実践したクリスチャンであったこと、浅田が女性を尊重した人で、妻ミカは矯風会の理事を務め赤線廃止運動に携わったこと、詩歌を10万首詠み、英字紙を読む知識人であったことなどを、槌本さん自身が凛とした雰囲気で語った。ミカは女性が学問をすることを願っていたと紹介された。
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今日ではもうあまり知られていないが、末日聖徒の学者(神学、聖書学など)が1920, 1930年代に何人もシカゴ大学神学部で学位を得て、ブリガムヤング大学や教会教育部で活躍していた。ウイリアム・H・チェンバレン(1871-1929)(MA取得)から始まって、シドニー・B・スペリーがシカゴ大学神学部で博士号を取得し、BYUで長年宗教教育に携わった。彼とほぼ同時代にヒーバー・C・スネルが行き、ラッセル・B・スェンセンがやはり1930年代に行って、後に日曜学校の教科書を1940、50年代に執筆している。「共観福音書」「ヨハネによる福音書」「使徒行伝と書簡」の立派な教科書である。
分野が少し異なるが、1932年T.エドガー・ライオンがオルソン・プラットについて書いて学位を得、教会歴史家となっている。また、ダリン・H・オークスが法学を学び(1957, J.D.)同大で教鞭を執り、BYU学長を経て現在十二使徒となっている。以上、そのシカゴ大学博言科で最初の博士号を取得した浅田栄次を偲ぶ(日本人として誇りを覚える)と共に、シカゴ大学(神学部)と末日聖徒との深いかかわりについても振り返ってみた。
参考
浅田栄次、明治の国際人
Philip L. Barlow, “Mormons and the Bible: The Place of the Latter-day Saints in American Religion.” Oxford University Press, 1991
Kevin Barney, Mormons at the University of Chicago Divinity School
Russel Swensen, Mormons at the University of Chicago, p. 37-
浅田氏は長州藩に属する家系らしいので、留学費用などの援助もあったのでしょうか?
山口の方は維新の関係か、新政府の加護を受けて様々な特権を有していたのかなと感じます。
自分の力だけで留学するということはまず無理でしょうから、国の期待と援助を受けていた逸材だったのでしょうね。
新政府の重鎮は長州藩の人々であったでしょうから
山口は文化や産業の面で既得権を持っていたのかなとも感じます。
山口には浅田氏以外にも国の加護を受けて育った方がおり、その人が文化や産業を作り出していったような気がします。
そして人脈・・・・ 恐るべし、山口です。
山口の工業はすごいですよね。
かなり税金が投入された地域だと思います。
私は高知と山口のハーフですが、まったく維新の恩恵を受けておりません。
浅田が国の援助を受けていたかどうか、気がつきませんでした。調べてみす。
「30年近く前、浅田を最初に世に問いかけた時、その道を開き後押しして頂いたのが沼野さんです。」
氏の研究に多少なりともお役に立っていたら、光栄である。彼は文武両道に励んで来られた、紳士である。
の奥泉 栄三郎のコメントです。
例えば藩 士・士族の息子たち、殿様の子息など日本に居れば悠々自適で遊んで暮らせるような若者がアメリカに来て、皿洗いからはじめて博士号まで取って日本に帰る。昔は故郷に錦を飾るという気概が強かった。大ロマンがありました。女子留学生も地下鉱脈のように跡を追いました。
「帰米二世」と呼ばれる人達ですが、このようなやり方は必ずしも特殊ではない。頻繁におこなわれていた形跡があります。そういう事をする民族・国民は少なかったんですね。日本人の場合、自分を試してみるという気持ちと、祖国を思う気持ちがあったんですね。 それでは今の若者はダメかというと、そんなことはない。一種の平衡感覚をもって成長していますよ。
・・・・・同志社大学をおこした新島襄・太平洋の架け橋となった新渡戸稲造・医学界の野口英世・民間外交を推進した高峰譲吉などなど、それは多彩です。・・・
浅田栄次はシカゴ大学で初めて博士号(PhD)を授与された明治の国際人です。明治26年(1893年)6月23日のことでした。今でも毎年のシカゴ大学カレンダーにこの事実が印刷されています。日本の英語達人の三傑の一人と呼ばれ、東京外国語学校(現・東京外国語大学)設立に際し尽力し、数多くの優秀な英語教師を育成したことで知られております。日本における旧約聖書研究やエスペラント語普及の先駆者でもあります。
山口県徳山市(現・周南市)の出身ですが、山口には明治の初めに既に英会話学校がありました。山口県の殿様は先見の明を持っていたんですね。海にも面し後ろは山という立地条件は、必然的に青少年を中央に出す、外に出す土壌にもなっていたんです。
シカゴ大学開学第一号の博士論文となった、浅田栄次博士の旧約聖書研究論文を2001年に電子復刻しました。同時に本書には、浅田栄次コレクション(マイクロフィルム)の内容細目早見表と英文評伝などを加えておきました。この作業も浅田家の皆様の協力を欠いては実らなかったことです。浅田博士の孫が現在北米で二つの会社を経営しており、親しく家族付き合いをしてます。
浅田氏にはいい土壌があったのですね。キリスト教と知り合ったことも留学への後押しになったことと思います。
重箱の隅をつつく性格ですが、その性格が災いすることが多い上、表面的な探究しかできませんのでお恥ずかしい次第です。
この性格が山口に起因しているのか、探究してみたいです。
NJ様は長年山口にお住まいだったそうですが、県民性はどのような感じでしょう?
イギリスと喧嘩したり、幕末の志士を輩出した土地ですので、特別な気概≪別の言い方では反骨精神≫を持っているのでしょうか?
私は、不従順で反抗心はありますので、DNAが悪い形で出ているのかもしれません。(T_T)